忘れたかった記憶




一寸先も見えぬ闇の中へと突き進んでいく。
進んでいるのかも分からない真っ暗な水中を、もがくように掻き分けた。


久方振りの闇は彼の体に纏わりつくようだった。
闇は彼女と過ごした時間にかき消されていた己の本性でもある。

脳裏によみがえる記憶をかき消すように、男は口から息をはいた。
ごぽりとそれは泡になって上がっていく。





その時、声が聞こえた。



「…稜、蘭稜!」

彼は目を開く。
このしゃがれた声は――


「お前に蘭稜という名をやろう」

あまりの美貌に味方が見惚れて士気が上がらず、恐面を付けて戦に赴いた男の名だ。のう、主そっくりであろう。
蘭稜のように強うなれ。強うなって、面を嘲笑う者どもの上に立ってみせろ。

――まぎれもなく師の声だった。


「嫌だ出してくれ!蛇が!殺される!」


「ただの毒蛇30匹だ。死にたくなければその刃でどうにかしてみせろ」
「お師匠さま、お師匠さまっ!…うぁあああ」


真っ暗闇の水の中、幻聴は止まない。


「目隠しなんて前が見えな、っあ!」

「何をしておる。避けねば刺さるぞ」
「そん、なっ!うぐぁ!」
「泣くな!蘭稜」
「っはい」
「忍びならば心を失くせ。お前は人ではない。無情の草だ」



“ヒトの心は底なし沼だ。あまりに深く、足を取られればそれまで。心は同時に鏡でもある。お前の弱い部分にも否応なしに突き刺さる。”

神の声が脳裏をよぎる。
これのことなのか。


「密命果たして参りました」

「最中何を考えておった」
「…痛みを長引かせぬよう一発で仕留めなくてはと」
「馬鹿者!忍びが敵に情けなどかけるでないわ!」


何も考えるな。
声を振り切るように暗闇を掻き分ける。


「蘭稜、何をしておる。それはまさか!」

「五代目を継ぐには、私はあまりにも未熟です。だから、いらぬものを手放そうと」
「やめろ!忘心の術は危険過ぎる。声を心を失くしたいのか」
「忍びに心は必要ないと師はいつもおっしゃるではありませんか。狂ってもいいのです。両親を…この手にかけてしまった。しかし、目を隠したって何をしたって苦しみは消せなかった!もう感情などいりませぬ!」
「一度おかしうなれば、元には戻らぬ!」
「しかし、これで全てを忘れられる」
「蘭稜っ!」
「わたしはっ…これで、本物の風魔小太郎になれるのです!」


声を対価として、一切の感情を消す。
それが風魔衆に伝わる禁術『忘心の術』だった。
しかし、禁術には欠点が一つ。解術方法がなかったのだ。
禁術を使った者は鬼のように強くなる。その代わり、よく狂った。

そんな忍を仕留めるのは彼の役目だったため、その危うさは誰よりも理解していたが、それでも全て忘れたかった小太郎は、その夜、禁術をその身に放った。


そうだ。
そうだったのだ。


俺はこうして風魔小太郎になったのだ。



忘れていた。今まで、ずっと。


ごぽり、と彼は息を吐き出した。


忘れたかった記憶





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