冬美旬は、苛立ちを隠さずに居た。
その刺々しい空気は周囲の人間を威圧するも、最も感づいてほしい人間には届いていない。
現在、彼らはオフィスビルの一室で第一回三一五プロダクション総選挙結果についての打ち合わせに参加していた。
上位十名のうち、更なる上位五名には記念イベントが開催されることになり。だが惜しくも洩れた下位五名に対しても、上位五名のカップリングとして新曲が提供されることとなったのだ。
普段は所属するユニットでのみ、もしくはユニットごとで組み合わせての仕事が多い彼らにとって、慣れた仲間と離れると言うのはなかなかに無い機会である。
大半のメンバーは良い機会として受け取り、慣れないインタビューやレッスンにも前向きに取り組んでいたのだが。
冬美の正面にいる、銀髪の少年。牙崎漣という名の彼だけは、頬杖をついて、大きな欠伸をして、目の前にある書類を何の興味も持たない様子で眺めていた。
彼と冬美は上位十名のうち、下位五名に属している。残りの三名は冬美と同ユニットである若里春名に、三一五プロダクションの看板ユニット所属の握野英雄、桜庭薫となっている。
年齢にも、普段の活動にもばらつきがある彼らが意思を統一するためには必須である打ち合わせに、目の前の少年は不真面目な態度で臨んでいる。
「…………牙崎さん。聞いてますか」
「あー? 聞いてるっての。見てわかんねーのかよ」
「……っ!!」
「まあまあ、落ち着こう、ジュン。な? 落ち着こう」
温くなり始めたコーヒーが入った紙コップを冬美が握り締めたことで、若里が冷や汗を垂らしながら制止にかかった。
とどのつまり、不真面目を固めたような少年牙崎と、真面目を固めたような少年冬美は、徹底的に相性が悪かったのだ。



「やってらんね。オレ様休憩行くわ」
その日のレッスンも、彼が唐突に放った一言で中断されてしまった。
打ち合わせの結果、彼ら五人は新曲の発表イベントにてダンスを踊ることになった。その振り付けはごくごく一般的なもので、普段からダンスをしている牙崎や握野。それに身体能力が高い若里は特に問題なく身に付けて行ったのだが、普段ボーカルを担当している桜庭と冬美には大きな壁となって立ちはだかった。
何せ、日常生活を行う上では使うはずのない動かし方をするせいで筋肉や関節がすぐに悲鳴を上げる。更に言えば、彼らはもともと、そう体力がある方ではない。
五人中三人がダンスを得意としているために、魅力を生かした振り付けが与えられたことには冬美も納得しているし、上達のための努力も必須だと思っている。
全身から噴出している汗の感触を味わいながら。大きく息を吸い込んで少しでも疲労を回復しようとしながら。それでも、彼は多少汗ばんだ程度でレッスンを放り出した牙崎を許すことができずに居た。
「……まさか、牙崎に気を遣われるとはな」
牙崎を追って振付師とプロデューサーが席を外してしまったので、よくワックスが効いた板張りの部屋には四人だけが残された。
運動着にスニーカーと言う出で立ちの彼らは。特に冬美と桜庭は、すっかり体力を使い果たしてしまっていた。ぜえはあと荒い呼吸が交錯する中、冬美がぽつりと呟かれた言葉の出所を辿れば、桜庭がスポーツタオルで汗を汗を拭いながら水分補給をしているところだった。
「どういう、ことですか」
「言ったままだ。牙崎の奴、僕達が疲れていることを見抜いたんだろうな。君も休憩を取ったほうがいい。倒れるぞ」
「……」
「若里に握野も。水分くらいは摂っておけ」
「はーい……」
「了解。……確かに、今日のレッスンはハードだな」
持ち場から鏡貼りの壁際に寄った彼らはそれぞれ、持ち込んできていたドリンクを口に含み座り込んだ。拭いても拭いても身体の奥から湧き上がってくる汗に、冬美はうんざりしてしまう。
「にしても、やっぱレンってダンスキレッキレだよなー。オレらとは次元が違うっつーか」
「生まれ持ったリズム感もあるだろうが……、必要な筋肉が良いバランスで揃っているのも大きいな。見ていろ」
若里の言葉を拾った桜庭も冬美と同じように汗が噴出しているらしい。再びスポーツタオルで汗を拭い、黒縁のメガネの位置を直す。その後白く細い腕をすっと前に伸ばした彼は、振り付けの一部である動きを再現した。
