悪魔と魔法使い
長年に掛けて蓄積された大量の埃を肺に吸い込めば病気になりそうだった。
それでも金色に輝く髪の美しいその魔法使いは、どうにか目的の書物を探すべく自分の家にある書庫へ飛び込んでいた。
「もうなんだってんだよー」
疲労の見える声だったが、それでも彼が動きを止めることは無かった。
着ている黒いローブが若干、灰色に染まり始めている。入り口付近にしか灯すことが出来ない蝋燭だけでは全く見えない本のタイトル達に、彼は所持している杖の先端にもまた、光を宿していた。
所蔵されている冊数は数千冊。この中で目的の本を探せるかどうかはかなりの賭けに近いものを感じるが、彼は諦めるつもりはなかった。なぜなら、それさえ見つけることが出来れば彼の魔法使い人生が大いに変化するかもしれないからだ。良い方向に。
「ちくしょう、あいつらバカにしやがって」
彼は由緒ある魔法使い一族の血統を引き継いでる。にも関わらず、幼少の頃から魔力に関して全くといっていい程強くなかった。周りの同期魔法使い達が三十センチ近い炎を杖から出せるようになっていた頃、彼はまだ十センチ程の炎しか出すことが出来なかった。次々に動物へ変身していく同期達の中で、彼だけは人間の形のまま中途半端に尻尾や耳の生えた状態の変身しかすることが出来なかった。
お前には才能が無い、とバカにされ続けて数年。ここまできてやっと、彼にチャンスが訪れた。十五歳を彼が迎えたのはつい一ヶ月ほど前。とうとう、この書庫へ入る権利を得られたのだ。ここには太古から伝えられている魔法の本が多く存在する。それこそ禁術が記されているものが大量に。
しかし彼は、そんな危ない本に手を出すつもりはなかった。ただ、魔力を増幅させる最も最良の魔法を探したかったのだ。魔法の源が魔力であるのに、魔法を使ってそれを増やすというのは非常に矛盾しているように聞こえるが、そういった魔法が存在しないとは誰も否定できない。無限に可能性が広がっているはずだ、と彼は信じて疑わなかった。
「―――……ん?」
そんな中、ふと彼の耳に誰かの声が聞こえた気がした。
思わず辺りを見回す。誰かこの書庫に入ってきただろうか、と魔法使いは思ったが、この家には今誰もいないことは確認済みであったはずで。それならば空耳か、と思ってまた作業を再開しようとしたのだが。
―こっち―
次は、はっきり聞こえた。
背筋に悪寒が走る。バッと勢い良く振り返っても誰も居ない。なんだ、と一気に警戒心を最大にまで引き上げた。
そう、ここには大量の危険な本が眠っている。意思を持った本も存在しているだろう。そんなものに気をかけるつもりなど一つもないのに、声が聞こえては集中が出来ない。何よりも得体が知れない。攻撃だって加えられてしまう畏れがある。様々な思考が過ぎって、目だけは働かせ続けた。怪しい影は特に見受けられない。杖の光の威力を上げたかったが、今の魔法使いにはこれが限界だった。口惜しい。
とりあえず、今日に無理矢理本を見つけだそうとせずとも、いくらでも時間はある。そう判断して彼は上っていた梯子から降りようとした。だが、その途中で目に止まってしまった本が一冊。
瞬間に、囚われた。
「ぁ」
ダメだ、と言い聞かせても遅い。
食い入るようにその背表紙に目がいってしまった。逸らせなかった。そんなこと、許されなかった。そのままほぼ無意識に本へ指を伸ばして、それを持って下へと降りる。まるで操られたように魔法使いの瞳孔が定まっていなかった。実際、彼の意識はその本へ持っていかれてしまった。
入り口付近にある丸い木のテーブルに辿り着いて、魔法使いはそのまま杖をそこに置いて両手で本を持った。タイトルは掠れてしまって良く読めないが、表紙自体にはおどろおどろしい門が描かれていた。
地獄の門だ。
(ダメだ)
頭で警報のように、自分の声が反響する。
開いてはならない。そう分かっているのに。体は完全に本に支配されてしまって。
最後の最後まで意識では抵抗出来ていたのに、その両手は本を勢い良く開けてしまった。黄ばんで、もはや文字すら読めない紙が彼の目の前に広がった。刹那、弾き飛ばされる。
「!?、ぅわ」
バンッ!と背中を本棚へ強打すれば、バサバサと落ちてくる本。呻きながらどうにか体を起こせば、彼の目の前に降ってきたのは黒い羽根。……黒い、羽?
