私が食器としてこの世に生まれ出でたのは数百年も前の事である。当時はまだ「私」という自我もなく、ただ職人の懐の中で揺られるのみであった。
 そんな私が自我を持ち始めたのは、戦乱で命を落とした主人の手を離れ、あちらこちらと世を流れに流れていた頃の事である。


「雷蔵。これ、使って」


 その時私は、京の都に近い町の市で売り出されていた。何でも私を作った職人は後の世で「椀を作ることにかけてこの者の右に出る者はいなかった」とまで崇められた人物らしい。ということで私もそれなりに人目を惹くような美しいなりをしていた。それはもう相当な高値で売られていたものだが、どうしてか私を手にした者は不慮の事故にあったり非業の死を遂げたりした為、私には何かいわくがついているという噂を付けられなかなか買い手がつかなかったのである。
 そんないわくも忘れ去られた頃、私はこうして再び主人を持つ事になった。私を買ったのは美しい着物を纏った細身の女性。

 そして私は、その恋人である不破雷蔵という青年に送られたのである。


「ありがとう、一生大切にするよ」


 私を手にした不破の姓を持つ青年は、それはそれは嬉しげに目を細め、彼女へと微笑みかける。仲睦まじい二人。このまま二人の幸せな生活が続けば良かった。…しかし、私の呪いは早々に二人を絶望の淵へと追いやることになる。
 なんと、彼女が火事で命を落としてしまったのだ。


「どっ、どうして君が…っ、うっ」


 まだ火のくすぶる瓦礫の前で、不破青年はひどく嘆き悲しんだ。彼らは祝言をあげたばかりだった。二人の暮らす小さな家。たまたま外に出ていた不破のみが助かったのだ。
 不破は全てを失った。家も、家財道具も、そして人生の伴侶も。ただ一つ残ったのは、私だった。不破がいつも懐に入れて持ち歩いていた私。
 不破の元に残ったのは彼女の思い出と、私だけだった。




 不破は影の世界で生きる男だった。ほこほことした日なたの笑みを常に浮かべている男であったが、裏では相当にえげつない仕事に手を染めていた。私は食器であるから、いつも不破は私を持ち歩いていた。あの女性の思い出が、色濃く染み付いている私。

 不破は次第に、以前とは違うように私を扱うようになった。


「いただきます…」


 買ってきた米を煮て、粥を作る。また、道端で売っている粥を買うこともあった。だからこそ椀は常に手放せないものであったのだが、不破の場合は些か違う理由から私を手放さないのだと思った。
 不破は私に唇をつける前、いつもじっと私を見つめる。そうしてふっと表情を緩めたかと思うと、一撫でしてからそっと唇で触れ、一度僅かに離れてから再び吸い付くのだ。端から見れば大層奇妙に見えたことだろう。しかし不破は必ずその儀式じみた行為を行った。

 まるで恋人とやらにするようなそれ。人間のすることは、よく分からない。







「雷蔵、久しいな」
「三郎」


 とある晴れの日、不破の知人が訪ねてきた。ずっと降り続いていた雪の止んだ、貴重な晴れ間の日。息を白くしながらやってきたその青年は、驚くべきことに不破と瓜二つの顔をしていた。不破とその知人は一つ二つ言葉を交わすと、連れ立って饂飩なんかを食べに行った。

「うん…美味いな。実は、まともに飯を食うのは久しぶりなんだ」
「へえ、そうか」

 ほかほかと湯気のたった饂飩が二人の前に運ばれてくると、隣の青年はつるつると太めの麺を吸った。青年の使う箸は実は不破から贈られたもので、青年はそれは大切にその箸を使っていた。嬉しそうに饂飩を食べる青年をにこやかに見つめながら、不破は懐から出した私の中に饂飩を盛る。わざわざ別の椀が用意されているというのに、いつものとおりの「儀式」を執り行う不破。
 不破が私を撫で、優しげな眼差しをわたしに投げかけると、隣の青年がふと気付いたように不破を見つめた。

「雷蔵、食べないのか?」

 尋ねられた問いに、不破は私へ視線を落としたまま答える。

「ああ。今頂くよ」
「それ、彼女に贈られたっていうアレか。へえ…美しいな。ちょっと私にも見せてくれないか」
「それは出来ないな」

 一度も青年と視線を交えないまま、不破はきっぱりと言う。まるで愛おしいものを撫でるような手付きはその間も止まらない。どこかうっとりとした目つきで私を見つめ続ける不破を、青年は訝しげに見つめる。

「…何故だ?」
「これは大切なものだから」
「ちょっとくらい見せてくれても」


 不破はゆるりとした笑みを崩さぬまま、ゆっくりと隣の青年に顔を向ける。その時僅かにだが、青年の表情が畏怖したように変化した。


「…雷蔵、なんだか前と雰囲気が変わったな」
「そうかな」
「ああ。なんだか笑顔の感じが…」

 そう言いかけて、青年は私へ視線を落とす。

「…随分と雅な椀だな」
「そうだね。魂を吸われそうなほど、美しい」
「どこで手に入れた?」
「骨董市でね。百年以上前の名匠の作だよ」
「…なあ、なんだか綺麗すぎやしないか?」
「どうして?」
「だって、それが出来たのは百年も前なのだろう? だのにそんなに…傷一つもなくて、なんだか、まるで…」

