バイバイ
旅館の一角、矢恵の部屋へ急ぐ。
『ただいま雪子。悪いけど、晩御飯いらないから。伝えておいてくれる?』
昨日の夕方にそう聞いてから、私は矢恵の姿を見ていない。今日は土曜日。あの様子じゃ学校に来ないかもしれない。折角、最近は遅刻も欠席もなかったのに。
一体昨日、何があったのだろう。あんなに凹んだ矢恵を見るのは、初めてじゃないけど・・・。
「矢恵、矢恵?」
返事はない。しかし、耳を済ませれば衣擦れの音が聞こえた。起きていることには起きているようだ。
「開けるよ?」
「ん。」
すぅ、と襖を開ける。
そこには、スウェットを着て布団から上半身を起き上がらせている矢恵がいた。そこまではいつもと同じだけれど、顔を見る限りはとてもじゃないけど学校へ行けそうになかった。
とても、痛々しい顔。数年前の矢恵の顔が蘇る。あれ程、泣いたら冷やしてって言ったのに。
「矢恵・・・何か、あったの?」
「別に何も。」
「でも、目が腫れてる・・・。」
「・・・。」
「まだ、言えない?」
「雪子が、」
「ん?」
「雪子が、学校から帰ってきたら、言うよ。」
「、そう。ご飯は?」
「いらない。気持ち悪い。頭痛い。ぐらぐらする。」
「風邪、ってことにしておこうか。花村君には、言っておくね。」
その時、矢恵の肩が少しだけ震えた。それから少し遅れて、うん、と返事をした。私はそれに気付かなかったフリをして、風邪薬と水を持ちに部屋を出た。
二人の間に何かあったことは分かった。いっそ、花村君に聞いてしまおうか。私の可愛いいとこに何をしたの?
花村君は、急に矢恵の近くに現れた。毎朝自転車で旅館の近くまで来ては矢恵と一緒に登校し、帰りも一緒に帰ってくる。私と矢恵の会話の中で、彼が出てくることは余り無いけれど、それでも普段の気だるげな雰囲気が一掃されたのを感じた。
矢恵はとても楽しそうに笑っていた。彼は、サボり癖のついた矢恵を、いとも簡単に毎日学校へ連れ出すようになった。矢恵が楽しければそれでいい。けれど、やっぱり、
「(悔しい、なぁ。)」
私は彼に用件だけを伝え、千枝との待ち合わせ場所へ向かった。
***
チッ、チッ、と時計の秒針の音だけが聞こえる。それがやけに耳障りで、眠る事も出来なかった。折角、学校を休む事が出来たのに。お盆に載せられた薬と、ペットボトルの水、ビニール袋に入った氷。私は水だけを手にとって一気に飲み干した。乾燥しきっていた口の中が潤う。食道を通り、胃へ入ったのを確かに感じた。
じわじわと耳が痛む。鏡を取り出して見てみると、まず驚いたのは自分の顔。目は充血してまぶたは腫れ、擦った所為かどこそこ赤くなっている。晩になってから、やっと部屋から出れるくらいか。氷水を取って目に当てる。それを当てながら、今度こそ耳を見た。そこも驚くぐらい腫れ上がり、酷い状態だ。
「(消毒・・・)」
自室にある少ない常備薬を漁り、奥のほうに転がっていた消毒薬とガーゼを出す。そんなに沁みることは無かったけれど、とてもとても痛かった。耳が痛むたびに、熱を思い出すたびに、小西先輩の顔が浮かんでくる。主張される。
どうして、小西先輩なんだろう。ピアスの穴をあけてくれたのも、花村が好意を寄せたのも。悪循環だなぁ。明日が日曜日で良かった。絶対に旅館から出てやるものか。
一日あれば、何事も無かったかのように振舞える。大丈夫。前もそうだったじゃないか。前の方が酷かった。大好きだった先輩に告白してフラれて、3日くらい篭城して。その後は大丈夫だった。いつもどおり過ごした。顔に出さないようにする方法は知っているはずだ。考えてもみろ。今から改善するように努力すれば・・・24時間以上もある。
「矢恵、ただいま。」
「!、早いね。入って良いよ。」
雪子が帰ってきた。早いな、と思っていたが雪子は息を切らせて額に汗を浮かべていた。走って帰ってきたのだろう。たぶん、きっと、私の為に。悪い事をしたな。雪子は汗を軽く拭いながら、座布団の上に座って私の方を見る。私は布団の上に座った。雪子の方は見ることが出来なかった。
さて、どうやって切り出そうか。ああ、また泣いてしまいそうだ。情けない。
「あのね、雪子。殆ど、前と一緒だよ。告白はしてないけど、フラれた。」
「・・・うん。」
「花村陽介って、知ってるっしょ?最近、私と仲の良い・・・。そいつからさ、昨日好きな人が出来たんだって言われて。私も、その時花村の事好きなの、気付いて。」
「うん。」
雪子が優しく、私の頭を撫でる。かああ、と私の目頭も熱くなって、次々に涙がこぼれてきた。あーあ、まぶたの腫れ、引いてきたところだったのに。ズクズクと頭も痛くなってくる。優しさが、身に沁みる。
「ピアス、あけたんだけどね?あけてって私が頼んだの、小西先輩でね?膿んできちゃって、痛くて、それで、小西先輩のこと、思い、出しちゃって、」
「うんうん。ピアスは、皆に内緒にしておかないとね。」
「ぐすっ、でもね?小西せんぱ、のこと、嫌いじゃなくて、でも、すっごく、すっごく・・・!」
「矢恵。」
雪子が私を抱きしめた。私はその華奢な体に縋るようにして腕を回した。
「も、どうしたらいいか・・・!」
「ごめんね、矢恵。気付いてあげられなくて、ごめんね。」