しなやかな動きをした腕をポーズの為に急停止させると、受け止め切れなかった運動量が反動となって彼の腕をふらつかせる。
「人間の身体で完全に停止している部位はない。こうして生まれる揺らぎをきちんと止められるかどうかで、若里の言うダンスのキレが決まるんだ。無論、揺らぎを止めるには相応の筋力が必要だ」
「「へぇー……」」
人間の身体構造を知り尽くしている男の言葉に、若里と握野は同じように声を上げそれぞれに腕を軽く振り上げた。桜庭と同じように腕を急停止させた彼らの腕は、彼と同じほどではないが、やはり少し揺らいでしまう。
冬美は試すことすらしなかった。結果が見えているからだ。
「勿論筋肉が付きすぎると今度は動きが鈍くなる。いずれにせよ、僕達は体力と筋力の両方が足りていない。別枠でトレーニングを追加したほうがいいかも知れないな」
「……そうですね」
桜庭の自己分析は非常に的を射ている。少しずつ疲労が回復してきた冬美はスポーツドリンクを口に含むと、心の底から彼の言葉に同意する言葉を吐き出した。

翌日。
冬美は三一五プロダクションのトレーニングルームに足を運んでいた。
「(僕が、足を引っ張るわけにはいきませんからね)」
冬美は、今回組んだ特別ユニットの中で自身が一番貧相な体格をしていることを自覚していた。同年代平均より背丈はずっと低いし、筋力もない。可愛らしい顔と言われれば褒め言葉だが、つまりは童顔と言うことで。年下に見られることも、運が悪ければ女子と間違われることだってあった。
普段、同年代の友人に囲まれているせいで見失いがちだった自分の弱点を克服できる絶好の機会である。そう前向きに考える事にした冬美は運動着に着替え、トレーニングルームの中に入った。
そこそこの広さがある室内に所狭しと並んだ器具を使っている人間は、見当たらない。今日は休日だと言うことで、プロデューサーと事務員は予定が入っているアイドル達の付き添いで留守にしているらしい。
まして現在の時刻は午前九時を回ったばかりである。四十人余りそれぞれ予定があれば、こんな日だってあるだろう。冬美は桜庭からのアドバイスを纏めたメモを読みながら、器具の位置を把握していった。
「あれ、珍しいな」
その途中で、静かで落ち着いた、しかし幼さの残る声で話しかけられた。急な事に驚いてそちら側を向けば、冬美の態度に目を丸くした少年が額に汗を光らせて立っている。
「た、大河、くん」
「悪いな、驚かせちまった。おはよう、冬美」
「おはよう、ございます」
掛けられた挨拶を返した相手は大河タケルという、冬美と同じくプロダクションに所属するアイドルだ。総選挙の上位からは洩れてしまったものの、武闘派アイドルユニットのリーダーとしてファンから一定の支持を受けている。
大河は冬美が来るより大分前からトレーニングを行っていたらしい。肌に浮く玉のような汗が、それを物語っている。彼は珍しい来訪者に近づくと、滴る汗をタオルで拭った。
「あんまりここで見かけることなかったから、珍しいと思ったんだ」
「そう、ですね。確かに、あまり来たことはない気がします」
「やっぱり。だよな。今日はどうしたんだ?」
「ええと……」
少し気恥ずかしくもあったが特に隠すようなことでもない。冬美は昨日起こった出来事を、その結果としてここに来たことを正直に話していく。
大河は牙崎の我侭ぶりに一瞬眉を顰めたが直ぐに普段の表情に戻り、冬美が持っていたメモに目を通す。身体を鍛えることなら、元アスリートである大河に一日の長がある。
どうせならトレーニングを基本から学んだほうが良いという判断をした冬美は彼に頼み込み、今日一日共に行動することにした。
まずは体幹を鍛える基礎の基礎として腹筋と背筋をすることになったのだが、冬美は一回腹筋をする間に大河は三回終えている。
これが文化系一筋に生きてきた人生と運動系一筋に生きてきた人生の差か、と身を以って感じながら。それでもこの時間は苦痛ではない。
