再起動
この四月から社会人となる為。
大学の下宿先から引っ越すこととなった。
切符を片手に向かう実家。
駅のホームで、呆然と立ち尽くす。
「……」
巡る気持ちは、嘘で誤摩化せるモノでもなく。
ずっと俺を苛み続けて止まない。
大きく吐いた息が空気に溶けた。
久しぶりに、自分の部屋へ足を踏み入れる。
引っ越しをしてからちょっとした物置と化していたものの、ほとんど昔の状態が保たれている。まるで、ここだけ時が止まってしまっているようだ。しかし、それが今の俺にとっては良いことなのかは分からない。
漂う匂いから思い出すのは、悲痛な記憶。眉を顰める。
大学生活中、帰省する度に思い出される記憶があった。いや、「強く」思い出される、だけであって、常日頃からずっと俺は抱えこんでいる。こうやって大学の卒業を控え、就職も控えた今でも、心臓を押し潰されるような感覚に陥ることは幾度もある。全部、俺が原因であるのだから、自業自得で。誰の責任でもない。むしろ、これからずっと俺はこの気持ちと付き合って行かなければならない。
これは、罰だ。
「ファイア、何か必要なものありそう?」
一足先に社会人となっている兄のレッドが部屋へやってきて、そう声をかけて来た。今日は、大学で一人暮らしをしている場所から社会人として過ごしやすい場所へ引っ越す都合で、実家の物も見に来たのだ。
しかし。目に入るのが基本的に、高校生以前に使っていたものばかりで。精神的に、追い討ちをかけられている。
「このダンボール使って良いからね」
「さんきゅ」
「にしてもファイアが社会人かぁー早いよねー」
「兄貴だってもう三年目ぐらいになんだろ?」
「はは。それもそうだけど」
じゃぁ下にいるよ、と階下へ向かった兄。ダンボールを持ったまま、俺は動けなくなる。まるで金縛りにでも遭ったように動けない。一歩を、進める勇気が中々出て来ない。
慎重に息を吐いて、一度深呼吸をした。
「……よし」
ズタズタに切り裂かれるのを覚悟して、俺は部屋の荷物を探し始めた。
***
作業が済み、ダンボールにガムテープを付けて、終了した。少し汗も出て、喉が渇く。飲み物を得る為、階段へ向かった。
しかし、階下へ向かえば心臓が止まる。
「よぉ、ファイア」
レッドと何かを話す、―ーーグリーンの姿があった。
本当に、少し容姿が似ているのは考えようだ。
ドッと吹き出した冷や汗が服に染み込んでいる。
鼓動が妙に早くなっていった。
「久しぶりだな、今日泊まるんだろ?」
「……あぁ」
「今晩、飲みに行こうって話、してたんだ」
明日は俺達仕事だから、そんなに遅くまで飲めないだろうけど。と付け加えたグリーンに、俺は嫌な予感ばかりした。この三人が揃うのなら―ーー。
「リーフにも言っておいたから、皆で行こうぜ」
ずっと。避け続けて来たのに。
この四年間。帰省する度にずっと、会わないように、と意地でも行動をしてきた。言い訳をしてきた。ちょっとでも視界に入らないように、必死で。
それが俺のすべき行動であった。相手にとっても、それが幸せであると理解していたから。きっと俺の存在は、あいつに重圧になると思った。
彼との関係は。高校の卒業の日に、崩壊した。
とても、取り返せるものでもなく。
俺は自分自身で、断絶したのだ。
泣きながら抱きしめた身体の感覚は、未だに両手に残っている。
耳に残る「ありがとう」の言葉は、脳の奥へ埋め込まれた石に等しく。
きっと俺が死ぬまで、消えることはないだろう。
瞬きも出来ず、上手く返答も出来なかった。目を泳がせている俺は、とても奇妙であった。レッドが首を傾げている。グリーンも訝しんでいた。まずい。
「ファイア、どうした」
「ぁ、ぃや」
「顔色、悪い。引っ越しの事とか、いっぱいあるし。疲れ溜まってるんじゃない?」
気を利かせてくれたのか、兄貴が冷蔵庫からスポーツドリンクを投げて寄越してくれた。
そういうのを飛ばす為にも、今日は飲もう。と。言ってくれるけれど、逆にそれが多大なる負担になるとはやはり、俺は言えなかった。
