浮かぶ、笑顔
※リーフの嘔吐表現があります。苦手な方はご注意ください。※
ファイアと断絶した。あの日以来、メールも電話もなくなった。体を触れ合わせるどころか、声だって聞いていない。それで、良かったはずだ。
俺が望んでいたのは、こういうことだったはずだ。
ぱたり、と途絶えた関係性。あれだけ会っていた日が消えてしまった時。確かに、僅かな違和感があった。同時に、安堵もしている自分もいた。寂しさも、あったような気がしたけれど。それよりも俺にとって重要なことは、しっかり伝えられたことだった。どこかで断ち切らなければならなかったはずだ。だって俺は、あいつとはそんな関係になりたかったわけじゃなかったから。本当は。そのきっかけになったのだから、良かった。
気が付けば、受験も終わって卒業式を迎える日が迫って来ていた。
「リーフ君」
渡り廊下の窓から外を見ていた。物思いに耽る時間は増えた気がする。色々、頭を巡ることはあるが、主にはあいつのことだった。そんなこと、決して表になんて出さないけれど。
桜の散る風に乗って聞こえて来た声に呼び止められて、振り返ればそこには俺の最終担任の先生がいた。名前はヤスタカだ。化学を担当としているまだ少し若いこの先生は、よく俺のことを気にかけてくれていた。どうやら兄のことも知っているらしく、余計だったようだ。
「君も卒業かー。グリーン君の時も早かったんだけど」
「あっという間でした」
「だろうね。まだまだ若い君だから、大学に行っても頑張るんだよ」
ヤスタカ先生には本当にお世話になった。俺が難関大学を受けると決めた時から、ずっと化学についてはきっちりサポートをしてくれた。だから俺も信頼をして、何度も職員室へ足を運んだ。時には問題が分かるまで付きっきりになってもらったこともある。
ただ一つ引っ掛かっていたのは。あのファイアとの口論のきっかけになった「男」が、この人であるということだけだった。勝手に俺は後ろめたい気持ちを抱いていた。
あの日はなんでだったか。俺の家まで送ってくれるということになったのだ。受験について他のことも相談したかった俺は何の躊躇いも無くその提案に乗って、一緒に家まで辿り着いた。運が悪かったとしか言いようがない。
「――――リーフ君。ちょっとだけ話があるんだけど」
不意に、空気が変わった。
気になって改めてヤスタカ先生を見れば、なぜか眉間に皺を寄せたまま笑っていた。目を丸くした俺は、しかし、次に報された事実に凍り付いた。
「俺は、ずっと隠し事をしていた」
それは、十分な大きさの刃となって、襲いかかって来たのだ。
吐きそうだった。胸焼けだなんてレベルじゃない。すぐそこまで差し迫っている嘔吐感がいつまでも付きまとって離れない。早く家に帰らなければ耐えられそうになかった。全て、吐き出してしまえればきっと楽になる。きっと。きっと。俺の中の意味の分からない汚物を全て。
ヤスタカ先生が俺に伝えた事は。どうして俺に伝えたのか意図が全く分からない内容だった。どうして、そんな事を俺に言うのだ。聞いている内に脳がブレて、視界が歪み、最後まで聞けることなくその場から駆け出して行ってしまった。最後にちらっと見えた、ヤスタカ先生の傷ついた顔なんてどうでも良かった。俺は、俺自身を護ることに精一杯で。
ヤスタカ先生は無茶苦茶だと思った。気持ちが悪いと思った。彼は、俺の兄が「好きだった」と言った。しかし、実らなかったのだ、と。そうして同じ学校の俺が来た。弟である俺が。重ねるつもりは無かったけれど、どこか兄に向けていた感情と近しいものを感じ続けている、と伝えられた。それでも、迷惑を掛けたくないから言わなかったのだ、と。
そんなこと俺は聞きたくなかった。信頼をしていた、先生だったのに。たったその一言で、今までの俺の三年間を全て裏切られたような気分になった。反射的に酷い言葉も先生に向けて吐いた気がする。そんなの、俺のせいじゃない。
