僧侶と天狗





 僧侶は油断していた。修行として旅をしていた矢先、山道で足を滑らしてしまって、誰も通らない崖の下に足を怪我した状態で放置されるハメとなった。袈裟も酷く破れてしまい、背中の肌が酷く晒されている。雨まで降って来て体力もすり減り、怪我も悪化の一途を辿るのみ。空腹も限界で、何より脱水症状を起こしていた。ひたすらに数珠を握りしめて仏に祈ることしか出来ない無力な自分を呪う。こんなことぐらい自分の力でどうにも出来ない非力さを痛感した。
 物理的に助けを乞うことも難しかった。人通りの少ない、敢えて困難な道を選んだ結果、だいぶ人里離れした場所に落ちてしまったのだ。声を上げようにも腹に力が入らない。何とか掠れた声でも良いから助けを呼びたかったが、人の気配が一つもしない。代わりに、怪しげな空気しか漂っていなかった。どちらかと言えば異形の気配。汗が伝った。雨と共に流れて行ってしまったが。今、この状態で襲われてしまったらひとたまりもない。熊や猪よりもタチが悪い。
 法力も随分と底を尽きかけている。対抗する手段は無いだろう。結果を張る力も無い。こんな所で野垂れ死ぬわけにはいかないのに。僧侶の呼吸は荒くなるばかりだった。

 不意に、頭上でざざざっと、何かが通過する音がした。

 木々が揺れる。はっ、として上を見たが何もない。代わりにはらはらと木の葉が舞い落ちてくるだけだ。一気に緊張が増した。傷に痛みが走ったがそんなこと考えている暇はない。奇跡的に無事な両腕を構えた。辺りを伺う。全身の肌がまるでセンサーになったかのように、僧侶は集中する。少しでも感覚が引っ掛かれば先手を取れるかもしれない。
 そうしてしばらく静寂が続けば、僧侶の感覚が雨に支配されそうになる。向こうから特に動きはない。どうしたものか、と意識が飛びそうになる中、必死に考える。考えても仕方ないのだが。何か頭を動かしておかなければ耐えられなかった。心臓が馬鹿みたいに鳴り響き、僧侶の視界が霞んでくる。まずい。一瞬、気が抜ける。
 瞬間、僧侶の目の前に黒い羽が舞い散った。
 雨音が消える。瞠目する。世界に、取り残された。

「あんた、坊さん?」

 透き通った、美しい声が鼓膜を震わせる。
 僧侶は目を離せなくなった。そこには黒い両翼を広げ彼に対してかがみこんでくる、天狗がいた。鼻の長いお面を被り、誇張された目が描かれた。色素の薄い茶色の髪が雨に濡れている。天狗の所持する大きなヤツデの葉を僧侶の頭に掲げ、それ以上雨を浴びないようにしている。

「ここから人里まで三里程。その格好じゃぁ歩けないな」

 キョロキョロと辺りを見回して、天狗はおもむろに自分の羽を一枚だけ、プチッと音を立てて抜いた。それを口元へ近づけ、何か僧侶に理解出来ない言葉を発すれば、グンッとそのたった一枚の羽が僧侶の体の二倍はあるだろう大きさに拡大する。

「異人の髪色だったから、てっきりこの山を開拓しに来た人間かと思ったよ」

 坊さんであるなら、助けてやれる。
 そう笑うように告げた天狗に、僧侶は納得した。なるほど、この金髪のせいか。確かに、己の髪色に対しては良く非難を受ける。僧侶であるなら剃髪するのが通常。だが、彼はこの髪を残すことに彼にとっての人生における意味があったのだ。それは仏に対しても。しかし、それを認めてもらえないが故に、こうやって修行の旅に出た。彼が自らの名を僧侶として上げることが出来た暁には、彼が属する宗派の大僧正に認めてもらうために。

 天狗の作り出したその大きな羽に僧侶は乗る。始めてみる法術だった。スイーッと空間を移動する。その先端を天狗がずっと持ち続けていた。このままどうやら僧侶を送ってくれるらしい。

「この山、俺の縄張りだからさ。結構厳しい山道だったろ。良くここまで歩いてきたな」

 悪戯好きの子供のような声色だった。それに僧侶は、先ほどまでの危機的状況など頭から吹っ飛んでしまう。心の底から安堵していた。急激に眠気が襲ってきた。かくんっ、と首が揺れる。

「寝てても大丈夫だ、その間に一番近い村まで送ってやる」

 その様子を察した天狗が優しく言ってくれれば、僧侶は甘んじることにした。
 しとしとと、体に降る雨すら心地よく感じながら。
 ゆっくり瞼を閉じた。





(あとがき)
 ラスト。マツバでした。






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