通りの店の明かりが、ぽつりぽつりと消える頃になって、疲れ切った顔のドガはペルゴラのバーに現れた。
昨日と同じものを。そうメロディに目すら合わせず簡潔に頼むと、眉間の皺を一層深くして、大きな手帳を開く。一文字も、またその一画も万年筆からはあらわれず、ペン先からはただ、インクだけが染み出して、ページの端を汚している。

悪夢のなかにいるような感覚が、もう長いこと続いていた。
何を考えても纏まらず、仕事が思うように進まない。休みをとるように勧められても、ドガは不安でそうする気にはなれなかった。進まないなりに、唯一仕事をしているときだけが平静を保てる時間だったのに、そこから離れるのは不安というより最早、恐怖だったのかもしれない。

自分らしくないことをしてしまった。ジェシーは生涯の友人であるはずだったのに、壊してしまった。どこで彼に好意を寄せているのだと錯覚したのだろう。彼なら真面目に話を聞いてくれると、何故、勘違いしたのだろう。どうして他人に期待をするようになったのだろう。身勝手すぎて、彼に合わせる顔がない。

勝手を強いたことに恥じ入り、落ち込み、都合の良い空想で自身を紛らわせて、ドガは自分の創りあげた世界の中で不安定に過ごしている。メロディが置いたグラスにも気付かないほど深い場所で。
何気なく話し掛けて、ジェシーも何事もなかったかのように笑って、これまで通りの友人でいてもらえる展開を、ドガは何百回と想像した。それでも最後には、そうはなっていない今に戻って、大声で叫びそうになるのを必死に堪える。

同性から誘われるというのは何度かあると、ジェシーが苦笑混じりに話していたことを思い出す。君ほど美しく生まれると大変だなと、自分にも彼にも何でもないことのように言って流していたことも。何度かある。そう言っていた。その内のひとりになってしまった。彼を困らせる人間のひとりに。

冷や汗で身体のベタつくのを自覚してから、やや温くなった酒を呷る。
気付けば、インクの染みすぎた紙の端には穴が開き、次のページに新しい染みを作っていた。ドガは短い溜め息を吐き、手帳を閉じる。
いつから俯いていたのか、首についた痛みを無くそうと顔をあげると、隣に影が見えて自然と視線が引っ張られた。

「やっと気づいた」

「……ジェシー」

すぐ近くにある完璧な笑顔を見て、ドガはすぐに目を逸らし、背筋を伸ばす。それから咳払いをして、やっと身体を少しだけジェシーに向けた。その顔はまた、俯いてきている。

「久しぶりですね、ドクター・ドガ」

「久しぶりだな。あー…最近は、その、」

「どう過ごしてたか?」

「ああ…」

「仕事ばかりでしたよ。あなたと会わない間に僕が載ってる雑誌は数冊出たし、ここ数日はテレビCMを撮ってる。他にもいくつか話がきてるみたい」

「凄いじゃないか」

「うん、自分でもそう思う。…ねぇドガ、こんなの、らしくないって思わない?皆に心配をかけてるんだよ僕たち。知ってた?」

「何となくは…私のせいでこんな風になってしまって、本当に、君にも皆にも要らぬ迷惑を…」

「確かに、少し腹立たしいとは思ったけど。でもそれは、あなたが僕を避けていたからだよ」

「……」

「そして僕もあなたを避けていた。お互い様じゃないかな?」

「避けようと思っていたわけではないが、結果としてそうなってしまった…すまない」

「あなたのせいだけじゃないよ、分かってるでしょ?僕だってすぐにあなたに会って話しておくべきだったんだ」

「…ジェシー、もし…私を気持ち悪いと思ったなら、離れてくれて構わない…」

「気持ち悪いだなんて、これっぽっちも思ってないよ。あなたをそんな風に思ったことは一度もない。本当に怒るよドガ、僕をそんな人間だと、」

「忘れることにしたんだ、ジェシー」

そうしようと決めていたわけではないが、自然と口から出ていた言葉に、ドガは自分で膝を打ちそうになった。そうだ、それが一番良い方法だ、と。
何故これを真っ先に思いつかなかったのか。自分への呆れから苦笑が漏れて、それに反応したジェシーの目の縁が引き攣ったことに気づかないまま、ドガは笑顔を作る。

「わ、すれるっていうのは…」

「君への、友人以外の気持ちを。君には忘れてくれと言ったのに、私がいつまでも引きずっていては迷惑だろう?」

「迷惑なんてことはないよ。…でも、そっか。僕も、あなたに返事をしなきゃと思ってたから」

「よければ、聞かせてもらえないだろうか。君の口から聞けば、きっぱりと諦めもつくだろう。…わがままを言うようで申し訳ないが」

「うん、そういうことなら。ドクター・ドガ、あなたの気持ちはうれしいけど、でも、僕には応えることが出来ない」

「……言ってもらえて良かった。ジェシー、ありがとう」

「ううん、それで…これは僕のわがままなんだけど、これからも出来たら、あなたとは良い友人でいたいな」

「わがままなど…とんでもない、嬉しいよ。私もそういられたらと思っていた」

「じゃあ、これまで通りの僕たちで」

「よろしく頼む」

握手をかわして、軽く笑いあって、乾杯をする。そして、会っていなかった間の出来事をジョークまじりに互いに話聞かせ、時間はやや速足に過ぎていく。
他人の目から見れば、恐らくいつも通りのふたりに見えている。ならばそれで正解だ。
ドガはどこか安心したように、そして他人事のように、少し離れたところから自分を納得させている。

 





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