( 滑った唇 )


 コウキは凄い奴なんだ。本当に。ちっちゃい頃から見てきた俺なら分かる。

 勉強は誰よりも一番出来て、いつでもクラスの中や学年でもトップ。コウキは美術部に入ってるけど、あいつの作品はいつも美しいと思う。世界的に有名な作品なんか俺が見てもさっぱり分からないけれど、コウキの作ったモノは何か印象的で心に残る。それだけじゃない。スポーツだってゲームだってやらせればすぐに誰よりも上手くなる。よく運動系の部活から助っ人として大会への出場を頼まれたりだってするんだ。美術部なのに! いわゆる文武両道って奴? 先生達だって勿論コウキのことはお気に入りだ。まぁ、それをあいつは嫌がってるみたいだけど。他のクラスの奴らだってコウキのことを嫌ったりなんてしてなくて。本当なら嫉妬とか妬みの対象とかになっても不思議じゃないのに、コウキは未だにそういう目に遭ったことはない。
でも俺が本当にコウキが一番凄いって思うのはこんなことじゃないんだ。

「あ、落ちてる」

 学校からの帰り道。肩を並べていつもの道を歩いていた俺とコウキだったが、不意に聞こえて来たコウキの声で俺は足を止める。彼も足を止めたからだ。その視線の先を追ってみると、路上に設置されたゴミ箱から溢れて空き缶が2・3個落ちていた。いつもいつも、このゴミ箱は許容量超えしてしまうことが多い。隣に自販機が立っているのも原因の一つなんだろうけれど。
 そそくさと落ちている空き缶達に近寄って、それを足で踏み潰したコウキは、そのままゴミ箱へ何とか空き缶を収めきった。中身が微妙に残っていたりしてあまり触りたくないのにコウキには何の躊躇いもない。

「これで大丈夫だね」

 それじゃぁ行こうか、といつも通りの表情で俺に言ってくるコウキ。そう、これだ。これだけはいくら俺が頑張っても辿りつけない領域だと思う。彼は別にボランティア精神だとか、誰かの為にだとか、街を綺麗にする為だとか、そういったことでこういうことをしているんじゃない。無意識なのだ。他にもたくさん事例はある。小学校の頃、いじめを受けていたクラスメイトを助けたことなんてしょっちゅうだ。しかしコウキはその子のことを、助けた、とは決して思っていない。ただ単純に、いじめを受けている子を見ているだけの自分が許せないから、結局その子を助ける結果になった。それのおかげでコウキがいじめられることもあったけれど、今度はいじめられている自分が許せないから、いじめる子に決して屈することはなく。ずっと自分の芯を貫いた。結果、いじめている子に味方していたクラスメイトを全て自分の側へと引き寄せる結果になった。しかしそうすると今度はいじめていた子が他の子からいじめられるようになった。おそらく今までずっと偉そうにして皆に嫌な思いばかりさせていたからだろう。当然の報いだ、と思うけれど、そこでもコウキだけはブレなかったのだ。やはり、いじめを受けている子を見ている自分は許せない。ということで、その子のいじめすら失くしてしまった。
 コウキは。多分。世界で一番自己中心的な人間なんだと思う。なぜなら、彼はすることすること全てが自分の為なのだ。自分がそうしたいから、自分がそうなりたくないから、自分がそうでありたいから。全てが自分の為の行動。しかしそれが結果として、周囲の為の行動になる。これほど凄いことはない。見事な循環だ。だから俺は、コウキのことが大好きだし、ずっとこれからも一緒に居たいと思える奴なんだ。だってこんなにも優しい奴は、いない。自分を貫ける奴は、いない。どこを探したってきっと。俺は偶然こいつの幼馴染のポジションに収まっているけれど、時折神様に感謝するくらいだ。コウキとこんなにも早く出会わせてくれてありがとうと。



 けれどある日を境に、俺とあいつの関係に変化が訪れた。
 訪れざるを、えなかった。



 あれはコウキが昼休みの時間。屋上で時間を潰していた時。これほど完璧と思える奴がお昼休みの後の授業にだけは良く遅刻する。このお昼寝の時間のせいだ。俺はいつも迎えに行くわけだが、その日も勿論コウキに声を掛けに言った。まぁ、俺がそうした所で授業に行く確率は低かったりするのだけれど。ついでに俺もその隣に寝転がってみたりもして。一緒にコウキと青い空を見上げるのは俺の生活の中でも楽しみな時ベスト3には入る。一番好きな時はいつだって? それはコウキと一緒に登下校をする時に決まってる。帰り道にはよくゲーセンに行くし。あ、そうだ。コウキは音ゲーも神掛った上手さだ。俺じゃどれだけ練習したって取れっこない点数ばっかり弾きだす。もうそれに対して妬む余地なんて与えないくらい。
 だからその日も誘ったんだ。ゲーセンに行かないか、と。コウキのことだから断るはずもないのは分かっているし、想像通りに首を縦に振ってくれたから思わず笑った。やっぱりコウキは良い奴だなぁ、って、改めて実感したわけで。いつも通り。そう、いつも通りのヤリトリ。それ以上、何かが起こるなんて俺は考えもしなかった。

