ドガのあまり物のない家の中に、ジェシーが特に気に入った家具がある。ほとんど黒に見える濃い茶色の、大きくて古い、革の色がところどころ落ちた、野暮ったいチェスターフィールドソファーだ。ベッドを買うのが面倒だったので、そこで寝起き出来るように昔買った。というドガの言葉で益々好きになってから、リビングではこのソファーが、ドガの書斎では自ら勝手に運び込んだ小さめの二人掛けソファーが、ジェシーの居場所になりつつある。
今なら考えられんよ。肩を竦めて自嘲気味に話していたのは、今の彼が質の良い睡眠をとることに重きを置いている為だろう。お陰でジェシーも、その質の良い睡眠をとるための、一人暮らしにはやや大きいと感じるベッドに時々潜り込めてはいるが、それでもドガが不在の時などは、好んでこのソファーで眠るようにしている。彼のいいときも悪いときも、ここには詰まっているのだ。こうしてひとりからふたりになるまでの、全ての夜が。それを想いながら横になると、不思議とドガが傍にいて、まだ自分たちが昼食を共にし始めるより前の話を、静かに語り聞かせてくれているような気分になれた。
とりとめもなく、様々に、昔や今、時々はその日の朝のドガのことや、この先の自分たちのことを考えるうちに眠りにつくのが、ジェシーはたまらなく好きだ。

「ジェシー…、ジェシー」

「んん…あ、おかえりドガ…」

「またこんなところで寝ていたのか…ベッドで寝るように言っているだろう」

「うーん…何時…?」

「二時五十一分。前に首が痛くなったと言っていたのは、どこの誰だ」

呆れたように言いながら離れていったドガが、無駄のない動きで次々キッチンを起こしている様子が、ジェシーの膜のはったような状態の耳に微かに聞こえる。
小気味いい音をたてて押されたスイッチの音と、遅れて点いた、リビングにわずかにもれる明かり。蛇口を思いきり捻って、赤いエナメルのケトルに、せっかちに、勢いよく水を入れて火にかけて、ジェシーが買って置いた日には怪訝な顔をしていたマグホルダーから、カップを二つ取ってダイニングテーブルに並べる音。それからパタパタとキッチンの戸棚を次々開けては閉める音が続き、少しの間があって、また移動させたな!とリビングに届くまでには小さく、くぐもってしまったドガの声。
集中して全ての音を拾って行動を耳で追い、ジェシーは同じくらいの間をあけてから全身で伸びをひとつして、苦笑いをしながら起き上がり、そこでもまた、片手で首を押さえながら伸びをした。

「ごめんね、掃除してたら間違えちゃったかも」

「ジェシー、今月もう三回目だぞ」

「わざとじゃないよ」

「まったく…紅茶か珈琲、どちらがいいかね」

「紅茶がいい」

「ティーバッグだぞ」

「うん、いいよ」

眠くても痛くても悲しくても目だけは擦らないと決めているジェシーが、そのせいか、まるで不貞腐れたこどものような顔を、隠すこともせずにキッチンの入り口に立っているのを見て、なんとなく、あやすように喋りだすドガの声色の変化が、くすぐったい。そしていつも、ここへ来なさい、と自分を扇ぐような動きで手招きされるのを待つ。そうしてドガから得る許可の心地好さは、何物にも勝る、とジェシーは密かに思う。

朝に飲む紅茶の香りで満たされたキッチンに、まだ目覚めきっていないジェシーと、今にも眠ってしまいそうなドガが、あやしい手つきでカップを持ち上げ、溢れるギリギリまで中身を揺らすので、お互いの手元を見て静かに笑う。練習だと思おう。なんのだ。僕たちが今よりずっと歳をとった時の。私は溢さずにいられる自信がない。こんな風に、まるで頭を使わずにする会話が実は好きで、それで笑いあえる時間も楽しくて、だからジェシーはいつも、どんなに遅くなっても帰ったら自分を起こすようにと、ドガに頼んでいる。用もないのに寝ている人間を起こすのは、と最初は難色を示していたドガも、こんな会話で妙に楽しくなれる時間を好きになってしまってからは、遠慮なく声を掛けるようになった。

「僕、あのソファーで寝るときはほとんど、ドガのことしか考えてないんだけどね」

「…それは前にも聞いた」

「多分、強いからなんだよ」

「強い?」

「うん。ドガの匂いが」

なんでもないことのようにさらりと言って、ジェシーはカップの中身を気にしながらダイニングテーブルに移動する。いつもドガが座っている席の椅子を引き、向かいの自分の席にうつったあと、行儀悪くカップに口をつけながら腰を下ろす。それを見てから、今度はドガがカップの中身を溢さないように注意しながら、引いてある自分の椅子に座る。心持ち、呆れたような、嫌そうな、それでいて照れくさそうな、複雑な顔をしながら。

