何もかもを捨てようとも





無我夢中で、闇を駆け抜けた。
森の中をすり抜け、電信柱を飛び、見つけた小さな家に飛び込む。


耳の中にこだまするのは、「餓鬼に食われる」という姫神の言葉。


一秒も惜しかった。


施錠された玄関の扉を蹴破り、小さな物音のする和室に駆け込む。
そして、中の光景が目に入った瞬間、全身の毛が逆立つ。


あまりにも衝撃的だったのだ。


そこには、男に押し倒され、今にもモノを挿入されようとしている美桜の姿があった。
彼女の体からは血が溢れだし、畳に赤い水溜りが広がっていて。


また、顔はひどく青く、唇は紫色で、その目に感情はない。



それを見た途端、ぶちんと音を立てて自分の中の【何か】が切れた。


男を力任せにふっ飛ばして、彼女の元に駆け寄る。
普段の風魔ならば先に男に仕留めているはずだろうが、その時はなぜかそれさえ忘れていて。


『美桜!』

ぐったりとした彼女を抱き寄せ、首輪を千切る。
しかし、それでもその呼吸はあまりにも弱弱しいものだった。

『美桜っ』

青年は出ない声で叫ぶ。
しかし、彼女は男に助け出されたことにも知らずに、瞼を閉じていく。


『駄目だ!目を閉じるなっ!』

必死の声も、声にならない。
ひゅっと息が空気を鳴らすだけ。

歯がゆかった。

このままでは彼女が危ない。

揺さぶっても、頬を叩いても、彼女の閉じていく瞳に風魔はうつらない。


『美桜!』
『美桜っ!』


それでも声は出ない。
男は悔しさに喉仏を掴み、声を消した己を呪った。


『美桜っ!』

声よ出ろ

『美桜っ!』


出ろっ!


「…っ!」


頼むから出ろぉっ!


そう願った瞬間、喉の奥につっかえていた何かが、すとんと外れた気がした。
途端ふっと息が軽くなる。

そして、喉が震えた。


「美桜っ!」


何度も彼女の名を呼ぶ。


「死ぬな!死ぬなっ!」


閉じた瞼がもう一度開くことを、ただ祈って。


「美桜!死ぬなっ!」


声が枯れそうになるほど叫んだ時、固く閉じられていた彼女の瞼がふっと緩み、そして、ゆっくりと開いた。
その瞬間、久しぶりに血が体を巡っていくのを感じる。今思えばそれが安堵というものだったのだろう。


「すてきな…ゆめ、だなぁ」


その時の表情はひどく儚くて、腕の中にいる今でもふっと消えていってしまいそうだった。


「夢ではない!意識を飛ばすな!もう戻ってこれなくなるぞ!」


声を枯らして必死に叫ぶ。
しかし、一度戻ってきた彼女の意識はすぐに薄れていってしまう。


「美桜!美桜っ!やめろ!目を閉じるなっ!」


「こた、ろう、さ…」


彼女の言葉は力を失っていき、一瞬指に籠った力もすとんと抜け落ちた。
その途端に彼女の体が重みを増す。

「美桜!」


名を呼び続けても、彼女の意識は戻らなかった。



何もかもを捨てようとも



茫然とする青年。



しかし、ちょうどその時、鼻に血の臭いが届いた。
そうだ。応急処置をしなくては。


はっとした男は、和服の袖を破り、口を使って引き裂いていく。

そして、スカートをたくしあげると、出血した彼女の太ももから硝子の破片を抜いていった。
小さな破片も残らないように患部に口をつけ、じゅっと吸い上げる。そして、吐き出す。
それを何度か繰り返すと、服を破いて作った布を巻き付けていった。


傷の手当ては彼にとって最も馴染みのある動作であったため、すぐに完了。
しかし、おかしい。


彼ならばすぐに止まっていた血は止まらず、休めば回復するはずの体力も一向に予兆がないのだ。


どうしてだ。


なぜ、血が止まらない?



その時、脳裏にいつか聞いた彼女の言葉が蘇る。


『……忍者って凄い』

そうだ。手当てをしていたあの時、完治した背中の傷を見て、確かにそう呟いていた。
つまり、四百年後の人間は治癒力が弱いのか?

ならばどうすればいい。
お握りを口に含ませて彼女の体が回復するとは到底思えなかった。


じんわりと赤く染まっていく布を見て、男は息をつく。


もうこうなれば、最後の手しかない。
青年は決心した。




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