 唇に触れた、温もり。

目を見開いて、状況を理解出来ていない俺の顔から、笑顔が一瞬にして消え失せた。あっ、とコウキが小さく声を零した時。何だかバカみたいに心臓が跳ねた。
 クチビル ニ イマ ナニガ フレタ ?
 その後のことは良く覚えていない。とりあえずお互いに必死で服の袖で唇を拭っていたことくらい。しかしそれからどう教室に帰ったかだとか、どう家に帰ったかだとか。全くおぼろ気で。そして俺が初めてコウキと一緒に行動しなかった瞬間。せっかくゲーセンに行く約束をしていたのに、お互い余りに訳が分からなさ過ぎてきっとそれ所じゃなかった。コウキもきっとそうだったに違いない。でも、良く考えたらコウキから仕掛けて来た行動だったのに。どうしてあいつがそれほどまでに混乱しているのか。俺には良く分からなかった。思い出して一気に恥ずかしさが襲う。男同士で俺達は一体何をやってしまったんだ。まだ、もしまだ、ふざけた行動の流れの中で偶然起こってしまったことならば、恥ずかしいのは変わらないけれど笑い話で済むのに。あの時。あの瞬間。確実にコウキは、俺にそうしたいと思ってしたのだ。いや、それは分からないけれど。衝動的だったのかもしれないけれど。でもちゃんと俺のことを見て、━━━キスを、した。

 次の日。俺はコウキといつもの場所で待ち合わせて、学校へ向かった。いつも通りに振舞おうとして、空回りしていることは分かったけれど、コウキだっていつも通りに振舞ってくれた。きっと内心、動揺があったと思う。だって俺も動揺していた。コウキの表情の端々にそれが窺えたから、きっとコウキも俺の表情からそれを読み取ったはずだ。だてに長年幼馴染をしていない。相手のちょっとした表情変化くらい読み取れる。
 でも、どうしても俺は訊きたくて。どうしてキスをしたのか、と尋ねたくて。でもそれをしてしまえば何かが壊れる気もしたのだ。何が壊れるのか。今まで築いて来たコウキとの関係が、なのか。それとももっと大切な、何か? でもそれが何なのか俺には良く分からない。それはきっと、壊れてみないと分からないんだろうな。多分。でも壊れてからじゃ、きっと遅い。

 放課後。下校の時間。コウキは美術部が終わってから、俺はサッカー部が終わってから。待ち合わせ場所は校門。夕焼けもだいぶ沈んでしまったから薄暗い。不安だった。コウキは来てくれるのか。もしかしたらこれだけギクシャクしている俺達だから、一人でとっとと帰られてしまっているかもしれない。でも俺は待った。コウキはきっと来てくれると信じるしかなかった。だって俺は、あいつのことを疑えるわけがないんだ。そんなことをしてしまえばきっと終わってしまう。本当に。俺達の関係が。だから。

「ジュン」

 心臓がギリギリ締め付けられる気分だった。身体の中心に一本、痛みの軸が走った気がして、思わず泣きそうになった時。コウキが俺を呼んでくれた。あ、良かった。コウキが来てくれた。すぐに顔を上げて目を合わせる。するとそこには眉間に皺を寄せた幼馴染の顔。

「ごめん。帰ろ」

 どうして謝られたのか、良く分からなかった。
 俺を待たせてしまったことに対してなのか。それとも別のことなのか。あぁ、コウキ。言ってくれないと分からないのに。俺はお前みたいに頭が良いわけじゃない。お前が何を本当は言いたいのか、分からない。頼むから言ってくれ。そうしてくれないと、俺は。
 そのまま歩き出そうとしたコウキの腕を、掴んだ。

「俺、バカだからさ」

 言葉が体から飛び出してくると同時、涙までもがつられて出て来てしまった。畜生。ボロボロと泣きだしてしまって、情けない。コウキは驚いて固まってしまったようだ。でも俺の言葉は止まらない。

