俺が扉を開いた部屋に散乱していたのは。
 女物と男物の服に下着、強烈な香水の香りと煙草に臭い。

 俺の記憶にあったのは。一緒にゲームをして、一緒に漫画を読んで、一緒に寝っ転んだ、思い出の詰まった部屋であるはずだった。
 それが今となってはどうだ。陰鬱で薄暗い、まるで戦場だ。地雷や機関銃があるわけではない。ただ、それらと同じ威力を持ってして俺の全身に襲いかかって来た光景。蜂の巣にされた気分だ。実際、俺は何も発言することが出来なくなってしまった。喉を潰されてしまったに違いない。
 完全に棒立ちになってしまった俺。しかし、扉を開いたことで光が差し込んでしまったせいか、刺激を与えてしまったのだろう。部屋の奥にあるベッドの中で、一つの物体がもぞりと動いたのが見えた。生き物がいた! こんな人間の醜い汚らしい感情を全て詰め込んだ部屋の中で! その正体はおそらくきっと、腐敗臭を撒き散らす世にも見事な社会の廃棄物であるに違いない。

「―――――ぁ? レッドか?」

 だから。まさかそれが、俺の幼馴染みでライバルであるはずがないのだ。

 気怠そうな、寝ぼけて細まった瞳と完全に視線が交わる前に、俺が耐えきれなくなって部屋を飛び出したのは正解だった。
 あのまま逃げ出さなければ、きっと俺は心臓をぐるぐると血液が逆流するような感覚に耐えきれず、吐いていたに違いない。








 幼い頃にセキエイリーグにおいてチャンピオンとなった俺は、その後は様々なポケモンと出会う為に多くの地方を旅していた。本当は、幻のポケモンであるミュウをどこかで追い求めていたのだろうけれど、俺にとってはその過程で出会えたポケモン達の方が重要になってきて。今では図鑑も最新のバージョンで、おそらく俺よりも多くの種類のポケモンと出会っているトレーナーはいないだろう、と自負出来るに至った。歳はいつのまにか二十歳を過ぎていた。あっという間の日々であると同時に、随分と故郷を離れていることにも気が付いた。
 だから、足を向けたのだ。そして、久しぶりにカントー地方へ帰って来たからこそ、真っ先に会いたいと思ったのはいつでも俺を見守ってくれている母さんに、小さい頃からお世話になっているオーキド博士に、俺が胸を張ってライバルと呼べる彼だった。
 マサラタウンの地を踏んで、まずは実家に帰る。母が笑顔で迎え入れてくれた。時折連絡を取っていたのだけれど、それでもちゃんと顔を見ることで俺もどこかでホッとしていた。互いが健康で無事にいられていることに感謝をした。

「母さんが元気そうで良かった」
「レッドも怪我がなくて無事で良かったわ。帰って来てくれてありがとうね」
「俺の家なんだから帰ってくるのは当然だろ?」
「ふふ。そう言ってくれることが何よりの幸せね」

 久しぶりのご飯が胃に沁みて、思わず泣きそうになったけれど。恥ずかしかったから我慢した。きっと母さんは俺のことなんて良く分かっているだろうけれど。
 晩ご飯を食べながら。他愛無い話をして。母さんも凄く楽しそうに俺の旅の話を聞いてくれるものだから、俺も話が止まらなかった。かつて、俺の遊び話を聞いてくれた時の、暖かい感情が胸を包んだ。

 そうやって。ずっと終始笑顔が溢れる空間であったのに、どこから亀裂が入り始めたのは。
 母さんのちょっとした、一言。

「オーキド博士にはまだ挨拶してないのね?」
「うん。明日にでも行くよ。お世話になったし。図鑑のバージョンアップとか他地方の研究者を紹介してくださったり」
「頭が上がらないわね。何か差し入れ持って行く?」
「俺の旅の話が何より土産になるって言ってたから、存分に話してくるよ」
「………グリーン君には」
「グリーンにも明日会えたらいいなぁって思ってた」
「そぅ」