筋肉のダメージを持ち越さないように時折ストレッチと休息を挟みながら。とろとろと雑談をしている内に時間は過ぎて、あっという間に昼前になった。
相変わらずトレーニングルームを訪ねてくる人間はいないため、彼ら二人は互いに程よく空腹になった頃合に荷物から昼食を取り出した。冬美はサンドイッチで、大河はプロテインが入ったドリンクだけだ。
単純に、素直に。冬美より体格の良い大河の身体を維持するのに、たったそれだけで足りるのだろうか。そんな視線を感じた大河は少し恥ずかしげに目を逸らすと、床に座ってドリンクを飲み下していく。
「……あんまり肉つけたくねーんだ。昔の癖って言うか」
「ああ、なるほど」
昔の癖、と言われた冬美は大河の過去を思い出した。リング上の王子様と謳われた彼は過去、ボクシングの選手として試合に参加していたのだ。本を読んだ程度の知識しかない冬美だったが、どのような競技に置いても体重管理がシビアであることは知っている。
確かにそれならば、彼の拘りにも納得がいく。そのプロ意識に心底感心している途中で、不意にトレーニングルームのドアが開いた。大河と冬美の両名がそれぞれ、黒く澄んだ瞳を出入口へと向ければ、隙間から現れたのは不機嫌に歪んだ金色の瞳である。
「……くは。チビが二人もいやがんのか」
「オマエ、何しに来たんだよ」
「……」
出会い頭の口喧嘩に思わず冬美は頭を抱えてしまう。と言うかよりにもよって、最も練習風景を見られたくない人間が来てしまうなんて。一気に不穏な気配を孕み出したトレーニングルームの中で味気なくなってしまったサンドイッチを口に押し込んでいると、件の少年、牙崎は肩から掛けていたメッセンジャーバッグから小さな包みを取り出した。
可愛らしい布で包まれた物体は四角い形をしている。彼はそれを大河に投げつけるように渡すと、続けてミネラルウォーターが入った五百ミリリットルペットボトルを二本、取り出した。
それらも同じように投げつけられた大河の腕の中は、すっかり埋まってしまっている。大河と冬美が彼の行動の真意に気付けず頭上に疑問符を浮かべていると、彼は苦々しげに前髪を掻き上げる。
「なんでオレ様がパシリなんか……。オマエら。らーめん屋じゃなくてオレ様に感謝しろ」
「てことはこれ、円城寺さんからの差し入れか。……なんで俺が今日ここに来るって知ってるんだ」
「オレ様に聞くなよ。どーせアイツがなんか言ったんだろ」
ここで言うアイツとは、プロデューサーのことを指しているのだろう。円城寺とは、大河と牙崎が所属するユニットメンバー最後の一人である。武闘派ユニットの名に恥じない、体格の良い優しい顔立ちの青年であることを冬美は思い出した。
牙崎の言葉をそのまま信じるのであれば、食事を軽視しがちな大河の性格を見抜いたプロデューサーが円城寺に弁当を頼んだのだろう。だがここで一つ疑問が残る。
「まさか、これを届ける為だけに来たのか?」
「はァ? ンなわけねーだろバァーカ。……昨日レッスンサボったからっつってココの鍵当番押し付けられたンだよ。あー、かったりい!」
「自業自得じゃねーか」
「……」
昨日のペナルティと言うことで、桜庭の言葉が脳裏にちらついた冬美は思わず口を出しかけたが、押し黙る。牙崎に全く反省の色が見受けられないことがまず一点。それに、ここで余計な口を挟んで事態をややこしくしたくなかったことも追加される。
「つーわけだ。オレ様はジムショで寝てっから邪魔すんじゃねーぞ」
「わかってる。帰る時に声掛ければいいんだろ」
「チビの癖に良いカンしてンな。そーゆーこった。じゃあな」
大河がチビは余計だ、と反論する前に、牙崎は踵を返してすたすたと歩き出してしまう。兎に角塞がってしまった両手の自由を取り戻すべく、大河はペットボトルを一本冬美に差し出した。
受け取れないとジェスチャーをするも、大河は退かない。気圧された冬美が受け取ると、大河は再び壁際に腰を下ろし差し入れの包みを解いてゆく。中から現れたのは、可愛らしいお弁当箱に収まった色とりどりの御握りたちだ。
それを目にした大河の瞳は年相応の。もしくはそれより幼い少年の表情を宿らせて、瞳をきらきらと光らせる。冬美はそんな大河を微笑ましく思いながら、サンドイッチに奪われた口の中の水分を差し入れのドリンクで補った。
