10/18 B







今日の目覚めは、鳩の鳴き声ではなく眩しく暖かな日差しだった。
暗い寝室の中を、光が一筋走っている。その筋が丁度、俺の顔の辺りを走っていた。

「…………」

楽しい夢を見た後目を覚ますと、酷く気分が落ち込んだ。
夢と現実のギャップを突き付けられるからだ。

「………痛ぇ」

小さく呟いて、鈍く痛む頭を撫でる。
どれだけ酒を飲んだのかも覚えていないが、自分の肝機能も落ちたものだ、と溜め息を吐いた。
体を起こし、回りを見ると、見慣れた場所だった。
こうやって前後不覚になりながら世話になるのは何度目だっただろうか。
ベッドから降り、部屋から出る。
リビングに出て左右を確認してみたが部屋の主の姿は見当たらなかった。

「(……どこ行ったんだ?)」

脱ぎ散らかしてあった自分の帽子とジャケットを持つと、少し探し物をした。
さすがに、一晩世話になっておきながら無言で帰るなどと言う真似はできない。
携帯電話にメールを送ると言う手段も有るのだろうが、残念なことに、この部屋の主は携帯電話を携帯しないと言う悪癖がある。
仕方なく、電話機の横においてあるメモとペンを手に取り、簡単に伝言を残しておく。
分かりやすいように、ソファの前にあるテーブルの上に置いておいた。
忘れ物がないか、もう一度部屋の中を見回す。
今度こそ忘れ物がないと確信した後、玄関へと向かった。
冷えきった廊下を歩いている途中、シャワーが浴室の床を叩く音が聞こえた。

「(…なんだ、風呂入ってたのか)」

そういえば、自分もずいぶんと汗臭い。
手櫛で髪を簡単に整えると、帽子を被る。
幾ら晴れて日が差しているとはいえ、この時期の朝はかなり冷え込む。
外に出ることに若干憂鬱になりながらも、ジャケットを羽織った。
スニーカーを履いて、靴箱に取り付けられている姿見で簡単に自分の姿を確認する。

「(……問題なし)」

ジャケットのポケットにほったらかされていた携帯電話を確認すると、午前8時20分を指していた。
バイトのシフトは午後からの予定だったので、今から帰宅して風呂に入って二度寝をすれば丁度良い時間になるだろう。
取り敢えず自宅に戻ってからの行動を考えながら、マンションを後にした。





シャワーを浴びたのに、自分自身から汚れが落ちた気がしなかった。
風呂場に置いてある時計の針は午前8時30分を指していた。
そろそろ眠っているはずの彼を起こした方が良いかもしれない。
無意識にそう思い、風呂から出た。
しかし、まるで最初から自分以外の人間は誰もいなかったかのように、部屋の中は静かだった。
その中で家電製品の微かなモーター音が、雑音として耳に入ってきた。

「………」

彼がいたという痕跡がリビングから根刮ぎ消えている事実から、彼が帰ったという簡単な事柄を理解するのに、かなりの時間を費やしたような気がする。

ろくに体を拭くこともせずにフローリングの上をひたひたと歩く。
一歩進むごとに水滴が落ち、体温が空気に奪われていくのがわかった。
脚が縺れ、半ば倒れ込むようにどさ、と音を立ててソファに座り込む。
虚ろな意識の中で、テーブルの上に小さなメモ用紙が一枚だけ置いてあるのが見えた。
手に取り、内容を確認する。
残していっただろう本人の性格とは相反した、綺麗に整った形の文字の羅列を脳に叩き込む。
ようやっと内容を理解し、それから、安堵した。
幸いなことに、彼は昨夜起きた出来事について全く覚えていないようだった。

「………良かった」

自分自身、驚くほど小さな声だった。
ぐしゃ、とメモを握りつぶす。
そしてそのまま、ソファに体を投げ出す。
合成皮革で出来たソファ生地は、湿った身体にべたりと貼り付いた。

「(………これで)」

これで、俺自身が忘れてしまえば全て解決する。
全てを無かったことにできる。
忘れることなど、簡単なことだ。

今現在、軋んで悲鳴を上げているこの身体の痛みも。
眼から頬に伝っている液体の温度も。
肌に残っている感触も。
全て忘れてしまえば気にならない。

「(………大丈夫)」

自分の感情を圧し殺すことなど、過去に何度も行ってきたことだ。
今更、辛いとも苦しいとも感じることなどない。
それに何より、『培ってきた理想的な友好関係』を保つために必要な事柄なのだ。
何処に辛く思う必要があるのだろうか。

「(………眠い)」

ゆっくり眼を閉じて、身体の力を抜いた。

脳内フォルダの中を整理する。
存在してはならないアイコンを右クリックし、メニューを開き、削除を選択する。
何時もパソコンでしていることと同じことをするだけだ。

昨夜の出来事はきっと、夢だったに違いない。
夢でなければならない。


次に眼を覚ますときには全て忘れていますように、と。

それだけを願ったまま意識を失った。



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