真っ暗な森の奥の奥。
ひとつの影が走っていた。
荒い息遣いだけが、鬱蒼とした森に響く。
影の後を追って赤黒い体液が木々に染みを残していった。
走る走る走る影。
ぼとぼと落ちる血痕。
しかし、仕舞い目にはその影がふらりと揺れ、高い高い木の枝から吸い込まれるように枯葉の中へ落ちていった。
左様なら、わが身よ
木から足が離れ降下していく最中、男は思った。
「ああ、これで終わりか」と。
死ぬことに恐れはなかった。
それは死に直結した仕事柄か、生まれ育った環境故か、ある意味彼にはどうでも良かった。
百人死のうが千人死のうが、あまつさえそれが味方であったとしても、いってしまえば他人事で。どうやらそれは己であろうと例外ではなかったらしい。
普通の人間ならば、死にたくないと泣いて何かに縋りつくのだろうか。
それとも自分を死に追いやった誰かを恨むのだろうか。
残した何かをひどく悔やむのだろうか。
自分のそんな姿を想像してみようとしたのだが、何一つ思い浮かぶものはなかった。
ただ一つ少し気になったことがある。
死んだときに己の死体が無様に他国の者に発見されることだ。己の死体といっても死んでしまったらもう手出しは不可能。つまり、誰の手でもどうにでもできてしまうのだ。それが何かひっかかったのだ。
今思えば、それは小さな自負心だったのだろう。
男は最期の力で化身である「烏」に化けながら、闇にぽっかりと浮かんだ月を見た。