「ゆ、雪子は悪くないじゃんかぁあ〜・・・。」
私はまた一通り泣いた。雪子も、私が泣き終わるまでずっと背中をさすってくれていた。また頭がぼぅっとする。まぶたが重い。耳が熱い。私は深呼吸をして、それからまた口を開いた。
「人ってさー、バカだよねー。」
「何で?」
「こうやってさ、苦しくて辛くて悲しいことを知ってても、また誰かを好きになるんだよ?バカの一つ覚えって言うか、どうしようもないね。なーんで、繰り返すんだろ。ドMなの?」
「それはどうか知らないけど・・・。矢恵はさ、前の時は辛い事ばっかりだった?」
「・・・ううん。」
「先輩と居て、話して、楽しかった事も沢山あったでしょう?」
「・・・うん。」
「だからだと思うよ。辛いかもしれない、悲しいかもしれない。けど、好きな人と一緒に居られるのは、とても幸せな事だから。」
「・・・そっか。」
「うん。」
ぐるぐる、ぐるぐると考えが巡る。今、私が進むべき道はどっちだろう。私が幸せになれるには、どうしたらいいだろう。幸せ、かぁ。その人と、一緒に居られる、幸せ。
「雪子、私決めた。」
「うん?」
「今回の、諦める。」
「・・・え?」
「前は、欲望丸出しでその先の幸せまで取ろうとしたから駄目だったんだ。だから、今はその一歩手前で止めるよ。それなら、一人の友達として一緒にバカ騒ぎ出来る。」
「矢恵は、本当にそれで良いの?ねぇ、そんな事言わないで、」
「決めたよ。・・・もう、一緒に居られる関係を、自分から壊したくないんだ。」
「・・・。」
「・・・。」
「矢恵!」
「な、なに・・・?」
「今日は一緒にお風呂入ろう!」
「え、う、うん。」
「ソーダをかけて、露天往復勝負は欠かせないわね。」
「また懐かしいネタを・・・。」
「で、一緒のお布団で寝よう!」
「え、それは面積的な意味でキツイかと・・・。」
「大丈夫!」
「うわぁ、凄い自信。」
ぷっ、とどちらとも無く笑い出し、やっと私の心は少しだけ軽くなったのである。雪子がいてくれて良かった。ソーダ対決は、今日のところは負けておこうと思う。
***
で、どうして。
「よう。」
「よ・・・よう。」
花村陽介君が、日曜日の天城屋旅館に居るのでしょうか?建物の陰からデバガメが数人見えるのは気のせいでしょうか仕事しろ。
私はといえば、気を取り直して中庭の整備をしていたところだ。予想外な花村の登場に、私は無駄に枝切り鋏をシャコシャコ動かす。ちなみに、枝を切る技術は庭師さんから盗んだ。
そういえば、めっちゃ仕事着だった。天城屋旅館ロゴ入り甚平にポニテ、タオル被ってデコ全開。化粧も、そう気合の入った化粧はしてない。ああ、ああもう!
「もう大丈夫なのか?」
「うぇ!?な、何が!?」
「何が?って、風邪だよ風邪。もう忘れたのか?何とかは風邪ひかないって言うけど・・・。」
「何とかって何だコラ。風邪、風邪は〜ほら、もう全回復っていうか?じゃなきゃ、こんなでっかくて長い鋏持ってな・・・。」
ぺち、と少し冷たい大きな手が額に当てられる。目の前には、真剣な顔をした花村。デバガメが驚いた顔をしている。こっち見んな仕事しろ。っつーか、驚きを隠せないのは私ですよコノヤロー。固まって声も出ないうちに、花村の手は離れていく。
「やっぱまだ、熱あんじゃねーの?」
「な、いよ・・・(ズル休みだし)。」
「そうか?でも、なんか顔赤くね?」
「!!!!」
「うわっ、な、何だよ!押すな押すな!」
「そっ、そろそろ女将が来るから!私怒られちゃうから!ほら葛西さん達も仕事しろ!チクるよ!?」
私が叫べば、デバガメ達はそそくさとその場を去っていった。花村は、あの人が案内してくれたんだ、とのん気な顔をして言っている。何か変な噂がたっていたら、知らぬ存ぜぬを貫こう。
隣で歩いている花村をチラリと盗み見る。いつも通りだけど、いつも通りじゃない。難しいなぁ、いつも通りって。嫌でも意識しちゃうしなぁ。まだまだ、特訓が必要なようだ。
「明日は学校来るんだよな?」
「うん、行く行くー。」
「ん、じゃあまた明日・・・あ、もしかして天城さんと里中とで行くのか?」
「・・・何で急に。」
「いや、よく考えたら男女が一緒に登下校するってのはー・・・。」
「小西先輩に見つかるから?」
「え?」
「やっぱ、嫌でしょ。好きな人に誤解されちゃうのは。」
「・・・。」
「花村が嫌なら、」
「スネんなよ!」
「私は別に・・・だーれがスネてるってぇ!?」
「ハハッ!やっといつもの印だ!」
「いつもの、って・・・。」
「ま、登下校なんて今更だし、いいよな。じゃっ、明日先に行くなよ?俺虚しくなるから!」
「、はいはい。また明日ね!」
ひらひら、と手を振って、今度は花村が見えなくなるまで前を見る。その背中が見えなくなっても、私はぼうっとその景色を見た。
うん、次に好きになったのが花村で良かった。本当に。
「さーてと。」
泣くのはこれで終わりにしよう。後ろばかり振り向くな、前を見ろ。頭に巻いていたタオルを取って、滲み出た涙を拭う。私を呼ぶ声がする、行かなくちゃ。
20090124*20101227修正
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