 母さんの表情が曇るのを見逃さない。だが、その理由が分からない。
 違和感を抱いたけれど、すぐに先ほどと同じように笑顔になる母さんに、俺は引っ掛かりを残しながらも母さんに尋ねることが出来なかった。今から思えば、嫌な予感がしてしまったからだ。俺はその時、それがどれほどの「嫌な予感」であるのか認識することが出来なかった。だから怖くて、一歩を突っ込めなかったのだ。
 後回しにしたって良い事はない。そんなこと、どこかでずっと分かっていることだったのに。

 次の日、俺はオーキド博士に会いに行った。かつて嗅いだ懐かしい論文や書籍の臭いに包まれて、俺はちょっと昔の記憶が呼び戻される感覚になる。
 研究で少し疲れが見えていた博士は、それでも本当に喜んで俺の事を受け入れてくれて、研究室の椅子に座って互いに多くの話をした。ポケモンという共通点があれば、歳の差なんて本当に関係がない。いつまでも盛り上がって、しかし、どこかでずっと聞かなければならないことがちらついて離れなかった・
 
「あの、博士」
「なんじゃ」
「グリーンなんですけど、最近どうしてますか」

 俺が尋ねることに、何の違和感もないはずだった。だって俺は小さい頃からグリーンのライバルで、幼馴染みだ。彼の事を俺が伺う発言をすることは、オーキド博士からすれば自然なことであるはずで。
 しかし。俺の質問に博士は声を詰まらせてしまった。一気に表情が青白くなるのを見逃さない。一体、何が博士をそうさせているのか。俺は何も分からなかった。それでも嫌な予感が何百倍にも広がったことだけは分かった。

「―――――グリーン、は」






 そうして。俺はグリーンの部屋の扉の前まで来ていた。
 かつて。ポケモンを貰って、共に旅をして、時には協力したり、時には喧嘩をしたりで、それでも最終決戦を迎えることが出来た俺達には、何モノにも変えられない絆があると思っていた。
 それはいつまで経っても色褪せることなく、俺達の関係を証明し続けてくれるモノである。例え俺が死ぬことになったって、きっと。そう、信じていたのは俺だけだったのかもしれない。

「……」

 ドアノブを開けて、冒頭に戻った。
 広がっていた汚染空間は、俺の信念を木っ端微塵に吹き飛ばすには十分の光景で。息が出来なかった。畜生。腸が煮えくり返ると同時に、驚く程静かな悲しみが襲った。

 グリーンは簡潔に言えば、ポケモントレーナーでなくなってしまっていた。寝て、遊んで、また寝て、それを繰り返すだけの、人間。トキワのジムリーダーを過去に勤めていたこともあるようだけれど、その堕落した態度のせいで数年で辞めさせれてしまったとオーキド博士に聞いた。ジムリーダーだなんて、俺からすれば尊敬のポジションであるのに。グリーンは、あっさりと自ら降りたのだ。信じられなかった。
 世間ではそんなグリーンがちょっとした話題になっていた時もあったようで。オーキド博士は随分と苦労したらしい。だが問題は。どうしてグリーンがそんなことになってしまかったかというところで。俺は、それを聞きたくて部屋を訪れたのに。
 現実が襲いかかって来て、逃げ出してしまったのは。単に、俺がそれほど強い人間ではなかったからだ。許せなかった。俺は、こんなにも弱い人間であったのか。情けない。

 ベッドから顔を出したグリーンの表情が、俺の知る彼では無かったから、防衛本能が働いたのかもしれない。あれをグリーンと認めてしまえば、本当に俺が崩壊してしまいそうだったから。
 急いで実家の自分の部屋へ飛び込んだ。ここでなら、俺は安寧に浸れる。傷つく事も無い。無意識に癒しを求めたのだと思う。
 母さんが心配な顔をして帰って来た俺を出迎えたのも、グリーンの事情を知っていたからだろう。俺に告げなかったのは、きっと俺自身が確認をした方が良いと考えたからに違いない。それは正しい判断だった。きっと、母さんの口から聞いていても、何一つとして信じられなかっただろうから。

