ザァ、と思わず目を閉じてしまうような強い風が吹いて、サツキのヘッドホンが耳からずれた。直そうかと手を伸ばして、ふと、こんな風の強い日は、人の声も届かないことを思い出し、そのまま首にかける。
人通りはある。少し離れたところで風に文句を言っているらしい女性たちや、楽しそうにはしゃぐ小さい子供たち、身ぶり手振りの大きい調子の良さそうな男子学生のグループが見える。だが、声はない。こんな日が、少しだけ心が軽くなったような気持ちで、いつもより過ごしやすくて、サツキは好きだった。しかしそれが最近、分からなくなっている。
気が楽になるとは思うのに、ああいう場にいられない自分が鬱陶しいと感じることもあった。そんなものはとうに切り捨てた感情だったはずなのに、どちらともつかない思いが喉を締め付けて、不意に泣きそうになる。まったく不思議な感覚だ。
気付けばすぐ近くまできていた学生たちと、顔を合わせないように下を向いてすれ違う。風のお陰で、僅かに聞こえてきたのは笑い声だけだった。それに何故、苛立つのか、怯えてしまうのか、寂しくなるのか、そして少しだけ、羨ましく思うのか。

「……よ、…つき、」

「え」

急に目の前が薄暗くなり、足を止めて顔をあげると、ハルが微笑み、道を塞いでいた。癖のように眉間に皺を寄せ、サツキは何、とぶっきらぼうに呟く。そして目を合わせまいと、風にあおられて少しだけ乱れたハルの前髪を睨む。首をかしげてニコニコするだけのハルの耳に、サツキの声はやはり届いていなかったが、サツキは構わず肩をぶつけて乱暴に道を作る。
思えばこれも不思議だった。まとまりのない考えや悩みにぐだくだ取り込まれているときなど、決まって目の前にハルが現れる。そうなるともう、サツキは反射的にハルの言葉に拒絶や否定を投げるのに夢中になって、ついさっきまで頭のなかにあったはずの、雨雲のような、薄暗い、はっきりしない、じめじめとしたものがいつの間にか消えていた。

「危ないよって、言ったんだ!そんな風に下を向いていると!」

「大きなお世話…」

相変わらず風は、大袈裟な音を立てて吹いている。転がってきた空き缶の音も盗んで、ひっきりなしに。
珍しく大きな声を上げているハルの声はサツキに届いたが、サツキのほうはそんな気遣いもせず、ほとんど独り言のような言葉で流す。

「ごめんね、よく聞き取れないんだ!」

別に聞かなくていい、と頭を振るだけのサツキの横について、ハルは歩幅を合わせて歩く。早足なのを気にもしてない様子で、数日はこんな調子らしいだとか、こんな風が空を掃除してくれるので、雲がかからず星を見るのに良いだとか、相槌も打たないサツキに頻りに話しかけては楽しそうに笑う。
そんなハルのとなりで、今ならあの学生たちのように、仲良く話して歩く友達同士に、まわりからは見えるだろうかと、サツキはふと考える。何も話していなくても、微笑んでさえいれば、きっとそう見えるだろう。けれど自分にはそれが難しい。簡単なことのはずなのに。誰もが当たり前のようにしているのに。

「どうかした?」

「別になんでもない」

「何だか調子が悪そうだから」

「なんでもないってば」

調子の良いときの自分を、自分でもよく分かっていないのに、まるで知っているかのようなハルの口振りにサツキは苛立つ。それでも冷静に、きっと普通なら、自分をよく知る友人にこんなことを言われると、自然と心が開けて、悩んでいることを話すのだろう、と思う。今までに読んできた物語のなかの登場人物は、少なくともそうしていた。それが友人であれば当然だと。
当然ができない自分に、何故ハルは話しかけるのか、鬱陶しいと思っていても完全には遮断できないのはどうしてなのか。もう少しで答えが見えそうなところまで、きている気がする。それが少し怖い。

「サツキ、僕こっちだから!」

ハルの声で弾かれたように顔をあげて、無言で頷く。背を見せて歩き始めたハルが風に身体をおされて、少しだけ早く離れていく。そうして段々と広がる距離に焦って、何か言いたいのに言葉が出ない。
また明日!と微かに聞こえて、サツキは小さく手をあげた。驚いたように目を見開いて、直後に破顔したハルのもとへ、すぐに走って行ってしまいたかった。もう少し歩こう、近くのカフェで何か飲もう。そんな言葉の先に、本当に言いたいことがきっとあって、それは自然に出てくるはずなのだ。そんな確信も風が連れ去って、とうとう動けないまま、ハルの姿は見えなくなった。
間近で聞こえた自転車のベルに退かされて、思い出したように足を動かす。
明日にはまた、笑顔で話しかけてくるハルを鬱陶しく思いながら、冷めた態度でいて、帰路にはこうして何も出来なかった自分に憤るのだ。すれ違うひとや、こんなときに限って星を見に行こうと言わなかったハルに八つ当たりしながら、面倒くさい自分が、明日も、明後日も、その先も。
視界が歪んで、足の指先が痺れて、息苦しくなって、振り返って、情けなくなりながら、早足に来た道を戻る。寂しさの正体に気付いたと言ったら、ハルはどう答えるだろうか。いつもと変わらず笑ってくれるだろうか。風は休むことなく吹き続け、サツキの背を、急かすように押している。




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