こんなにも、誰かに「愛情」を向けられることがに、拒否反応が出るとは俺自身も驚いた。
「げぇ―――っ、が、ぁ、げ、ぼ」
辿り着いたトイレでひたすらに吐いた。吐き切りたかった。もし止まりそうになれば腹部を殴った。自分で自分の指を喉奥に突っ込んで嘔吐き続けた。聞いたことも何もかも、流してしまいたかった。なのに。吐けば吐く度にヤスタカ先生の声がリフレンし続ける。あぁ、気持ち悪い。どこかへ行ってくれ。命令したって、まるで嫌みのように脳へ焼き付いていく気がした。
もう何時間とトイレに籠っているような気がした。やっと、やっと何もなくなって、胃液すら出て来なくなって、俺は便器から顔を離した。息をした。今日一日で初めて俺は息をした。口内の独特な臭みが鼻を突いた。
しかし頭もだいぶ落ち着いて、どちらかと言えば真っ白になりつつあった。まるで今日のことが全て夢であるかのような気分になれた。良かった。そうか。今日は夢だったのか。寝て起きれば、また俺にとっての一日が始まるだけ。ふっと気が緩んで、笑みが溢れた。夢だ。そう。
ふと。そんな俺の頭に入り込んで来た映像がある。
――リーフ!――
幼い、光景。
笑顔で名前を呼んでくれる声が、嬉しかった。
なぜだろう。そんなこと当たり前のことだったのに。俺は毎回、馬鹿みたいに喜んでいた。
俺が、ここにいることをちゃんと認めてくれる声だった。
そうして俺も、あいつのことをちゃんと認めていた。
だから俺達はあんなにも、一緒にいたのだ。―――だから、キスをするのだって、躊躇いも無かった。あるはずが無いだろう。だって俺達は、「好き合っていた」はずなのだから。
いや、そんな陳腐な言葉じゃない。それこそ、俺達はお互いに「愛情」を向けていたはずだ。はず、だった。
どうしてそれが壊れていったのだろう。俺達が成長していったからだろうか。違う。俺達が中学校や高校に上がっていったからだろうか。違う。それも違う。環境が変わったことなんて、理由じゃない。
俺も、あいつも―――こわ、かった。
「………ぁ」
気付いた。それは、俺がヤスタカ先生に向けられた愛情に、こんな反応を示してしまうことと同じだ。
もし。俺があいつに「好き」だと言ったらどうなる。
逆に。あいつが俺に「好き」だと言ったらどうなる。
俺はあの時。俺とファイアの関係は「セフレ」だと言った。それは、あいつから決定的な言葉を聞いていないからだ。そして、俺だって言ったことがない。だが、問題はもっと根本的な所にある。
今更。好き、だと言った所で、俺達はどんな反応をし合うのだろう。
なぜか。目頭が急激に熱くなって止まなかった。先ほどは嘔吐したのに。今度は涙が止まらない。情けない。トイレでひたすら蹲った。引き攣った嗚咽がトイレに吸い込まれて、消えて行く。ぼろぼろと制服の袖に染み込むのは押さえきれない感情だ。
どこかで、俺はずっと察していた。ファイアはきっと、俺のことが好きなんだろうと。たとえそれが、一般的な好きじゃないとしても。そして、俺だってきっと、どこかでファイアのことが好きなはずなのだ。それもまた、一般的じゃないとしても。
けれど。互いの「気持ち」を見ようとしないのは。怖いからだ。伝えて、こんな風に拒絶されたらどうなるだろうと。ファイアもきっと、そこを恐れている。だって、俺もこんなに恐れているから。馬鹿みたいだ。俺達はずっと、同じラインにいて。同じことで悩み続けていただけだ。
電気も付けないまま。どんどん気温の下がる空間で。俺は胸の中でずっと渦巻くファイアの名前を、それでも手で掴むことは出来ないまま。疲れ果てて意識を手放してしまった。ヤスタカ先生の顔が、やっぱり消えない。
臆病だ。俺は、決してヤスタカ先生のように、傷つきたくない。
そんなことになるなら。いつまでも。かつての幻影に浸っているままで、十分だ。
僕らの綺麗事遊び
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