あの後、肉じゃがを元の味に戻そうと色々努力はしてみたものの、結局どうにもできず泣く泣く三角コーナーへお見送りとなってしまった。
「ほんっとうに勿体ないことをしてしまってごめんなさい」
娘は今は黒い物体と化してしまった肉じゃがに向かって手を合わせる。
「ほら、お兄さんも手合わせて。いっせいのーででごめんなさいですからね」
その言葉に従って青年が合掌すると、かかった女の掛け声。
「『ごめんなさい』」
二人は合掌したまま、小さく頭を下げた。
*
『なぜあれに向かって謝った?』
お味噌汁をよそっている少女に向かって、男は数時間ぶりに口を開いた。
「あれって肉じゃが?」
『ああ』
娘は味噌汁の入ったお椀を青年に手渡す。
「なんでって、分からないんですか」
そのお椀をテーブルに置いた男は顔を上げると、こくんと頷いた。
眉を下げる娘。
「ほんとうに?」
男は小さく頷く。
「お米って八十八っていう字から成り立つでしょう。その意味って聞いたことありますか?」
男は小さく頭を振ってみせたので、女は優しくにこりと微笑んだ。
「八十八回の手間がかかっているんだそうです。他の食べ物も同じで、たくさんの手間と苦労がかかってるでしょう?お肉やお魚なんかは命をもらってますしね。だから食べ物は粗末にしちゃいけないんですよ」
分かりました?と笑えば、男はゆっくりと頷いた。
少女は汁の入った小鍋に蓋をすると、静かに振り返る。
そして青年に向かって静かに問うた。
「お兄さんって、一体今までどこで生きてきたんですか?」
嫌味などこれっぽっちも含んでいない言い方で、その表情は至極純粋なものだった。
娘のしっかりとした瞳が、青年の瞳を捕えて離さない。
いつものだんまりは通用しそうになかった。
『俺は、』
娘の両眼が男の唇をじっと見つめる。
『この世界の人じゃない』
「……え?」
ちらりと炊飯機に目を向ける男。
『こんなからくりも見える景色も建物も、全部知らない』
「そ、んな、うそ、」
『戦国の世。それが俺の生きていた世だ』
青年のその瞳には感情と呼べる感情がうつってはいなかったが、確かにそこに偽りはなかった。
「せん、ごく?」
打ち明けられた真実
はっと顔を上げた娘は男に問う。
「今何年か分かります?」
『慶長三年、八月三日』
けいちょうさんねんと一人ごちると、娘は台所を飛び出した。
束の間して彼女の忙しい足音が戻ってきたかと思えばその腕には大きな本が一つ。
歴史書と書かれたそれをどんとテーブルの上に乗せた。
そして、あるページで開くとある文字を指差す。
「ほらここ!見てください!」
安土桃山時代と大きく書かれたページには、天正文禄そして慶長という元号が書かれていた。
『あぁ、この字だ』
相変わらず冷静に頷いた青年に、しびれを切らしたのか娘はとびかかりそうな勢いで食らいかかった。
「何相変わらずポーカーフェイスかましてんですか!状況分かってます!?あなた、タイムスリップしてきちゃったんですよ!」
『たいむ、すりっぷ?』
「あーそっか!横文字分からないんだ!…えっと時間を飛び越えて、四百年後の世界に来ちゃったんです!」
『……四百年?』
それを聞いても未だ冷静さを失わないその姿は、肝が据わっているというべきなのかはたまた鈍いだけなのか。
タイムスリップしたにも関わらず妙に落ち着いた青年と、タイムスリップしたわけでもないのに混乱して今にもどうにかなってしまいそうな娘。
普通は逆だろうといいたくなる奇妙な図がそこには出来上がっていた。
しかし、その状態は女のお腹から鳴らされた一つの音によって破られることになる。
ぐぅうう、というそれは人間の空腹時になる胃袋の音で。
「……とりあえず、ご飯、食べましょっか」
こくりと男も深く同意した。