兄貴達は俺とリーフに何があったのかなんて、知らないままだ。当然だけれど。俺もリーフも、言ったことなど無い。共犯者である俺達の、二人だけの、秘密。
どんな顔をして行けば良いのか。
処刑台に向かう罪人の気分だ。
身体の芯が凍り付いたまま、時間が迫るのをただ、待つしか無い。
二人に気付かれないように、痛くなる心臓を、右手で抑えつけた。
***
あの後、グリーンが先に帰っていった為、居酒屋へ向かう時は兄貴と共に家を出た。どうにか気持ちを前向きにしたかったけれど、足取りは重い。気持ちはこんなにも素直に身体へ影響するのか。やってられない。
「リーフも元気かなぁ。俺も全然会ってない」
それに比べて、兄貴は和やかだ。そのテンションと折り合いも付かない。そうだな、と心の籠らない返事をして、暗くなり始めている空を見上げて歩いていた。
「そういえば。ファイアはリーフとは連絡取ってなかったの?」
「……そんなに」
「そっか。まぁ、離れて暮らしてるとそうなるよね」
「まぁ」
「昔はあんなに良く遊んで仲良かったけど、物理的に距離あると難しいよねー」
内心、冷や冷やしながら兄貴の言葉を聞く。
これ以上何か尋ねられて、返答に困るような事態に陥りたく無い。あいつが目の前に居なくても、こんなに心の中で避けているのだ。この状態でもし会ってしまったら、一体どうなる。
逃げ出す自分しか想像出来ない。
「見えたよ」
兄貴の声に重たい首を動かした。
喉が急速に渇いて行く。
目的地の居酒屋の入り口に、二人立っているのが見えた。
「おー時間ぴったしだな」
グリーンが手を振っている。
その横に、居た。
「……」
数年ぶりに、まともに顔を見る。
表情が少し、強ばるのが分かった。俺も、相手も。
お互い、同じ気持ちであるに違いない。
それがまた、胸に小さな針を突き立てる。
どう言葉を発したら良いのか。
「リーフの奴、なんか緊張してやんの」
はは、と笑いながら背中を叩くグリーンに、リーフは曖昧にしか言葉を返していなかった。
とりあえず揃ったので店に入るが、席順だって自然と決まってしまう。俺の嫌な予感の通りだ。
レッドとグリーンが隣で、俺とリーフが隣。地獄に突入した。予想は出来ていたけれど、実際その場になればこれほど辛い。
「ファイアとリーフの社会人記念に、乾杯!」
全員がそれぞれ生ビールを持って、グラスがぶつかり合う。
部屋は個室で掘り炬燵形式だ。照明も暗めで、演出重視の居酒屋だった。本来であれば気持ちをリラックスさせてくれる空間であるはずなのに。
つまみを口に運ぶけれど、味が良く分からない。唯一の救いは、リーフが目の前に居ないことだ。横にいるだけ、まだ視界をズラそうと思えばどうにか出来る。だが、気が気じゃない。
リーフが何を考えているのかが分からなくて恐怖だ。多分、それはリーフもだと思うけれど。
レッドとグリーンが主に会話を繰り広げている中、どうにか笑顔を作って受け答えする。だが、俺とリーフの間で会話が起こることはほぼ無かった。
「そういやぁファイア、お前、彼女とかいねーの?」
途中の会話で。グリーンがにやにやしながらそう尋ねて来た。その手の会話は大学でも慣れていたし、普通に事実を答えれば良いのだが。
リーフが隣にいる現状では、すぐ答えることが出来なかった。
俺は結局、この大学生活中に、誰かと付き合うだなんてことは、出来なかった。そう、出来なかったのだ。どうしたって、いつでも、思い出してしまったから。誰かのことを「好き」になるとは、一体なんなのか。俺にはもう分からなくなっていた。残り続ける罪悪感ばかりが、浮かび続けていた。
「雰囲気的には絶対いると俺は踏んでるんだが」
「いや案外、奥手かもしれないけどね」
「はは。レッド、それお前のことだろ」
「……グリーン」
「で、どうなんだ?」
レッドが不貞腐れた顔をする。それを置き去りにして、グリーンは話を進める。
俺は、頭の中で巡る二つの選択肢を、選びかねていた。だが、最終的に。
「―ーーーいる、よ」
嘘だ。