「まるで? まるで、なんだい三郎」


 その時初めて不破は青年を見た。私は見逃さなかった。不破に見つめられた青年の瞳が、はっきりと恐れおののくのを。不気味だ、とでも言うように歪む顔つきを。


「…いや、なんでもない」
「そう」


 それぎり青年は不破から目を逸らした。不破も、いつもの笑顔を浮かべて私に視線を戻す。二人が目を合わせることは、それ以降もうなかった。

 青年は、不破の私に対する異様な執着に気付いてしまったのだと思う。その後二人は並んで歩き、適当な場所で野宿をしたが、青年がどこか機会を窺うようにこちらを意識しているのがなんとなく分かったからだった。

「ふわあ…何だか急に眠くなってきちゃった。三郎、僕は先に休ませてもらおうかな」
「ああ。…雷蔵、おやすみ」

 食事が終わると、不破は急に欠伸を漏らして子どものようにその場へ横たわる。青年が作った粥。不破と同じようにちゃんと食べていたようで、実は青年がその粥を食べていなかったという事に不破は気付かなかったのだろう。気が置けない友が作ったものだからと粥を平らげた不破は、昏々と眠りにつく。

「…恨むなよ、雷蔵。全てお前の為なんだ」

 青年は不破の傍らに転がっていた私を拾い上げた。不破の安らかな寝顔をしばしの間見つめ、足音をたてないようにしてその場を後にする。そうして歩くこと暫く。青年は切り立った崖の上に辿り着き、端のぎりぎりまで歩を進めて下界を見下ろした。

「…これだけ高ければもうこの椀が人の手に渡る事もあるまい。雷蔵の為だ。祟るなら、私を祟れ」

「三郎」


 私を片手でわし掴み、いざ谷底へ投げ入れんとした時、急に青年の背後から殺気じみた威圧感が漂った。予想だにしなかった青年。驚き振り返るのと同時に、目が血走った不破が襲いかかってくる。

「うわっ…! 何をする雷蔵、手を離せ!」
「返せ! それは僕の椀だ、返せ!」
「雷蔵、君はこの椀に取り憑かれでもしているんだ。こうする他君が助かる道はない、分かってくれ雷ぞ…ああっ!!」

 もみくちゃになって取っ組み合った二人。何の偶然か、はたまた必然か。青年の手が滑り、私はころころと転がって谷底へ落ちる。ぽーん、と宙に舞う私。しかしそんな私を掴む手があった。手は私を掴み、ぎゅっと私を抱き締めて体ごと谷底へ落下していく。
 不破だった。


「らっ…雷蔵ーっ!!」


 青年の、悲痛な叫びが辺りにこだまする。浮遊している時間は僅かだった。遠くなったと思った轟音が突如間近に迫り、ぐしゃりという不快な音と共に大きな衝撃が私を襲う。その強い力により、不破の手から飛び出した私は乾いた音をたててそこいらに転がる。
 静寂。風も止む。黒ずんだ灰の雲から、折しも小雪がちらついてくる。はら、はらと無機質な岩場に積もる雪。赤に染まる不破の顔に触れて融けるさまは、なんとも儚げに見えた。

「う…っ、」


 目も虚ろな不破の体からは、ただ静かに赤が流れゆく。大儀そうに動く視線が私を捉えたとき、一瞬その輝きに溌剌とした生が宿ったことに私は気付いた。


「これで…。
やっと、君の元へ」


 そう言い終えると不破は柔らかく微笑み、そしてそのまま動かなくなった。降り積もっていく雪はもう融けない。色の悪い不破の顔が、異様に白い雪に馴染んでいく。
 不破の最後の笑み。穏やかな眼差し。ふと、不破はわざと私に執着していた振りをしたのではないかと思った。何やらいわくのある私。私に関わる者にいわくをもたらすその、「何か」。そのいわくに遭いたいが為に、わざと不破は私に執着したのではないか。彼は死に場所を求めていたのではないか。自分を死なせてくれと、その「何か」に訴えかけていたのだとしたら。…しかしたとえそれが真であったとしても、私にはそのような事は、全く関係がない。再び世を流れる日々が続くだけ、ただそれだけだ。

 人間とは、非常に愚かなものである。折角思った事を実行できる体が、能力があるのに。大した事のないもので命を手放してしまうのが殆どだ。この世の中で、己の命を自ら断つのは人間の他にはいないのではないだろうか。

 事切れた不破の顔。全く人間とは浅はかで、実に愚かしい生きも


 その時、一つの苦無が世にも美しい椀へと突き刺さる。たちまちに亀裂が広がり、粉々に砕け散る椀。
 力尽きた不破雷蔵の傍らに音もなく駆け寄る姿があった。不破雷蔵と全く同じ面を持つ青年は、冷たくなった不破の手をそっと握りしめて涙を流す。

「どっ、どうして君が…っ、うっ」

 青年は友を失った。ただ一つ残ったのは、不破に貰った雅な箸。青年が、いつも大切にして持ち歩いていた箸。
 青年の元に残ったのは不破との思い出と、その異様な美しさを持つ箸だけだった。


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