円城寺からの差し入れのお陰で予想外に豪華なランチタイムとなったので、食事の合間に挟む会話も多くなる。
「牙崎さんっていつもああなんですか」と冬美が問えば、「ああ」と大河が答え。
「円城寺さんに、何て礼言えばいいかな」と大河が迷えば、「素直に、感じた気持ちをそのまま伝えればいいと思いますよ」と冬美が答える。
弁当箱の中身を米粒一つ残さずに空にした大河は入っていたお絞りで手を清めた後、スマートフォンを取り出して感謝のメールを作成した。食休みを取っている間に返事が来て、文面は大河を応援するものだ。
彼の整った顔立ちが目に見えて緩むことはなかったが、纏う空気が和らぐことは体感できる。冬美も保護者に今日の帰宅予定をメールで連絡すると、夜道に気を付けて帰ってくるようにとの文面が比較的直ぐに返って来た。
冬の暗い夜道はどうしても変質者が現れやすい。大人しそう、と外見から失礼な判断をされやすい冬美はどうしても、そう言った連中に目を付けられやすいことを、両親はよく知っているのだ。
「……」
心配の言葉に返信した後、彼はスマートフォンを持ち込んだ鞄の中にしまい込んだ。
「じゃあ、始めましょうか。続き」
「ああ。そうだな」
気付けばたっぷり一時間ほど休憩を取っていた。心もち清々しく気分を入れ替えられた彼らは、トレーニングを再開した。

「……オマエらまだやってンの」
「え?」
トレーニングと休憩と栄養補給を一つのセットとして、それを数回繰り返した頃合いだった。再びドアを開けた牙崎は、心底うんざりした様子でそんな言葉を呟いた。
襟足で纏められた銀髪が所々乱れているので、いつも通りソファで寝て起きてを繰り返していたのだろう。運動で身体の芯から温まった冬美と大河はそんな牙崎を見ながら、言われた言葉に首を傾げる。
「もー夜の八時すぎてんだよ。荷物纏めろ。さっさと帰んぞ」
「もうそんな時間ですか」
身体を動かすことの楽しさに夢中になっていて、すっかり時間の感覚を失っていた。冬美が放置していた鞄の中からスマートフォンを取り出すと、確かに、現在午後八時を回った時間が表示されている。
帰宅し、日付が変わる前に食事と入浴と入眠を済ませようと思ったら、確かにもう帰宅しなければいけない時間である。ついでに言えば、未成年が夜の街をうろついて良い時間は余り遅い時間ではない。
ここでは牙崎の言い分に正当性があると判断した冬美が言われた通り荷物を纏めようとしたところで、大河は静かに言葉を吐いた。
「……まだやれる」
その言葉に、牙崎の、金色の瞳が、明確に引き攣った。
「バカじゃねーの。じゃあオレ様鍵かけて帰っからよ、一晩中やってろ」
「牙崎さん!」
「……」

「大河くん。……あまり根を詰め過ぎると良くないと思います。今日はここまでにしましょう」
「……そうだな」



車両内での大河と牙崎は、冬美の予想から外れて酷く静かだった。
この間で何か言葉を挟むこともどこか無粋なように思えたので、彼も口を閉ざしたまま横にスクロールしていく景色へと視線を移す。
繁華街から住宅街に向かうにつれて窓の外に広がる夜の闇は増え、窓ガラスには車両内の風景が鏡のように映りこむようになった。
「……」
今頃、自分以外のメンバーは一体何をしているのだろうか。疲労が残る脳を動かしてぼんやりと考え事をし始めたところで、大河が小さく声を上げた。
「俺、次だから」
「はい。今日はありがとうございました」
「こっちこそ、感謝する。帰り、気をつけろよ」
「ええ。そうします」
昇降口付近に移動した大河と冬美の別れの会話に、牙崎は介入してこなかった。数十秒後に電車はホームへと辿りつき、小さな音を立ててドアが開く。
繁華街からそこそこに離れた場所のため、乗客は疎らである。大河は一歩踏み出した直後、思い出したように沈黙を続ける彼へと声を掛けた。
「オマエは?」
「こっちに用事あンの。さっさと帰れ、チビ」
「ああそうかよ。言われなくても帰るっての。じゃあな」
「……」
別れ際くらいもう少し綺麗に出来ないのだろうか。冬美はつくづく、牙崎の口の悪さに閉口した。
