幼馴染コンプレックス


あいつの方が俺よりも出来る奴だっていうのはずっと前から分かっていることだった。

 基本的に学校の成績はいつもあいつの方が上だったし、何かしらの賞を取る回数だって多い。スポーツだって何をやらせてもすぐこなしてしまって、俺の得意分野なこともあいつにやらせてしまえばすぐに追い抜かれてしまう。世の中なんて理不尽なものだ。唯一の救いがあるとすれば、俺の方が友達が多いって所か。あいつは無口で口下手で人との交流だけは下手クソだから、そこだけは誇っても良い。しかしそこだけしか誇れる所が無い、というのも事実。
 あぁもう嫌だ嫌だ。そんなことばかり考えているから苛立ちが溜まってしまうんだ。しっかりしろ、俺。 パンッ、と両手で両頬を叩いてみれば現実世界へと帰って来た。目の前には作業途中で止まっているパソコンの画面。今日中に終わらせるべき仕事だ。現在の時間はもう夜の十一時。本当ならば退勤していないとならない時間。
 今日は三人の弟達にも遅くなると伝えておいたから、俺が家に帰って来るのを待たずに夕飯を済まして皆がそれぞれ行動しているだろう。本当にしっかりした弟達を持ったものだ。母さんも父さんもいない家庭でここまでやってこられたのも、一重に頼もしい彼らのおかげだ。しかし最近、仕事が忙しくてあまり交流が出来ていない。ホームシックならぬブラザーシックに陥っているのではないか、と自分で疑ってしまうくらいだ。
 仕事が忙しいことはきっと幸せなことで、贅沢なことなのだろうけれど、さすがにここまで毎日毎日忙しいと疲れも溜まって上手く頭が回らない。だから思うのだ。もしあいつならば、俺なんかよりももっと効率良く仕事を終わらせて、とっくに帰宅して、弟達に癒されているんじゃないか、と。俺にもっと能力があればこんな仕事とっとと片付けているのだろうに。残念ながら目の前で光るデスクトップには俺を責めるかのような文字の羅列が広がっている。いい加減に眉間と目が痛くなってきた。ちょっと休憩しよう。

 眠気覚ましのコーヒーはとっくに冷めてしまっていて、飲めば確かに味は美味しいのだけれど、心まで冷えて行ってしまう気がした。誰が嬉しくて一人だけ職場に残って作業してるんだか。節電の為に消され沈黙している他の蛍光灯と、俺の机の真上にある蛍光灯は光ったまま。まるで俺だけがこの空間に映し出されている気分だ。誰も見てなんてくれないのだけれど。何だか無性に寂しくなってくる。

 そんな時に限って丁度良く携帯が鳴るのだから、あいつには千里眼の能力でもあるんじゃないかと疑ってしまう。

 ―もしもし―
「なんだよ、俺今残業中」
 ―うん。知ってる―
「嫌がらせか、切るぞ」
 ―ちょっと待って。後どれくらいで終わりそう?―
「もうちょいだ。後五行ぐらい」
 ―分かった―

 プー、プー。と向こう側から切られてしまった。何てあっさりとした会話だ。はぁ、と息をついてキーボードと睨めっこ。もう少しだ。もう少しで帰宅準備を開始することが出来る。頑張れ、俺。一人で応援したって惨めなだけだけれど、本当に帰りたい。でもお風呂に入って布団に入ればまた朝早くから仕事だ。いい加減にこのローテーションから脱却したい。休日もほとんど疲れを取るためにしか時間を使っていない。本当ならばもっと趣味を広げて有意義に時間を活用したいのに。
 生活していく為に稼ぐことは必要だとは言え、心にとっての稼ぎは全く無いのが現状だ。精神的な潤いが欲しい。例えば彼女とかを作れば解決したりもするのだろう。生憎、俺にはそんな人いないけれど。いい加減にお見合いでもしなきゃな。そう思ってこれで何年目か分からない。弟達にまで心配される始末なのだから、本当に救いようが無い。仕方ないじゃないか、こっちとしても出会いが無くて困っているのだから。それなら俺と結婚してもいいって女を連れて来てもらいたい。是非。 

 やっとのこと仕事に区切りがついたのはもう十二時をまわってしまった頃。とりあえず早く家に帰りたい気持ちばかりが焦ってしょうがない。乱雑に鞄へ物を放り込めば、すぐ会社のエントランスへ向かう。とっくに電気が消えたビルはただ不気味だ。とっととこんな所脱出したい。自然と足早になる。自動ドアも閉まってしまっているので、右端にある扉から外へ出た。オートロックの掛る音を微かに聞き届け、まだちょっと肌寒い外気が首を滑った。そうだ、今日はマフラーを忘れてしまったんだ。空気の冷たさがウナジに触れる。ぶるっと体を震わせた後、星の綺麗さを堪能する余裕もなく、すぐに帰路につこうとした。しかし。

