左様なら、お別れの夜




盛りの過ぎた夏の夜は、静かに虫の声に包まれていた。
そこが山の中に建てられた家だということもあり、遠くに見える街の明かり以外この場を照らすものはない。


建てられて幾らか年数の経った家の縁側に、男の姿がひとつ。


雲隠れしていた月が顔を出すとほんのりと男の横顔を照らした。

伏せられた瞼に、人形のように整っている顔。
しかしそこにも男性的な美しさが秘められている。

それは誰の目に見てもため息が出るほど綺麗で、美丈夫と呼ぶに等しかった。



しかし、生まれてこの方小太郎がその外見で利を得たことは無いといっても過言ではなかった。

忍びの世では「記憶に残らないほど平凡な顔」が最も重宝され、如何なる時も没個性を求められる。
そのため、一目見れば脳裏に焼き付くような彼の容姿は扱いづらいの一言に尽きた。

人目を引くような忍びは忍びにあらずと罵られ、いっそのこと長などではなく梟にと襲われかけた事も少なくはなく。


そうしていつからか素顔を隠すようになった。


人の心を射るような目も、優しげに伸びた眉も、すっと通った鼻も、包帯で覆い隠していく。そうしてその上から長い前髪をかける。
目で“見る”ことがなければ、他人の嫉妬や憎悪や好奇の目は気にならず、すべてを忘れることができた。

忍びの世は弱肉強食であり、情などありもしない下剋上の世。

敵味方立て付く者全てを食らい食らい食らいつくし、男がその頂点に立った時、もう誰も彼の顔を嘲るものはいなくなっていた。



彼の師である三代目風魔小太郎だけは、彼のことを蘭陵と呼ぶのを止めなかったが。
いつかの師の言葉が脳裏に蘇る。


“あまりの美貌ゆえに味方が見惚れて士気が上がらず、恐面を付けて戦に赴いたという男の通り名だ。のう、お主そっくりじゃろうて”


容姿を嘲笑されたり、好奇の目に晒される事はよくあったが、師のそれは今まで向けられてきた他人のどの目とも違っていた。


そういえば、と思う。
ここの女もそうだった。

この顔を見る彼女の目は、今まで見てきたもののどれにも当てはまらなかったのだ。
ひどく警戒心がなくて隙だらけの、しかし心の奥底まで見透かすような、まっすぐな目。

彼には彼女の気持ちが読みとれない。
しかし、悪い気はしなかった。

まったく不思議な女だ。






左様なら、お別れの夜




男はぼんやりと顔を上げた。


虫の鳴く声が静かに響く縁側。
月だけが彼を見返していた。



それから幾分か過ぎた時、どこかから小さな気配が近づいてくる。
軽い足音が小柄のものであることを示しているが、それは確実に彼の元へ歩み寄ってきていた。


こんな真夜中に山の中の一軒家の縁側に近づいてくる者などそうそう居ない。



男は軽く考えを巡らせながら、その音に耳を寄せた。




人間ではありえないような軽さの足音だ。
しかし、小さく擦れる音からすれば、下駄のようなものを履いているのだろう。

たまに衣の擦れる音も聞こえる。

本物のモノノケか。
あるいは狸か狐の化かしか。


ほんのりとした小さな橙色の光が近づいてくるとその姿が露わになっていく。
彼の予想通りとも言うべきか、そこに立っていたのは巫女のような白の小袖と赤の袴をはいた「狐」であった。
手には小さな提灯をぶら下げて、足には黒塗りの下駄を履いて。

彼か彼女なのか分からないが、その狐は男に小さく礼をする。

あまりにも非現実的な事が続いていたせいか、小さな驚きさえ起きなかった。


狐は付いてこいとでもいうように男に背を向ける。
白い尻尾が小さく揺れた。


ああ、ついに来たのか。迎えが。



男は和室に固められていた荷物を抱えると、襖の向こうにいるはずの女を見つめる。
しかし、束の間して視線を反らすと、小さくなった光を追った。





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bkm