「はーいお兄さん、かゆいところはないですか」
美桜は男が無反応無抵抗なのを逆手にとり、ごしごしと頭を洗っていた。もちろん風呂場にいるわけではない。女が寝ている男の前に座り、手桶に髪の毛をつけて『簡単美容院体制』を作り上げたのだ。
泡立てた男の髪量は予想以上に多く、長さは肩まであるよう。いつから洗っていないのか髪は埃や泥まみれで、固くほつれかかっていた。それを少しずつ丁寧に解いていき、泥を湯に溶かしていく。するとしまい目には、つやつやな赤毛が姿を見せた。
思った通り綺麗な髪だと彼女は思った。
静寂に響く心音
「背中拭きますね」
それから時は流れ、髪の毛を拭き終えた彼女は、次に彼の体を拭い出していた。
相変わらず男の無抵抗無反応は続いていて、上の服を脱がせたときも顔色一つ変えなかったのだ。恥ずかしいとかそういう感情はないんだろうか。きっとわたしなら恥ずかしくて仕方ないだろうにと考えたがきっとこれが男と女の違いなのだろう。
それにしても、と思う。
男の背中は見事なほど傷跡だらけだった。
新しく付いた傷には全てガーゼが張ってあるため、目に見えているのはすべて古傷である。すっぱりと切れた一本線の傷痕や、みみずが走ったような跡など、数え出してはきりが無いほどで。暴力やいじめに遭っていたのかもしれない。
優しくしようと彼女はこっそり心に決めた。
古傷は痛まぬのだ
「男物は父の浴衣しかないんですけど、それでもいいですか?」
しかし、思った通り男の反応はない。
そこで無反応は是として美桜は半裸の男に浴衣を着せることにした。
腕から浴衣を通して首もとを整え、そして腰のあたりで帯を締める。良い体格の男だから、少し浴衣が小さいがそれは勘弁してもらおう。
「よし!できた!長い時間お疲れさまでした。お腹すいたでしょう?今から林檎でも摺ってきますね」
その間に浴衣の中のズボン脱いで下さいね、と声をかけると美桜は和室を後にした。実をいうと、どうしても恥じらいの心を消し切れなかった美桜は、下半身に関しては太ももから下しか拭けなかったのである。
*
和室に戻ってきた娘が見たのは、座布団にあぐらをかいて座る男の姿だった。
彼は返事はしないものの話自体は聞いていたようで、ちゃんとズボンは畳んで置いてあった。
彼の体に父親の浴衣は少し小さい気もしたが、はやりモデル体型の男は完全に着こなしている。
しかし、せっかくの綺麗な顔も乾いた前髪で覆われてしまっていた。
もったいない。
「体痛むでしょう。寝ころんでていいんですよ?」
男はゆっくりと首を振った。
「あ、反応した!」
初めてみせた男のちゃんとした対応に娘は思わず声をあげる。
そして、嬉しくて微笑んだ。
「これ林檎を擦ったものなんですけど、よかったら食べてください」
男に近寄って座ると、盆にのせたガラスの器を男に差し出す。しかし、男は器を覗き込んだが、手を出そうとはしなかった。
「あのねえ、昨日から何も食べてないし、お腹すいてるでしょう?…林檎きらいなんですか?…アレルギーがあるわけじゃないんでしょう?」
前髪に隠れた男の顔を覗き込むが、ちらりと見えた目からも表情が読みとれない。
一体この瞳の奥で何を考えているのかなんて一般人の娘に分かるはずもなかった。
あーもう、と美桜は一人ごちる。
そして、
「自分で食べないのなら、わたしが食べさせちゃいますよ」
最後の手段でそんなことを言ってみても反応は無し。
しびれを切らした彼女はスプーンで林檎を掬い、男に差し出すことにした。
「出欠大サービスですよ。はい。これで食べてくださいね」
一文字を描いた男の口にスプーンをそっとつける。
「はい。あーん」
しかし、断固として口を開かない男。
「もう!駄々こねるのもいい加減にしてくださいよ!はい食べる!」
さすがに堪忍袋の緒が切れたのか、彼女は無理やりスプーンを男の口につっこんだ。
「ほら、美味しいでしょう?」
そこまでされれば仕方ないと思ったのか男は口に入れられた林檎を小さく咀嚼した。
しゃり、しゃり、と噛み砕く音が小さく聞こえる。
ごくんと喉が鳴ったことを確かめて、また同じようにスプーンを差し出した。
すると観念したのか男は自ら顔を近づけ、スプーンから林檎を口にした。
しゃく、しゃく、と咀嚼の音が響く。
スプーンで食事を与えるという行為は、何か餌付けをしているようで、まるで目の前の男が生まれたてのヒナ鳥のように見えてくるから不思議だ。
そしていつの間にかガラスの器は空になっていた。