父さんは僕の記憶が無い頃に旅に出てしまった。それ以来、ずっと戻って来ない。手紙だって送ってくれたことは無い。時々寂しそうにしている母さんを見ていると、どうして僕達と一緒に住んでくれないのか疑問に思える。こんなにも愛してくれている人がいるというのに。父さんは何で旅になんて出てしまったのだろう。こんなにも母さんを悲しませるなんてひどい人だ。ずっと前からそう思っていた。
 そんな折に僕はマサラタウンに引っ越してきた。母さんの出身であり父さんの出身でもあるこの町。前に住んでた所よりも自然が多い、っていうのが感想その一。それから隣に住んでるお姉さんの手料理が美味しいな、っていうのが感想その二。それから、それから。

 「それで旅に出んだよ。このカントー地方を回る旅に!」

 隣に住んでる男の子と、友達になれた。
 前に住んでいた所では同い年の子なんていなくて、だからやっと出来た友達だったんだ。あぁ、友達っていうのはこういうことなんだって、初めて理解出来たんだ。毎日どこかへ必ず一緒に出かけた。楽しくて嬉しくてたまらなかった。一人でゲームばかりしていたあの頃とはもう違う。僕には友達がいる。それだけで、心が晴れやかになるのが分かった。
 でも、彼もまた旅に出ると言って来た。俺の父さんが母さんに言ったように。頭にズガンッと衝撃が走った。どうしてそんなことを言う。旅になんて出た所で誰が喜ぶんだ。母さんは置いて行かれたんだ。父さんに。君もまた、僕を置いて行くつもりなのか。せっかく仲良くなれたと思っていたのに。
 彼を手放したくはない。そう、だから僕も。

「僕、ポケモントレーナーになる」

 ある日の夕食、母さんにぽつりっと告げた。
 瞬間、母さんの手が止まる。食べていたスパゲッティが空中で静止した。その様子を不思議に思えば、母さんの表情が無くなっていくのも同時に理解した。

「どう、して?」

 硬直した声。震える唇。硬くなる笑顔。いつも見せてくれる頬笑みなんて消え失せて。母さんのこんな顔、初めてみた。一瞬だけ目を大きく見開いて、僕はありのままを話すしかなかった。

「グリーン、10才になったらポケモントレーナーになって旅に出るんだって。僕もそうする」

 母さんに嘘なんて通用しない。でも母さんは、嘘をついてもそれを否定したりしないんだ。ありのまま受け止めてくれる。だから僕は嘘をついちゃいけない。母さんに嘘を受け入れさせてしまうようなこと、あっちゃいけないと思った。母さんにだけは正直でありたい。僕の想い。 
 何も言えないでしばらく沈黙が続いて、はぁと軽くしかし重い溜め息を吐いた母さんが真っすぐに僕を見る。その瞳はどこかブレていた。

「男の子は旅をするものだものね、仕方ないわ。分かってる、あの人の子だもの。この町に戻って来たなら尚更よね。うん、そうしなさい。母さんは止めないわ。レッドの好きにするのが一番よ」

 かしゃん。フォークを皿の上に置いて、僕に向かって言っているはずが、母さんはまるで自分に言い聞かせるようだった。どこかしら顔色が悪くなっている気がする。それほど僕の言ったことはまずかったのだろうか。それとも母さんは父さんと同じように僕が旅をしてしまうことを恐れているのだろうか。それなら違う。僕はあの人と同じような旅はしない。こんな、大切な人を悲しませるような旅は。

「僕は、帰ってくるよ」
「えぇ、ありがとう」

 疲れきって諦めた表情。まるで、最初から僕が言いだすことを理解していたかのよう。母さんを一人になんてしたくない。僕は父さんじゃないんだからきっと帰ってくる。そういくら言っても無駄だと思わせる力の無い声色。ありがとう、だなんて、そんな風に言って欲しくはなかった。

 でも母さんのブレた瞳は決して僕を見ているわけでなく、僕を通して父さんを見ていることを理解して、もう取り返しのつかないことをしてしまったと想うのは、ずっとずっとずっと後のことだ。




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