 部屋に籠って、ベッドに仰向けになった。天井を眺める。何も考えないようにしようとした。どんどん視界に砂嵐が起これば眠気が襲ってきた。あ、これは上手く行く。このまま寝てしまって、明日の朝には綺麗さっぱり。俺の現実に戻る。何事も無かったように一日が始まって、今度はどこを旅しようか考えよう。

 それで。俺の世界は元通りだ。はは。ざまぁみろ。



「おーいレッド。帰って来たならそう言えよ」



 なぜか俺の目の前に、グリーンの顔があった。

 窓からの不法侵入だ。即刻、排除しなければならない。
 という気持ちと。
 あ、俺のライバルで幼馴染みだ。
 という気持ちがぶつかって。俺の拳が暴走してしまったのは仕方が無い。

 部屋に、バキッ――と軽快な音が響いて。グリーンの顔が真横に飛んで行った。ついでに体も吹っ飛んで行った。何が起こったのか俺が一番良く分かっていなかった。なぜなら、ほぼ無意識に拳を振るってしまっていたから。
 そして俺のベッドで片頬を抱えて悶絶するグリーンを、呆然と眺める。どうやら痛みで声が出ないらしい。どうやら渾身の力で殴ってしまったようだ。口の中が切れてしまったかもしれない。

「ぉ、っ、おま、ぃきなり」

 しばらくして。咽せ込みながら切れ切れでもようやく言葉を発し始めたグリーンが、俺を睨んでくる。おそらく痛みのせいだけれど、涙も浮かんでいた。それでも俺は何も言えなかった。記憶よりも大きくなっている体に、より太くなった声。先ほどの腐敗物で満たされた部屋にいた住人。俺の鼻を突いたのは香水と煙草。一気に湧いた怒りと悲しみ。
 ようやく。俺は言葉を発した。グリーンに対して。幼馴染みに対して。ライバルに対して。久方ぶりの第一声は。

「帰れ」

 きっと。相手も俺の声に驚いたのだと思う。
 変声期は向こうの方が早かった。だからグリーンの記憶に残るのは、まだ高めだったあの頃の俺の声。今では比べ物にならないに違いない。それは俺が成長をしたことを証明してくれる。
 グリーンが目を丸くした。状況が理解出来ていない顔だった。歯を噛み締めて、今度こそ俺は怒鳴ったのだ。心の底から。

「気持ち悪ぃ」

 俺から嫌悪を示せば。何かしら気づくこともあるのではないかと。希望を持っていた。それは、まだグリーンが、グリーンの中にある俺の存在が、まだもしかすれば大きいかもしれないという自惚れ。
 分かっていた。俺は期待していた。グリーンの目を覚まさせることが出来るのは、俺しかいないという根拠も無い自信があることを。ほら。俺の言葉に傷ついて、涙でも零すグリーンがそこに!

「なんだよレッド。お前、ショックでも受けた?」

 いたのは、ただ意地の悪い笑みを浮かべているグリーンだけだった。
 腫れた頬も関係が無かった。俺の拒絶の言葉なんて無視をして、グリーンが身を乗り出して近づいて来た。こんな展開、違うはずだ。今度は俺が殴られた。言葉の拳で。いや、もっと違う。鈍器か、鋭利な刃物か。とにかく、ボカボカとグサグサと心臓を滅多打ちやら滅多刺し。
 殺される。

「はは。泣いてやんの」

 俺の掌にグリーンの掌は重なった。
 心は、重ならない。






掌をなぞる




退廃的なオリジンレグリ。


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