直帰すると会社に連絡をしておいて良かったと、ホテルに入って直ぐに向かったバーの扉を見持ち直した。酒さえ入ってしまえば、酔えずとも気を紛らすことは出来る。そう思っていたところへ、出来れば会いたくなかった、見知った顔が手を挙げて近付いてきた。
「よぉジャド!今日はもう終わりかー?」
「……あぁ、今終わったところだ」
「じゃあ一緒に飲もうぜ」
「いやいい、一人で、」
「遠慮するなっての!」
「いっ、〜〜っっ」
「なんだ?どうした、具合でも悪いのか?」
不意に腰を叩かれ、ジャドは膝から崩れ落ちる。床に手まで付いてしまいそうになったが、それは寸でのところでグレイが腕を掴んで防いだ。引き上げられたジャドは舌打ちをしながらも小さく礼を言う。
「本当に大丈夫か?」
「あぁ……」
「じゃあ取り敢えず中に入って座ろうぜ」
「いや、」
「遠慮してる場合か」
「……」
「なんか飲むだろ?それとも水にしとくか?」
「今はまだ何も、」
「だからなぁに遠慮してんだっつの。そんなに疲れてんなら俺が一杯奢ってやってもいいぜ。いいネタが手に入ったんだよ。高く売れそうだし、前祝いってやつだ。ありがたく思えよ、そして祝え」
そう言って豪快に笑うグレイに、ジャドは少しつられた。変に気を遣われるよりこの方がいい。それじゃあ、と遠慮なくいつもより少し高めの酒を頼み、隣で慌てるグレイにまた笑って、ジャドは気を紛らすことに成功していた。ここへ来たのは正解だったのかもしれない。
「そういやぁお前、営業だろ?上手くやれてんのか?」
「…誰に向かって言ってんだ、凄腕だぞ俺は」
「嘘つけよ、いっつも湿気た面して酒煽ってんのに、」
「笑ってんじゃねぇ」
「俺にちょっとやって見せてみろよ、良かったら買ってやるぜ」
「言ったな?よし、例えばこれなんかどうだ」
「オイルダンパー?」
「あぁ、C社の製品で今はこれが一番売れてる。従来の製品より錆びにくいって評判で、メーカーの売り込みより口コミで広まったって感じだな。ユーザーの声で売れてっから信用って話なら割とイイと思うぜ。それに今ならキャンペーンも…あ?」
「なんだよ」
「いや……はは、これはキャンペーン終了してんだった。えっとこっち…のは今生産中止だったか…あー…」
「凄腕が聞いて呆れるぜ」
「待ってろ!今他の、…っっ」
「えっ、おい、お前マジでやべぇんじゃねぇだろうな?タクシー捕まえてきてやろうか」
足元に置いてしまったビジネスバッグを取ろうと前屈みになって、また自分の中にある異物が腸内を抉り、上手く逸らせていたはずの気がそこへ向かう。歯を食い縛って耐えようとしたが、今度はそれがかなわない。声をかけてくるグレイに必死になんでもないと伝えても、当然、言葉通りには受け取ってくれない。
「調子悪そうだったのに付き合わせちまったからなぁ…あ、お前もしかして今吐きそう?肩かしてやるから、ほら、行くぞ」
「このままで、いい…」
「いーから」
「どこに行くんだよ」
「あ?そりゃおめぇ、便所に決まってんだろ」
「一人で行けるからほっとけ…っ、」
「そんなこと言ってメロディや他の客に迷惑かかったらどうすんだよ。ほら立てって。あんま無理してっと担ぐからな」
「くそっ…」
引き摺られるようにして連れられた先のレストルームで、一番奥の個室に入れられたジャドは、的外れにも背中をさするグレイを、どうにかしてここから出そうと必死に考えている。焦りばかりが先だって、何の案も浮かばない。遠慮しないで出すもん出せよ、風邪でもひいてんのか?と妙に優しい声色で言われ、この優しさが今でさえなければ、と思う。同時に、今じゃなければ何だっていうんだ、と一人赤面する。それが余計にグレイに気を遣わせることになってしまい、ジャドは勝手で余計なことばかり考える自分の頭を、今すぐ撃ち抜きたい衝動に駆られた。
「おい」
「なんだ」
「なんか変な音しねぇか?」
「っっ!」
「お前も聞こえるか?」
「い、いや…俺には何も…」
「そうか?てか、お前の方から聞こえるような…」
「だからなんも聞こえねぇっ、ひっ……ぅあ、っ」
「え、おい、ジャド!?」
グレイを黙らせようと、上半身を捻りベストを掴んで立ち上がろうとした瞬間、また腸内で動いてしまったそれを締め付けてしまい、脚の力が抜ける。不覚にもグレイの腰に抱きつくようなかたちになってしまい、ジャドは慌てて手を離したが、今度はグレイがその手を掴んで離さない。
「なぁ…お前ひょっとして、」
「なんでもねぇっ、昨夜から、熱があんだよ…そのせいだ…」
「……熱でその反応はねぇだろ」
そう言われて指をさされた先の自身の状態に、ジャドは目眩がした。それだけは避けようと今まで頑張ってきたのに、よりによってグレイの前でこんなことになるなんて。
「もしかしてそれ、あー…仕事と関係あったりするのか?」
「……」
「はぁ…マジかよ、いやそれがお前のやり方だってんなら別に否定はしねえけどよ…」
無言を肯定と捉えたグレイは、目を見開いて手で口元を押さえる。そして、腕を組んで何か悩んでいたかと思うと、小刻みに震え続けているジャドを便座に座らせ、で、どうする?と何でもないように聞くので、今度はジャドが驚いて目を見開いた。
「ど、うって…なにが…」
「いや、そのまんまじゃいらんねぇだろ?あ、もしかしてその状態でいないと契約になんねぇとかヤラしいこと言われたのか?」
「契約は…もう、済んでる…」
「じゃあ何で取らねぇんだよ…この音ってつまり…アレだろ?」
「まぁ…俺だって取りたいのはやまやまだが…っ、生憎、届かねぇっから、な…どうにもならん…」
「じゃあどうすんだよ…」
「ぁ…あした、追加の注文、を、取りに…やったやつのとこ、っ行く…」
「そいつに取ってもらえるって?それでいいのかお前は」
「いっ、いいわけねえ!っだろ!でも、」
「……俺がやってやろうか」
「はっ?なに、」
「俺が取ってやろうかって言ってんだよ」
「はっ…あの一杯で酔ったのか?馬鹿言ってんじゃ、」
「酔っちゃいねぇが、まぁ…酒が入ってるからってことには出来る」
「アホかお前…」
抵抗しないお前も同類ってことで。
肩を掴んでも、それを振りほどきもしないジャドの目を見て、グレイは確信する。後でこっぴどく罵られたとしても嫌われたとしても、今この瞬間は恐らく自分が正しい。…期待されている、確実に。それなら応えてやるべきだ。仲間が苦しんでいるなら助けなければ。そうだ、これはいつもとは毛色の違う敵から仲間を助ける行為なのだ。
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