命ほど重いものはない





「このおおぞらに つばさをひろげ」


風に揺られてパタパタと音を立てる洗濯物。
そこから香ってくるのは、柔らかな石鹸の匂いだ。


「飛んでいきたいよ」


干された洗濯物から覗いているのは、白い足首。
男は音無く、彼女に近寄っていく。手負いだとは言っても彼は忍びなのだ。


「悲しみのない自由な空へ翼はためかーせー」


段々近づいていくその声。


「ゆきたぁ…え」

風になびいた長い手ぬぐいから覗いた彼女の姿に、男は手を伸ばした。
そして力ずくで女を掻き寄せる。


彼女は狐につままれたような顔をしていた。そして口を開く。


「もう起き上がれるようになったんですか?」


あんなに大怪我だったのに、とその表情は心底不思議そうだ。
しかし、対する男の表情は昨日のものとはどこか違っていた。


声のない声で男は娘に問いかける。


『俺をどこに連れてきた』
「え?」

女は目を丸くして男を見つめた。
しかし、長い前髪で隠された顔からはやはり何も読みとれない。


冷たい風が吹いたわけでもないのに、背筋がゾクリとした。


「どこに連れてきたって、私の家ですけど」
『何が為だ。俺をどうしたい』

男は早口で詰め寄っていく。

「え、どうしたいって、」
『お前は人だという。人ならば何故まやかしにいる。何故俺を誘い込んだ』

感情なく問い詰める口ぶりに、美桜は恐ろしくなって後ずさった。蛇に睨まれたようにその唇から目を離せず、冷や汗が背中を伝う。

『どこの忍かあるいは人の形をしたもののけか』

男は言葉を続けながら、胸元より木筒のようなものを取りだした。


『狙いはこの首か』

それが小刀だと分かったのは、鞘から抜かれた刃を見てからだった。美桜は突然のことに目を見開き、ただ真っ青になる。

「なっ、なにを、」


男は何も言わず、彼女の手を取った。

そして次の瞬間、彼は手中の小刀をくるりと回していた。刃がギラリと反射する。
娘は反射神経で体を強張らせ、あまりの恐ろしさに目をつぶった。


しかし、痛みは一向に襲ってこず、彼女は恐る恐る瞼を開く。
手に固い感触がすると思えば、なぜか手の中に小刀があった。


「え」

『殺したいなら殺せばいい』


確かに男の口はそう動いた。


『現つ世に未練などない。いつ消えようと変わらない命だ』


持たされた刀がカタカタと音を立てた。美桜は目を見開いたまま、真っ青になっている。

『なまくらな女だ。そのような持ち方では人は殺せない』


男は女の手に持たせた小刀にもう一方の手を添えさせる。次に刀を持った女の手を腹につけ固定させた。そして男は自分の右胸を指差す。


『両手で持って体より直角に固定。骨に当たれば先に進まないから刃は横向き。一発で仕留められるよう心臓に狙いを定める。そして全身の力で、押し込む』


それは間違いなく殺しの作法だった。


「な、んで」

娘の腹に付けられた両手がガタガタと喚く。


『もっと力を込めなければ命など取れない』


男はその時初めて彼女の目を見た。
その目から、ぼろりと何かがこぼれていく。


「何で、わたしが、」


「…何でわたしが、あなたを殺さなきゃならないんですか!」


それが涙だったことにその時やっと男は気付いた。
頬を伝って落ちていく涙。

男がひるんだ次の瞬間、彼女は凄い剣幕で怒鳴っていた。

「あなたを助けたのは誰でもない!この私です!死にたいなら勝手に死ねばいい!でもあなたを助けた私にあなたを殺させる理由はないでしょう!」


カシャン、と小刀は音を立てて地面に落ちた。ぶわりと涙を浮かべた女は眉間に深く皺を寄せ、たかが外れたようにすごい覇気で言葉を続ける。

「マヤカシだシノビだ訳の分からないことばっかり言って、あなたの方がよっぽどモノノケみたいじゃないですか!神社の紐で吊るされてるわ、いきなりカラスから人間になるわ、なったらなったで怪しい格好して、全身傷だらけで!そんな不審者を誰が介抱したと思ってるんです!あなたは殺したい相手の看病するんですか!?体中拭いてあげるんですか!?髪の毛洗ってあげて、林檎擦ってあげるんですか!?普通感謝の一つや二つされてもいいところでしょう!人を馬鹿にするのも大概にしてくださいっ!」

言いたいことを全部言い終えたのか、息を切らす美桜。その両目が男を睨みつけたまま、頬に涙が零れ落ちた。

しかし、当の男は女があれだけ怒鳴っても顔色一つ変えず、口は一文字に縛られたまま。しかし、一拍開けてから男は口を開いた。

『…なぜ泣く』
「あなたが物騒な物持たせて、おかしなこと、言うからっ」

幼稚園児でも分かりそうなことを難問のように聞いてくる男に女はもう駄目だと眉を下げた。そして、目からは涙がぼろぼろと堰を切ったように流れ出し、とうとう嗚咽混じりで泣きだしてしまうこととなった。ひっくひっくを通り越し、わんわんと声を上げた。

それを目にした男は今までとは打ってかわってびくりと大きく肩を揺らた。


『な、泣くな』

しかし、声にならない声は手で顔を覆っている女には聞こえるはずもなく。


『泣くなと言っているだろう!おい女!泣くな!』


どれだけ怒鳴っても聞こえないものが女の耳に届くわけもない。術と名の付くものは全て頭に入っていても、彼が女の泣きやませ方など知る由もなかった。





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