風が音を立てながら縁側から突き抜けた。
男の長い前髪が風に靡き、目元が露わになる。
ひどく生ぬるいそれに赤茶色の目は細められた。
男は横に流れた前髪に手を伸ばすと、長い髪で目を覆う。
口の中ではまだ少し林檎の味が残っていて、ほんのりと甘かった。
彼はただ考えていた。
風にしても草木や食物にしても、まるで浮世のものと変わらぬと。
負った傷でさえ痛むなんて黄泉とはそんなものなのかと。
掴めない光に手を伸ばして
あの軽やかな足音が近づいてきたかと思えば、すっと襖が開かれた。
ちらりと目を向ければ、大きな白いものが目に入る。
女が抱えてきたのは、白く上等そうな敷布団であった。
大将首が使うような、忍にはあまりにも過ぎるような。
「お兄さんのお布団ですよ。今日はこれで寝て下さいね」
うんともすんとも言わない男を横目にひとつ笑みを落とすと、女は男の隣りにそれをひき、手際良く手で皺を整えていった。背中まである後ろ髪が彼女の動きに沿って、さらりさらりと踊る。
小柄で若いこの女はよく動く。
文句ひとつ言わず男の身の回りの世話に身を呈し、朝から晩まで走り回っていた。
まるでねじ巻き人形のように無駄のない動きは黄泉の者ゆえなのか。
笑い顔は浮世の娘子のそれと寸分も違わぬのに。
気付けば、男は彼女の腕をくいと引いていた。
女が不思議そうな顔をして振り向く。
「はい?どうしたんですか?」
ぱくぱくと男は声を出さずに口を動かす。
それを見た女はぽかんとして、反対に問いかけた。
「お兄さん喋れないんですか?」
ああ、と男の口が動く。
「そうだったんですか」
驚きを隠しきれない女は己を納得させるようにこくこくと一人で頷くと、何を思ったのかぱっと顔を上げる。そして、言葉を続けた。
「じゃあもしかして耳は、」
男は小さく頭を振る。そして『声が出ないだけだ』と口を動かした。するとその男の早口な口話を女は理解したらしく、そうなんですかと納得したように頷いた。
目を丸くしたは男の方だった。
『お前読唇術ができるのか』
しかし、同時にやはりとも思った。
「少しだけですよ。昔ろうの友達がいて。
でももう何年も昔のことだから口話であんまり難しいことは言わな…ん?」
男は堪え切れずに女の裾をくいっと引っ張っていた。そして間髪いれずに問いかける。ここに来てから彼が一番聞きたかった問いだった。
『お前は、弥勒なのか』
女の目が見開かれた。