頭の内側から、何かが叩き付けられて来る。じんじんと痛んでくるが、それでも俺は。
「へぇ。どんな子?」
「サークルの後輩で」
「可愛い?」
「まぁ、可愛い、かな」
「良かった」
ボソッ、と。
唐突に隣から聞こえてきた呟きを、見逃さなかった。
瞠目して、思わず横を見ると、リーフが少し息を吐いた。
直後、笑顔の横顔を見た。
本当に久しく見ていなかった、リーフの笑顔だ。
「ちゃんと恋人、いるんだ」
良かった、と。その安堵の表情に、俺は何も言えなくなってしまった。
スッ―ーと全身の血が引いた。足の指から脳天まで、凍死してしまったかのように感覚がなくなる。
それは、一体どういう意味なのか。その安心した顔は、一体何を示している。俺に対して、何が言いたい。湧いた衝動を押さえつけることが出来るのか、自信が無くなる。
あぁ、なんだ。俺、全然何も、変わってない。
今すぐにでも、リーフの首を両手で締め付けたくなった。駄目だ。それこそ、本当に終わってしまう。考えてはいけない。これ以上、無意味でどうしようもないことを。
それなのに。俺の脳内に、ピィンと張りつめた空間が広がった。少しでも別の衝撃が加えられたら最後だ。俺は、きっと。
「なぁんだ」
グリーンが、心底つまらなさそうな顔をして、酒をあおっていた。
そのおかげで、俺は現実に戻って来ることが出来た。急に目が覚めた気分。
しばらく息を止めていてしまったのか。心臓がバカみたいに跳ねる。不自然になりそうだった呼吸を誤摩化そうと、残っていたビールに一気に口を付けた。
「おいおい。あんま無理すんなよー」
茶化すように言われて、案の定、噎せ込んだ。それでも、俺は酒を飲んだ。アルコールに縋りついたのだ。こんな記憶、全部無くしてしまった方がいい。そうなればまた、誰もにとっても良い結果となる。
リーフに、聞きたくて聞きたくてしょうがない感情を、どうにかこうにかすり潰さなければ。俺が必死に築いてきた壁が崩壊する。こんな経験を、一度、俺はしているのだ。
そうして、覚えているのは。崩壊させた後の結果だ。
ロクなものじゃない。
過去を、繰り返してはならない。
ーーーーそうやって、学習したはずなのに。
俺は本当に、馬鹿でどうしようもない、ガキだ。
***
「よっしゃ、そろそろ切り上げるかー」
酒も進んで皆がそこそこ出来上がったぐらいで、グリーンが声をかけた。今回は兄貴とグリーンの奢りであったから、俺がいくら酔ったところで財布を取り出す必要はなかった。おそらく、一番飲んだであろう俺は予想通り、足元が覚束ない程度に酔っていた。
このまま、兄貴の肩でも借りて帰る計画であった俺は、そのままどうにか外に出て勘定が済むのをリーフと待っていた。その間も、決して目は合わせない。しかし、リーフの雰囲気が待ち合わせの時よりも和らいでいるものだから。それがさっきの俺のセリフによってもたらされているのは明らかで、ーーーーーー腹が、立っていた。
酒の気持ち悪さと、感情の気持ち悪さが合わさって、俺は酷い顔をしていたと思う。
だが、直後に、俺の顔は青ざめた。
「じゃぁ、俺とレッドはこのまま二次会だから。お前ら、勝手に帰っていいぞー」
兄貴とグリーンが外へ出てきたかと思えば、開口一番にそう言った。そのまま、二人で家とは反対の方角へ歩き出している。どうやら、最初から二次会をすることは決めていたようだ。
「あ、ファイア。リーフに迷惑かけるなよ」
ついでと言わんばかりに、兄貴から声が飛んできた。
迷惑と言われても。この状態で一人でまともに帰れると思って居るのか。怒鳴ろうとする体力も無かった俺は、ぐらっと揺れる視界に抗えず、座り込んだ。これではリーフ以前に、公衆に対する迷惑になる。
リーフはリーフで、まさかこんな展開になるとは思ってもみなかったようだ。きっと、彼もグリーンと一緒に帰るものと思っていたにちがいない。
「ファイア、大丈夫か」
座り込んだ俺と視線を合わせるようにしゃがんできたリーフ。再会してから初めて名前を呼ばれた。耳元がくすぐられる気分で、ーーーーー泣きたくなる。