しかし当人同士は全く気に留めていないようで、ホームに降り立った大河は少しだけ頬を緩ませて冬美に向かって手を掲げている。冬美も小さくそれに返すとドアは閉まり、再び目的地へと走り出した。
時刻は既に夜の十時近くになっている。早いところでは既に就寝しているのか、住宅の明かりも疎らになり始めていた。再び静かになった牙崎に向かって視線をやるが、相変わらず気だるげに、壁に凭れ掛かったままである。
彼の用事がどんなことなのかはさっぱり見当もつかないが、ここから先は閑静な住宅街の連続で、もし買出しなどであればその目的は達成できない。
かと言って直接聞くほどの興味も無かった冬美はポケットからスマートフォンを取り出すと、自宅の電話番号を呼び出した。遅くなったので家人に迎えを遣してもらおうと考えたからだ。
だが。
「……」
彼はホームボタンを押し、電話番号が開かれている画面を閉じた。もう高校生だと言うのに、暗くなったから迎えに来て、などと子供のようなことを言う様を知られたくなかったのだ。
やがて電車は冬美の目的地へと到着したので、彼は牙崎に向き直る。
「じゃあ、僕はこれで。おつかれさまでした、牙崎さん」
「あ? オレ様もここだし」
「え」
予想だにしていなかった返答に思わず硬直するものの、発車のアナウンスにより正気を取り戻した。少し慌ててホームに降り立つと、牙崎もそれについてきた。
この時刻に降り立ったのはどうやら彼ら二人だけらしい。電車が過ぎ去り静かになったホームで、冬美は頭に疑問符を浮かべたまま彼に背中を向ける。
冬美が歩き出すと同時に牙崎も歩き始めたので、若干の間を保ったまま、彼らは同じ方向へと向かっていくことになった。改札を抜け、幾つかある出口ですら牙崎は冬美の後ろをついてきていたので。流石に明言されていなくとも、冬美は気付いてしまった。
「……送ってくれ、なんて言った覚えはないんですが」
「知るかよ。オレ様に言うなっての」
「……っ」
ああ言えばこう返ってくる。的確に冬美の逆鱗に触れる彼の言葉に思わず語気を荒げたくなるものの、それでは先程の大河とそう変わらない。
彼の言葉を信じるのであれば、恐らくはプロデューサーが彼に依頼したのだろう。確かに夜更けの住宅街は酷く静かで、今こうして歩いている足音さえ、響く。
迷路のように分岐する住宅街の細い道に設置されている街灯はいくつか寿命を迎えているようで、ちかちかと瞬いているものすらある。体格が大きくない冬美を心配すると言うのも、当たり前のことなのだろう。
そう考えを割り切ることにした冬美はほんの少し歩く速度を落とし、牙崎の横についた。背丈が十四センチも離れているため顔を見て会話するのは面倒だ。防寒のためにしっかりと巻いたマフラーに顎を埋め直した彼は、自宅までの残り数分を彼を理解するための時間に割くことにした。
「言い方を変えます。送ってくれてありがとうございます。牙崎さん」
「……別にィ。暇だったし」
「そうですか」
予想外なことに、素直に口にした感謝の言葉には悪態が返ってこなかった。彼との会話のコツが断片的に見えた冬美は次に何を口から出すべきかを思案し始める。
渡された資料から最低限のパーソナルデータを頭に叩き込んでいたつもりだったが、何せ彼の資料にはそう言った情報がほぼ無いに等しいのだ。
血液型も、出身地も、誕生日さえあやふやで、会話の取っ掛かりになるものが存在しない。所在無さげに黒い瞳を彷徨わせている間に幾人かの通行人と擦れ違ったが、ほぼ全員が牙崎を二度見して足早に去っていく。
確かに彼の外見は一般的な日本人からは程遠い。色素がごそりと欠けているような髪と肌は街灯の光を反射して、白く輝いているようにも見える。まして、量の多い髪の隙間から見える金色の瞳が不機嫌そうに据わっていれば、誰だって威圧感を覚えるに違いない。
ごくごく普通のサラリーマンや学生達のベッドタウンともなれば、尚更だ。
「……」
「……」
冬美の外見は、彼とは対照的だ。癖の無い黒髪を贔屓の床屋が月に一度丁寧に整えて、同じように黒い瞳からは誠実さが。歩く所作からは育ちの良さが窺い知れる。