「緑」

 掛けられた声と近づいてくる足音に吃驚して思わず肩が跳ねる。急いで振り返れば先ほどの電話の主が佇んでいた。どうしてこんな所にいるんだ。

「僕も今日残業だったから」

 電話して確認し待っていた、と。
 コイツの会社は俺の会社よりももうちょっと遠い。電車で二駅分程だ。その時間差が上手く俺とコイツをこの場に呼び寄せたようで。わざわざ俺を迎えに来たその根性は評価したいが、なぜ?
 奴の考えが読めないで突っ立ったままでいると、いつの間にか俺の首元にマフラーが巻かれていた。ふわっと夜風に流され香って来たのはコイツの香り。わざわざ自分のを外して俺に掛けてくれたらしい。もしこれを女の子がしてくれたなら俺も万々歳なのだが、幼馴染でお隣に住んでいる男のコイツにされてもさして嬉しくは無い。

「あのなぁ、こういうのは彼女にでもしとけって」
「彼女なんていないよ。それに寒そうだったから」
「そりゃどうも。でも赤も寒いだろ? 無理すんなって」

 巻かれたマフラーを外して返そうとしたが、腕を掴まれてしまって止められる。こうなると絶対にコイツは貫き通すタイプだから、俺も抵抗はしなかった。せっかくなのでそのまま掛けられたマフラーにあやかることにする。確かに暖かいのは事実だし。まぁ、無くても平気だと主張するならそれを通してやろうか。どうせ帰り道はほぼ一緒なのだから、家に入る前に返せば万事解決だろう。

 幼い頃から良くこういったわけの分からない行動をしてくるけれど、その真意を汲み取れたことは一度として無い。何を考えているのか全く読めない。幼馴染であれば多少の勘というものが働いても良いはずなのに、どうしてもコイツの思考回路は掴めないのだ。俺の弟達とコイツの弟達はお互いに少しは考えを共有出来ているようだが、長兄である俺だけがどうしても無理。不甲斐無いものだ。
 あぁそうか、こういった所も気に喰わないのだ。だって、向こうは俺の考えをあっさりと読んでくるのに、俺だけが理解できないなんて。あたかも俺は単純な頭であるような気がして。悶々としながら無言で歩いていると、不意に肩を叩かれた。なんだ、と相手の方へ視線を飛ばしてみると、その頭の後ろから見えた流れ星。

「……ぇ」
「なんとなく。流れる気がした」

 本当に、コイツは預言者かなんかじゃないだろうか。いや、それを売りにしている人も顔負けだ。お手上げ。空いた口が塞がらない。
 なかなか粋なことをしてくるが、かといってそれがどうしたという。お願い事を三回言え、とでも言うのだろうか。それならば俺のこのストレスを全て取り払ってくれるように全力でお願いするだろう。もう消えてしまった流れ星では意味が無いけれど。

「緑がちゃんと休めますように」

 ぱんぱん、と柏手が不意に俺の隣から聞こえて来た。どうせなら自分の為に祈れ。っていうかもう間に合っていない。だなんてそんな言葉は全て胃の中に落っこちて溶けてしまった。まさか俺の為の願いを口にしてくれるとは思わず、穴が開くんじゃないかというくらいコイツの顔を凝視した。一体どういう風の吹き回しだ。このマフラーといい流れ星といいお願い事といい。

「なぁ、お前何考えてんの?」

 もう自力で読むことは不可能だから、単刀直入に尋ねてみた。それに目を丸くしたこの幼馴染は、その後すぐに柔らかく笑った。少ない街灯であるはずなのに、その表情はえらくはっきりと見えたのだ、俺の目には。

「内緒」

 やっぱりどうも、コイツの方が上手な気がしてならない。
 ちょっとムッとした唇を突きだした後、すぐに引っ込めて借りたマフラーをさらに鼻まで引き上げた。 大の大人が仲良く家に帰って行く光景。小学生や中学生の頃は当たり前にしていたことだけれど、この歳にもなればただの違和感しか残らない。子供の頃は平然と俺の隣を歩いていたコイツはどう思っているのだろうか。未だにあの懐かしい記憶のまま、俺と歩いてくれているのだろうか。そうであったらどうだろう。嬉しい? 微妙?

 寒さにより鼻が擽られてしまって、クシャミを一つ。すると、それにつられるかのように幼馴染もまたクシャミをした。それが何だかとても可笑しくて、喉で笑ってしまう。流れ星を予見できる男は、俺なんかのクシャミにつられる。それが分かった途端、何だかさっきまでごちゃごちゃと考えていたことがちょっとバカらしく思える。くだらないコンプレックスはくだらない仕草で掻き消すのが効率が良いのかもしれない。そんなことを自覚した年度末。


 タマにはこんな夜が有ってもいっか、だなんて思ったこの時の俺は気づけなかった。残業中に抱えていたストレスがほぼ心の中から消えてしまっていたことに。やっぱりコイツは魔法使いかなんかじゃないだろうか。


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