きみが知らない多くの事



「そういえば、小太郎っていう名前は一体誰がつけたんですか?」


鉛筆とノートをキッチンに返してから数分後。
のんきな声で沈黙を破ったのは女の方だった。


和室では手当ての続きをしていて、男の背中に貼られたガーゼを美桜は剥がしていく。


しかし、男からの返答はなくて。
それでその答えが気になったのか女は聞き方を変えることにした。


「お母さんですか」

幾らか経った後で、静かに男の頭が左右に揺れる。


「じゃあお父さん?」

また同じように揺れる。


「じゃあ、お爺ちゃん?お婆ちゃん?」


その問いを遮るように男は振り返ると、師だと返した。


「し?師匠さん?」


肯定してみせた男に、美桜は目をぱちぱちとさせる。
そして勢いよく身を乗り出した。

「小太郎さんってお師匠さんがいるんですか!?」


師匠とか格好良い!とハートを飛ばした美桜は師弟関係に憧れでもあるのだろうか。
男はその女の表情に少し眉を顰めながら肯定を示した。




きみが知らない多くの事



『…何をそんなに興奮している』

「現代人にとっちゃ素敵な響きなんですよ!」


私も欲しいなぁお師匠さんとうっとりした笑みで呟く女に、男は苦虫を踏み潰したような顔をした。


『…忍びにでも成りたいと言うのか』

「一度くらいなら!だって…」


言葉を遮ったのは、男の止めておけという声なき声で。
凛とした男の瞳に女は口をつぐむ。


『忍びは草、犬畜生以下のもの。人でありたいと望むなら妙な事は口にするな』


彼女はその言葉に違和感を感じ、眉根を寄せる。


「人でありたいと望むならって…まるで忍者は人間じゃないみたいな言い方」

『あぁ。忍びは人ではない』


美桜は目を丸くした。
まるで他人のことのようにそう言いきった。正真正銘の忍者である彼が。


「そ、そんな…人じゃないなんて!」

動揺を隠せない女に、男は何の感情を籠っていない目をしたまま言葉を続ける。


『忍びという字を知っているか。』


ぽつりと溢された言葉に女は頷く。


『忍びとは刃の突き刺さった心の意。つまり心は死んでいるのだ』


男の無感情だった瞳に一瞬走ったのは自嘲と諦め。

二十そこらの青年がする目ではなかった。


「…何よ、それ」


ぽつりと女の声が空気に溶ける。

伏せられていた彼女の視線が上を向いたかと思えば次の瞬間。


がっと男の首元を掴みあげた。
そして怒りの籠った目で男の顔を睨み上げる。

こんなこと前にもあった気がすると彼がデジャヴを感じた丁度その時。


女の怒鳴り声が和室に響き渡った。


「一体誰にそんなこと言われたんですか!」


突拍子もない言葉に目を丸くする男。



「あなたは人じゃない?忍びだから心がない!?そんな馬鹿なこと…あなたは信じてるんですか!」


襟元をぐっと寄せて、顔を近づける。
その女の表情は憤怒と悲嘆が混ざったような、何と表現して良いものか分からぬものだった。

『…事実だ』


その言葉に彼女の顔がくしゃりと崩れ、目が潤んでくる。


「事実な訳ないでしょう!大怪我を負った時痛かったんじゃないんですか!猫に懐かれた時だって嬉しかったでしょう!痛みだって感じるし、感情だって表に出すのが下手なだけ。あなたのどこが人ではないんですか!」


男は目を見開いた。
目の前の彼女の瞳から、大粒の涙がぼろぼろとこぼれていたからだ。


『なぜ、泣く』


「胸が痛いんです」


小太郎さんが突拍子もないことばかり言うから、と女は続ける。


『泣くな』


次から次へと頬を零れ落ちる粒に、男は眉根を寄せた。


『泣くな…美桜』


幾ら言葉で言っても止まらないそれに男は重い腕を上げる。
そして自らその手で生温かい涙を拭った。


だが、その手はやわく掴まれる。そしてぎゅっと握られた。


「こんなに温かい手の人が人間じゃないはずない」

その声にはもう先ほどのような覇気はなかった。



他人の為に涙を流すなど愚者の為すこと。
心底そう思ったが、しかし、どこかで胸の奥が熱くなるのを感じていた。





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