どうしてこれだけ対照的な二人が夜中に並んで歩いているのか。確かに事情を知らない第三者からは不思議な光景に見えることだろう。
ただそれでも、逃げるように去られる事が続くとあまり気分が良いものではない。たった数十分一緒に歩いているだけでこうならば。
「……」
冬美は感じた想いを言葉にすることを避けた。結果として再び沈黙が続いてしまい、スニーカーの靴底がアスファルトに削られる音だけが、暫く続く。
ふ、と思わず息を吐くと、白く形作られた後にふわふわと散って行った。慣れない寒さに晒されるのもあと五分ほど、と言ったところで、次は牙崎が口を開いた。
「オマエ」
「はい」
「イチイチ力入れすぎ。何でも。疲れねーの」
「……中途半端は嫌なんです。やるからには、全力で取り掛からないと」
一瞬反応が遅れた冬美だがすぐに真意を理解して、彼に自分の信条をぶつけにかかる。達成すべき目標があって、達成できる機会に恵まれたと言うのに、自身が努力を怠って結果を逃してしまったとしたら、それはきっと酷い後悔を呼ぶことだろう。
そんなことは冬美の性格が許さない。牙崎は言葉の端からそう感じ取ったらしく小さく鼻を鳴らすと、言葉を選ぶように髪をかき上げた。
「……くは。オマエもあのチビと一緒だわ。前しか見てねェ」
「それの何が悪いんですか」
冬美は今日、一緒にトレーニングをした大河のことを思い出す。ダンスに特化した牙崎。ボーカルに特化した円城寺。彼らと肩を並べるため懸命に努力していた彼をどうして、笑うことが出来るのだろうか。
恐らくは。いや確実に。精神面において冬美は大河と近いポジションに居る。だからこそ、牙崎もそのような言葉を吐いたのだ。不服そうな思いを隠さずに反論すれば、彼は呆れたようにその銀髪を一本引き抜いた。
暗い路地で街灯を反射する一本の細い髪はワイヤーのようにきらりと光る。立ち止まった彼は髪の両端を手に持つと、数回撓ませた後に引き千切った。ぷつりと音も無く途切れた身体の一部をそのまま道路に捨てた彼は再び歩き出す。
「頭良いなら、このぐらいわかンだろ」
「……」
張り詰めた糸は切れやすい。過度のストレスは身体を壊す。つまりはそういうことを言いたいのだろう。
遠回しにもほどがある彼の気遣いに、今度は冬美が大きく溜息を吐く番だった。
これで数日前に桜庭が言っていた言葉にも納得が行く。彼はどこまでも自己中心的であるくせに、自分を囲む世界をよく観察している。
根を詰めすぎると身体を壊すから無理をするな。ただその一言を他人に伝える為に、どうしてそこまで誤解を招く態度をとる事が出来るのだろうか。
そして冬美は自分の理解の足りなさを自覚し、観念したように言葉を吐く。
「……お気遣い、ありがとうございます」
「オレ様は最強だからな。弱っちい奴に気を遣うのは当たり前だろ?」
「……」
冬美の礼に対するこの態度である。もしかしたら話が通じる相手なのだろうかと抱きかけた幻想を、粉々に砕かれたような心持だ。
得意げに口元を歪める彼の表情が憎らしく思った冬美はどうにか一矢報いてやろうと、聡い脳を働かせる。自宅まであと百メートルを切った辺りで、彼はその言葉をぽつりと口にした。
「だったら、大河くんにもそう言ってあげれば良いじゃないですか」
「……」
予想の通りに牙崎の口元から笑みが消える。これまで付き合いが多くなかった冬美に気を遣った言葉を掛けられるのであれば、長らく一緒にいる大河にも同じ言葉を。もしくはそれ以上に彼を想った言葉を掛けられるはずだ。
だが今日一緒に過ごした数時間でさえ、牙崎は大河にアドバイスをすることはなかった。口喧嘩での小競り合いを数回交わしただけで、恐らく他愛の無い世間話すら無かっただろう。
冬美以上にストイックに目標への努力をする大河は、張り詰めている糸そのものだ。いつ切れても可笑しくない悲壮な美しさが、こちらの背筋も正してくれる。
しかし大河は糸ではない。冬美とそう変わらない、十七歳の少年だ。精神の糸がぶちりと切れてしまうと言うことは、彼にとっての破滅を意味しているといっても問題ない。