「コウキが、何考えてんのか、分かんねぇし、どうしてあんなこと、したとか、さっぱりだし、でもコウキ何も言わねぇし、なんでだよ、俺どうすりゃいいんだ、俺、お前みたいに賢くねぇから、分かんねぇ。分かんねぇんだ、俺」

 喉が引き攣って上手く言葉に出来ない所もいっぱいあった。頭の中がばらばらで、整理もついていないのに、出て来た言葉をありのままに垂れ流す。眉間が熱い。鼻水も出て来た。ぐっちゃぐちゃな顔と声。他にも帰ろうとしている生徒がこっちを見てくる。多分、このままじゃ色々とまずいことになると思ったんだろう。コウキの腕を掴んでいた俺の腕が払われて、今度はコウキが俺の腕を掴んできた。そのまま引っ張るように歩きだす。そのままついていく形で俺も歩き出す。若干、いつもより早いペースで。その間に何とか服の袖で顔を拭こうとした。ハンカチなんて持ってない。それに気付いたのか途中でコウキがハンカチを渡して来てくれた。「使って」の一言。それが嬉しかったのに、何か他の感情に邪魔されて素直に喜べなかった。ありがとう、の一言も返すことが出来なくて。でもコウキのハンカチに縋るように顔を拭き続けた。あ、コウキの匂いがする。とか、そんなことも思ったり。

 辿り着いたのは通学途中にある河川敷。もう辺りはだいぶ暗くなってしまった。街の光が良く見える。最近雨も降っていないから川は穏やかに流れている。人気はない。ここでいいと判断したのか、コウキが止まった。俺も止まる。腕は掴まれたままで。

「ごめん」

 また、謝られた。でも俺が欲しいのはそんな言葉じゃないんだ。きっとコウキはそれが分かってるはずなのに。俺なんかよりも何倍も賢いコウキなら分かってるはずなのに。どうして俺が一番望んでることを言ってくれないんだ。どちらも何も言わなくなる。まるで何十分もそうしているようだった。もう時間感覚なんてない。足元から暗闇が登って来るみたいだ。このまま、コウキと一緒に夜に呑み込まれたらどうしよう。そんなバカな想像が湧いた俺は、やっぱりバカだと思う。でも、もっとバカだと思うのは、でもコウキと一緒に呑み込まれるならいい気がすると思ってしまった、俺の頭だ。

「僕も良く分からなくて」

 ズルズルと本当に夜に引き摺られそうになっていた俺に、戸惑った声が届いた。コウキはまだ前を向いたままだから俺とは目を合わせてくれない。あ、何か寂しいな。そういえば、いつもなら隣を歩いてくれているはずのコウキが、俺よりも前にいて、顔を向けてもくれない。嫌だなぁ。また黙ってしまったコウキの、その肩を思いっきり掴んでやった。そのままひっくり返すようにして俺の方を見させる。いきなりのことに対応しきれていないコウキの顔は、俺が思っている以上に泣きそうだった。そんな顔、初めて見た。今までコウキが泣きそうになるなんてこと無かったのに。
 そこでやっと気が付いた。そうか。コウキも俺と同じなんだなぁ、って。泣きそうになるくらい。苦しんでる。それが分かって、俺は安心した。良かった。コウキも悩んでいたんだと。俺だけじゃなかった。コウキから仕掛けられたキス。それがコウキ自身にも良く分かっていないなんて、おかしな話だ。だからきっと、俺なんかよりもコウキの方がよっぽど訳が分からなくなっているに違いない。頭の中が。だって整理がついていないのに、俺が追い打ちをかけるようになんで、と訊くんだから。
 だから、思わずコウキの気をちょっとでも楽にしたくて。

 唇に触れた、冷たさ。

 唇が滑った。そう言い訳をしよう。
 こんな夜に外にいたせいで、だいぶ冷たくなってしまっていた俺達の唇。
 あの時とは逆で。コウキが目を大きく見開いて硬直した。その顔がちょっと間抜けだったから、俺は笑う。これでおあいこだ。そうだろ、コウキ。だからお前がそんなに悩まなくてもいい。俺も良く分からなかった。どうしてお前にキスをしたかなんて。尋ねること自体が間違っていた。それで、いいだろ。だから、もう明日から元に戻ろう。今まで通りの俺達に。
 心に引っ掛かりがあることには気づいていた。でもそれを見ないようにしたのは、俺がコウキといつも通りでいられることを望んだからだ。その引っ掛かりがこれからどうなってしまうかなんて、やっぱり俺はバカだから考えもしなくて。

 不意にコウキが力なく笑った。それはまるで諦めの笑みのようで、でもコウキが何に対して諦めたのかも、その時の俺には分からなかった。



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