疑問符が大量に頭を占めた頃、彼の視界の先に黒い翼が広がっていた。
絶句する。
「あー、出られた」
黒髪の美しい、魔法使いと同年代かと思う男の子。
その背に翼さえなければ、友達になれたかもしれない。
だなんて、そんなことあるわけがない。
翼があろうと無かろうと、これは人間ではない。
「ぉ、おま、おまえ、っ」
「君、強いね」
おそらく、もはや、それしか可能性がないのだが。
本から出てきたと思われるソレは、彼の持ちうる知識を総動員した結果、悪魔と定義付けることが出来た。悪魔とは、天使と対の存在であり、地獄の住人で、人間を誑かせては遊んだり、精気を奪う存在だ。惑わされた人間は犯罪に走ることが多いし、死に至ることも多々ある。
空いた口が塞がなかった。まさか、本を開いて悪魔がご登場するだなんて予想を誰がしていただろう。そんな魔法使いに清清しい笑顔を向ける悪魔。先ほど魔法使いの手によって開かれた本を持ち上げて埃を払った。
「精神まで支配できなかった魔法使いは初めてだよ」
そして、魔法使いに近づいていく。逃げようにももはや本棚しか後ろにない状態では、どうにもならない。しかも本に埋もれて上手く動きも取れなかった。杖だってテーブルに置いたままで役に立たない。彼が杖無しで発する魔法など、花の色を変えるくらいの下等魔法だ。こんな状況では役に立たない。
悪魔が何やら色々と言ってくるその全てが、彼の耳に届くことはない。それよりも、命を護る術を考えることに必死で。
「ちょっと、聞いてよ」
だからいきなり、胸倉を凄まじい力で掴まれてしまって、彼は息が詰まった。ついで、体が宙に浮く。持ち上げられてしまった。たった片手で。
「君、契約してくれるんだよね」
意地の悪い笑みを浮かべられて、魔法使いは何も言えない。そもそも苦しくてどうしようもなかった。声を発そうにも掠れて言葉にならない。その様子にケタケタ笑いながら、悪魔はまるで自身を宣伝するように告げてきた。
「悪魔と契約するのって、結構お得なんだよ? 魔力は増幅するし、そんじょそこらの悪魔と遭遇しても見逃して貰えるし」
それが、いけなかった。
魔法使いの耳に、最初の言葉が届いてしまった。
「魔力は増幅する」
目を見開いた。まさか、そんな。と周囲の人間ならば思うかもしれないが、彼は必死だったのだ。生きるにはどうすれば良いか、魔力を増やすにはどうすれば良いのか。この悪魔は今、魔法使いと契約することを望んでいる。おそらくそれを断れば殺されることは目に見えていた。さらに魔法使いは魔力が増えることを望んでいた。
生きる為に、目的を達成する為に。
「どう? 契約する?」
にこにこと。一見、邪気のないように見える顔だったが。
そもそも存在が悪魔である以上は、邪気塗れであることが大前提だ。
しかし、それでも魔法使いは。
首を縦に振るしかなかった。
「良かったー! ここまで来て断られたらどうしようかってなってたよ」
ドサッ、といきなり胸倉を離されてしまって、魔法使いは本の海へ落下した。そして息を大きく吸うのに必死になる。酸欠になりそうだった。くらくらする視界は涙でぼやけている。
そして、直後に覆いかぶさってくる影に、ゆるゆると顔を上げた。
「それじゃ、契約しようか」
魔法使いは、失念していた。
悪魔との契約方法は複数に及ぶ。だが、もっとも悪魔が好む契約手段はたった一つ。
その理由はただ一つ。お手軽で、キモチイイからだ。
魔法使いの人生初めての性交渉相手は、悪魔になった。
(あとがき)
だがしかし、これからは健気で頑張り屋の魔法使いジュンの虜になる悪魔なコウキで展開するんではなかろうか