ぶおんと大きな風が吹いた。
青年が瞼を開くと、そこは境内の前だった。
海底にいたはずなのに水なんてどこにもなくなっていた。
見上げても、あるのは眩しい太陽だけ。
うっ、うっ、うえーん
はっと振り向けば、そこにはしゃがみ泣く子どもの姿があった。
ここが心だとすれば、この子は…――
青年は思わず駆け寄った。
「美桜か」
膝をつき、小さな彼女の肩を持つ。
確証はなかった。
しかし、確信はあった。
しゃくりあげて泣く子どもは、顔を上げると誰かと問う。
やはり美桜だ。幾ら小さくても、その面影が消えることはないのだ。
体が震えるようだった。
「俺は小太郎だ。風魔、小太郎」
「こたろう」
彼女よりもいくらか高い声が、彼の名を呼ぶ。
「美桜のね、お母さんがいないの。お父さんもいないの。どこ探してもね、いないの」
その大きな目から涙が零れ落ちた。
ぼろり、ぼろりと。
「こたろう知らない?」
涙ながらに見上げる子に、青年は言葉をなくした。
一瞬走馬灯のように記憶が駆け巡り、思い出したのだ。
あの部屋が線香の匂いで満ちていたことを。
そして、黒くて大きな仏壇があって、そこには五十代くらいの男女の写真が飾られ、毎日彼女が手を合わせていたことを。
ああ、そうだ。
そうだったのだ。
なぜ気付かなかったのだ。
美桜はあんな大きな家で、一人だったじゃないか。
四人掛けの机に、棚にはたくさんの食器がしまってあったじゃないか。
彼女が使わないはずの夫婦茶碗や湯呑みが置いてあったじゃないか。
玄関の表札には、三人分の名前が書いてあったではないか。
ご飯をうまいと言った時には、久しぶりにそう言ってもらえたのが嬉しいと笑っていたではないか。
美桜は親を失くしていたのだ。
本当に、独りぼっちだったのだ。
「こたろう、どうしたの?何で泣いてるの?」
どこか痛いの?と小さな美桜が泣きべそを掻いたまま問う。
触れてみれば、確かに生ぬるいものが頬を伝っていた。
「気付いてやれなくて、すまなかった。俺は俺のことばかりで、お前のことなど何も見えていなかったのだな」
「何のこと?」
「美桜、お前の両親は亡くなった。もうこの世にはいない。だから、幾ら探したって見つからないんだ」
小さな彼女の目が見開いた。
そして、大きく首を振る。
「そんなはずないもん!お父さんもお母さんが美桜を置いて死んじゃうはずないんだから!」
今にも泣きだしそうな彼女を、青年はぎゅうと胸に閉じ込めた。
「本当だ」
「うそ、うそつき。うそつきぃっ!」
その腕から逃れようともがき、小さな美桜は腕を振り回す。
しかし、どれだけ殴られようと、小太郎は抱く力を弱めようとはしなかった。
「受け入れろ。逃避しようと子どもに戻ったって、現実は何一つ変わらぬのだ」
彼の声が響いたその瞬間、ドクン!と子どもの体が波打つ。
そして、
「…やだ、やだ……独りなんかっ、やだ」
子どもは、彼の知る『美桜』となっていた。
青年は彼女を抱き締めたまま、静かに口を開く。
「誰が独りだ。ここにもう一人いるではないか」
「この声……こた、ろう、さん?」
彼女はぼんやりとした声でそう問うと、そっと顔を上げた。
「ああ、俺だ」
その瞬間彼女の顔が歪んだと思えば、その目からぽろりと涙が落ちていた。
「まさか天国でまで小太郎さんの幻みちゃうなんて、ばかみたい」
「何を言っている。お前はまだ死んでいない」
彼女は涙を浮かべたまま、うそと呟いた。
「まことだ。お前を連れ帰るために、心の底までもぐってきたのだ」
さあ帰ろうと手を引く青年に、彼女は目を開いたまま首を横に振った。
「ごめんなさい。帰れない」
「……どうしてだ?」
そっと回していた手を離し、真正面から向き合う。
透き通った双眼に見つめられ、彼女は目を伏せた。
「もうわたし何もないんです。家も家族も大事なもの全てなくなっちゃった」
だから、と彼女の口が動く。
「生きていたって仕方がない」
美桜の笑みはまるで泣いているようだった。
その頬に手を伸ばした小太郎は、そっと口を開く。
「ならばその命、俺に託してくれないか」
目を見開く美桜。
静寂がその場に広がっていく。
「……美桜、お前が必要なのだ」
生きるならお前と共にいたい、と小太郎は真直ぐな目を向けた。
「俺はまだ人として半人前だ。笑い方は下手だし、料理もうまくできない。動物には逃げられる。洗濯物もろくに干せやしない…――まこと情けない男だ」
自嘲ぎみに口角を上げる彼。
「けれど、」とその唇が動いた。
「傍にいると誓う。お前が望んでくれるなら、いつまでも」
彼女の頬を一筋の涙が伝っていく。
小太郎は手を伸ばすと、不器用ながらも親指でぬぐった。
「家も家族も、無くなったものは元には戻らぬかもしれない。けれど、もう一度作ることはできる」
小太郎は彼女の手をそっと取ると、凛とした双眸で見据えた。
「だからもう一度、俺と生きてみないか」
明日を創るのは私たちだから
ぽろぽろと涙をこぼしながら、彼女は小さく頷いた。
「うん」
――途端、世界が弾け飛んでいた。