「それは…そう聞くと尚更あそこで寝るのはやめてほしいんだが…」

「ふふ…でも落ち着くんだ…あとちょっと嫉妬する」

「ソファーにか?」

「うん、僕が知る前のあなたを知ってるからね」

「おかしな男だな、相変わらず」

「そうかなぁ…僕は、出来るだけたくさん、ドガのことを知りたいだけだよ」

「聞かれたら、答えられる範囲で話しているだろう?」

「それでも嬉しいけど、あなたを想ってる時間が長ければ長いほど、あなたが何を考えているか少しずつ分かるような気がして…それが楽しいんだよ」

「確かに、答えを先に聞くよりは楽しいだろうが…私のことでさえなければ…」

「ドガのことだから、楽しいんだよ」

「…私は、君が何を考えているのか、ほとんど分からないが」

「うん?」

「なんとなく、君が考えそうなことだな、ということが、ふと浮かんだりすることはある」

「…うん。あれかな、長く一緒にいると考えかたが似てくるっていう…」

「それもあるだろうな。しかし、そもそも自分と似ている部分がある人間に惹かれることのほうが多いようだ。…まぁ私も詳しくはないのであまり適当なことは言えんが、分からなくはない話だろう」

「うん……んー…」

「勿論、全てが同じとは思わないがね。流石にそれではつまらない。君にあって私にない部分にも、当然惹かれるものが、…どうしたんだジェシー、また眠くなったのか?」

両手をドガのほうへ滑らせていたジェシーが、とうとうテーブルへ沈んで突っ伏すかたちになったので、ドガは慌ててジェシーのカップを自分のほうへ寄せた。んー…と何を考えているのか分からない声をあげて、落ち着かなそうに指をばらばらと動かしてテーブルを叩くので、ドガはその指を一本つかまえて持ち上げ、手首をぐにゃぐにゃと振る。そしてもう一度、されるがままのジェシーに笑いながら、どうしたんだ、と小さなこどもに答えを促すように静かに尋ねた。

「いや…うーん……なんか、なんて言ったらいいのかな…」

「なんだ、はっきりしないな」

「結構…すごいこと言ってもらえてるなぁと…思って…」

「……忘れてくれ」

「無理だよ、こんなに嬉しいのに。あーあ…僕の家にあった一人掛けのソファー、持ってきたらよかった。そうしたらドガに座ってもらえたのに」

「君のことを考える時間を増やせと?だが、それでは研究に身が入らない」

「あーもう…分かった、ごめんね。僕の負けだよ…」

「む、勝ち負けの話だったのか」

「いや違うけど…違わない…」

「本当に今日ははっきりしないな、ジェシー」

指先の熱を逃すまいと、今度はジェシーが指をつまんでいたドガの手を取って包む。そうするとまた、あやすような声で、眠いのか?と聞いてくるので、すっかり冴えた目をわざとらしく細めて、ジェシーは少し、と小さく答えた。

まだ紅茶が僅かに残るカップをシンクに置いて水を注ぎ、ケトルに残ったお湯を捨てて、出しっぱなしになっていたティーバッグを戸棚にしまう。既にスイッチに指をかけて待っているドガのもとへ行けば、キッチンはまた眠る。数時間後にはまた朝がくると分かっていても、いつもこの瞬間は不安な気持ちになって、そんなときジェシーは必ず、明日の話をする。先に少しだけふたりの明日を作っておくと、それだけで寂しさは紛れて、静かなキッチンを怖がらずに済む。

「カップは明日、起きたら僕が洗うから」

「では頼む。明日、というかもう今日か…私はその間に朝食の準備をするから、起こしてくれたまえ」

「うん。昨日は野菜があまり取れなかったから…サラダ多めでお願いします」

「任せてくれ、サラダなら得意だ」

ドガの自虐めいた言葉に笑って、真っ暗なキッチンから出て、ジェシーはさっきまで横になっていたソファーの背もたれを、軽く撫でて離れる。明日もきっとここで、昔のドガに思いを馳せながら眠ってしまうのだろう。夜中に、気を遣いながらそっとドアを開けて、冷たい風と共に家に入ってくるドガが、リビングでジェシーを見つけて起こし、それをまったく無意味なものにしてしまう時まで。




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