パソコンのキーボードを叩く音だけが響く薄暗い部屋の中で、机の上のテーブルランプが照らす先が、少しだけ暖かい。その熱を分けてもらおうと、そっと机に手を置いて、ジェシーはドガの次の言葉を待つ。深夜一時、四十七分。最近立て付けが悪くなったという古い窓の隙間から、時折音を立てながら風が細く入りこんでは、部屋や晒された足首を冷やして去っていく。
「…すまないジェシー、これが終わらないと食事に出来そうにない」
「はぁ…またなの…少しくらい休憩しようよ」
「今また閃いたことがあって…メモにして残しておかなければ」
「メモって長さじゃないじゃないか…」
夏休みに入っても、ドガは相変わらず家と大学を忙しなく行き来している。一緒に暮らしはじめてから、ようやく二人でゆったりと過ごせると思っていたジェシーにとって、これは大誤算だった。空いた時間にデートくらい出来るはず、という望みも叶わぬまま、もう夏休みも終わりに近付いている。
せめて三日間くらいは、と昨日から休みをとっていたジェシーは、これをサプライズにしてしまったことを悔いていた。あらかじめ伝えておけば、同じように休めた可能性があったかもしれないのに、そうしなかった自分の失敗を棚にあげて、今まさに忙しいドガの携わっている研究を、お門違いにも恨んでしまう。それはまた急だな、という一言だけで片付けたドガには、そういう反応で終わるかもしれないという想像が少しついてしまっていた為に、悲しくなりはしたがショックは受けなかった。
「…君、何も食べていないのか?」
「うん。と、言いたいところだけど、いつも食べる時間は大体決まってるから…サラダだけだけど、少し食べたよ」
「そうか、それならいいんだ、私に付き合って何も食べていないのではないかと思ったよ」
「…その心配は嬉しいけど、それで今手が止まるなら、もう少し早い時間に出来なかったの?」
「すまない…あー、あともう少しだから…」
「あっ、…もう、いいけどね…あなたが集中し始めたら、それしか見えなくなるのは、分かってるから!」
もうドガの耳には届いていないだろうと分かっていても、ジェシーは少しだけ声を大きくして文句を言うのを、止められなかった。案の定聞こえていないらしいドガは、パソコンに自分の考えを打ち込むことに集中してしまっている。こうなるともう、どんな大声をあげたって聞こえない、とジェシーは微かに動くドガの唇を見て、溜め息を吐いた。独り言にもなっていないような、口をついて出る彼の脳内を巡った言葉たちを、指が取り零さないように拾って、冷たい文字に変えていく。いくつかある中で、ジェシーがもっとも気に入っているドガのこの癖にも、今は愛しいという感情が湧いてこない。
最後に会話をしてから二時間は経とうかというころに、頭上から聞こえた独特な息遣いで、ジェシーは僅かに顔を上に向ける。椅子から立ち上がって伸びをしていたドガが、目を合わせた途端に吹き出して、あげていた手を机につけて笑っている。何かあったのかと聞いても、一向にその笑いが引かず答えも返ってこないので、とうとうジェシーは今まで身体を丸めておさまっていた二人掛けのソファーから起き上がった。
「何か面白いことでもあったの?」
「いや、君が頭を肘掛けにのせたままでこちらを向くから、何だか小さい子供がむくれて頬を膨らませているように見えてね、」
「えぇ…もう、笑わないでよ…それって、顔が崩れてたってことでしょう…?」
「そうだが、それが可愛らしかったのでつい」
「かっ、………そ、れなら…いいけど…」
実際にその状態の小さい子供を見ても、可愛らしいなんてあまり思ったことないでしょ、と言いたいのをぐっと堪える。散々待たされた挙げ句に笑われた先のこのドガの言葉ひとつに、まんまと気分が良くなってしまって、今度は文句も出せない。
頭は誰よりもいいのに、そんなものはまるで関係ないと言わんばかりに生きるのが少しだけ下手な彼の言葉には偽りがなく、すんなりと心に入って広がっていく。付き合い始める前にはあまり感じられなかった温かさが言葉の端々にあって、それに触れる度に、ジェシーはドガが自分のものであり、自分もまたドガのものになれたのだということを実感する。
「おいでジェシー、流石に何か食べなくては」
「ふふ、」
「何だ?」
「ううん、何でもないよ。さっき作ったサラダ、まだあるんだ。時間も時間だし、それだけ軽く食べよう」
「そうだな…ん!?もう三時じゃないか!」
「もうちょっとだけ、もうちょっとだけって、九時くらいからずーっと言ってたら、そりゃあ三時にもなるよ…」
「こんなに時間が経っていたとは…申し訳ない、君の睡眠時間にも影響してしまった」
「そんなのいいよ、その代わり、明日は二人で少しゆっくりしよう」
「勿論そのつもりだ、土日は仕事しないことにしたからな」
「そうなの?それは嬉しいな」
「? だって君、昨日から三日間休みをとったんだろう?」
「〜〜っ、ほんっとうに、あなたって人は…」
そしてこんな風に、彼が時間を分け与えようとする相手が、他の誰でもなく自分なのだと思うと、その実感は更に深くなる。涼しい顔をして、時々とんでもないことを言っているというのに、当の本人にはその自覚がない。何処へ行っても、誰と話しても、彼の口から自然と出る一人称複数を耳にする度に、ジェシーは少しだけ緩んでしまう口許を隠すのに必死だ。いつから彼の中で、自分が隣にいることが普通で当たり前になったのか、それだけはいつか必ず聞き出してやろうと、ジェシーは心に決めている。
「少し遅い夏休みだが、何処かへ出掛けるかね?」
「…食材だけ、買いにいこう。そのあとは家からでない。二人でご飯を作って、食べて、それから沢山、話をしたいな」
「なんだ、三日間も君が仕事を休むというから、どこか行きたいところがあったのかと。まぁ一日私が駄目にしてしまったが」
「違います、あなたを独り占めしたかっただけだよ」
「……………………食事にしよう」
「ねぇ、ドクター。耳が赤いけど」
「…照明でそう見えるのでは?」
「そういうことにしておいてあげる」
常に完璧でいたいのにそうはさせてくれないドガに、少しくらい意地の悪いことをしても許されるだろうと、ジェシーは言い訳に使われたオレンジの明かりを消して、その耳にそっとキスをした。途端に素早く離れ、大声で食事!とだけ言い残して部屋から去ったドガに、今度はジェシーが、笑いから抜け出せなくなっている。