「先、帰ってくれ」
情けなかった。こんな俺が。
いつまで経っても、変わっていない。
アルコールのせいで涙腺が緩んでいる、という言い訳で。でもその顔を決してリーフには見せたくなかったから、俯いたまま告げた。
きっとリーフはこんなことを言っても先に帰らないことを分かっていた。それでも、俺はリーフと一緒に帰ることを拒絶したかった。
「水、取ってくる」
近くの自販機に向かって行くリーフを止められない。油断すれば溢れそうだった涙をすぐ拭った。鼻水も出てきそうだ。本当にクダラナイ。
しばらくすればリーフが帰ってきた。天然水が入ったペットボトルの蓋が開けられた状態で差し出される。のろのろと受け取って口をつければ、冷えた水が喉を冷やしていく。けれど、煮えたぎる腹の底までは冷やしちゃくれない。
「立てるか?」
差し出された手が見えた。もう、その時点で俺の意識はほぼぶっ飛びかけていたものだから。きっと本能の部分が剥き出しになっていた。それに抗おうともせず、俺は意志に従うことにする。
グッと握ったリーフの腕と共に、一気に立ち上がってみる。一瞬、ふらついた体をどうにか耐えると、思ったより視界は正常だった。リーフは、呆気に取られている。
そのままいきなり歩き出した。決して腕は離してやらない。一歩足を踏み出せば、逆に止まれなくなってきた。家に向かっている道ではあったが、どこに向かっているのかは俺にも良く分かっていない。
「おいっ、ファイア!」
何度か名前を呼ばれていた気がするが、一際大声でリーフに呼ばれた時にやっと、立ち止まった。もう俺の家が見える寸前。リーフの実家はもう少し先だ。少し上を見上げてみれば、馬鹿みたいに、星が綺麗な夜だ。
「ッ痛ぇ、離せって」
アルコールは確かに、頭に残ってはいたが。意識はほぼはっきりしていた。後ろを向いて、手を振り払ったリーフを見て、俺は瞠目した。
デジャブだ。リーフの顔に、恐怖が伺えた。何故だろう。そこには怒ったリーフの顔があるはずだったのに。
「何なんだよッ」
それはこっちの台詞であったのだけれど。
なんだか、このやりとりにも覚えがあるような気がしてきた。もはや過去の記憶と今がぐちゃぐちゃだ。
それでも。俺たちは数年を重ねて、大人に近づいたはずだった。それなのに、このリーフの姿は、まるであの時と変わっていない気がした。
俺だけが、変わっていないと。思っていた。
「ーーーーーーーーリーフ」
再会してから、今度は俺が初めて、名を呼んだ。
それに驚いたのか、彼は俺をまっすぐ見た。
直後に口から溢れた想いは、止められない。
「俺、彼女なんて、いない。ずっと、ダメだった。結局、大学中に、誰かと付き合うことも出来なかった」
「ーーーーー何で」
「聞くなよ、分かってんだろ。俺は、そもそも、誰かを好きになる資格、なかったんだ。いっつも、お前のことばっかりッ」
喉が詰まる。さっきまでどうにか我慢していたが、もう無理だ。ずっと抑え込み続けるには、限界が来ていた。
「ずっと、あの時から、罪悪感で、潰れてる」
言い訳ばかりがごろごろ飛び出してくる。
同時に漏れる嗚咽を止められない。
リーフのせいでは無いのに。責任を押し付けようとしている俺は本当に、最低だ。
そうしてしばらく何も言えなくなった俺に対して、リーフはようやく口を開いた。声が震えているのがよく分かった。
「ーーーーーーどうしてだよ。お前が、さっき彼女いるって聞いて、安心したのに。俺だけで良かったんだ、こんな想いしてるのは。俺たち、あの日、共犯ってことで、纏まったはずだろ。だからファイア、お前がそんな風に思うことなんて、無いんだ。……なぁ、泣くなよ」
星も綺麗に見えるこんな夜に、男二人が人気の薄い夜道で泣き合っている様は、本当に滑稽だ。どうしようもない、バカだ。
それでも、俺たちはどうにもこの溢れる感情の行き場に整理をつけることは出来なかった。
欲しかったのは温もりだけ
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