引き結ばれたまま言葉を発さなくなった牙崎の唇から、少し細められた金色の瞳へと視線を移す。前髪に隠れて表情を窺い難くはあったが、それでも目は口ほどにものを言う。
諦めのような、寂しさのような。少なくとも嗜虐的な色を宿していない瞳を一度閉じた後、彼はぼそりと呟いた。

「チビはオレ様の言うことなンか聴かねーよ。……らーめん屋ならともかく」

予想以上に低く小さな声に、冬美の心臓が縮こまる。彼が報いた一矢は的確に、牙崎の弱点を貫いてしまったようだった。
例えば夏なら、虫の声で掻き消されたであろうその声をしっかり拾ってしまったことが、冬美にとっても誤算だった。
恐らくは一番近くで一番長く付き合いのある相手に善意を丸ごと否定されるというのは、たしかに。冬美の傍にいつもいる少年の顔が思い浮かぶ。彼に同じことをされたら、自分はどう思ってしまうだろうか。
思わぬカウンターを食らってしまった冬美はそれ以上何かを口にすることは出来なかった。数度目の沈黙の後、玄関の前で恭しく直立している使用人の姿を視界に捉えられる距離まで来た冬美は、少し歩く速度を上げる。
牙崎がどんな顔をしているのか、考えるだけで自分の浅はかさに嫌気が差す彼は、振り返ることが出来なかった。
「ここまでで大丈夫です。ありがとうございました」
「……別に。最近うんどー不足だったしィ? アイツにゃこの分キッチリ返してもらうし。礼なんか言われる筋合いねーよ」
背後で牙崎が立ち止まる気配がある。冬美は最後に小さく別れの挨拶をすると、駆け出すように見知った門へと歩みだした。
冷えた空気が頬を、耳を撫でて、どこか痛みに近い感覚を訴える。だがそれよりも、肋骨の内側が痛かった。
「(……ああもう)」
大河と牙崎の関係性を垣間見てしまった冬美は、もどかしくて堪らない。
使用人に迎え入れられ、暖房が良く利いた室内へと辿り着いた彼は、消化しきれない思いを空気と一緒に吐き出した。

「……」
務めを果たした牙崎は、静かに立ち尽くしていた。スマートフォンをポケットから出すと、既に夜の十一時近くになっていることを知る。
冬美に貫かれた場所がじくじくと痛んでいるような疼きに思わず舌打ちをした彼はジャケットのポケットに手を入れたまま、不機嫌を隠さずに踵を返す。
とにかく、この苛立ちを発散したくて堪らなかった。たった数時間行動を共にした冬美にさえ弱みを握られてしまったなんて、とんだ大失態である。
この種の苛立ちは身体を動かして発散するに限る。だがダンスやトレーニングと言った健全なものでは、発散しきれない。
もっともっと、誰かが無様に這い蹲る姿を見ないと、気が済まない。
「……あ?」
不意に、ざり、と誰かが後退りをするような足音がした。牙崎がそちらに視線を向ければ、その相手は小さく悲鳴を上げて今度は確実に後退りをする。
金色の瞳は相手を頭の先から靴の先までじっくりと見定めると、思い当たりがあったように弓形に歪んだ。そして形の良い唇からは、小さく乾いた笑い声が洩れ始める。
「くは。くはははは。……駅からずっとついてきてたの、オマエかあ」
図星を突かれたその人間は大きく眼を見開いて、震えることしか出来なかった。
彼の狙いはあの立派な家に住んでいる、品の良さそうな、大人しそうな少年だったのに。こんな人間離れした外見の人間など、早く居なくなってしまえと思っていたのに。
「ずーっと、オレ様にうぜぇ思いさせてくれた礼、しねえとな」
牙崎は久方ぶりに感じる敵意溢れる視線に懐かしさを覚え、安堵していた。自分が弱くないことを再確認できる、またと無い機会に恵まれたからだ。
静かな住宅街で悲鳴を上げられては大変だ。的確に相手を叩きのめす手段を知っている彼は真っ先に獲物の口を塞ぐと、右手を強く握りこんだ。


「あれ、ここってジュンちの近くじゃねえ?」
「え?」
翌日の午後。仕事の合間に出来た休憩時間でのことだ。好物であるドーナツを頬張りながらスマートフォンでネットサーフィンを楽しんでいた若里が、目に付いたらしいニュースが報じられているページを冬美に見せた。
冬美は淹れたてのコーヒーが入ったカップを手に持ち、暖を取りながら件のページに目を配る。確かに、冬美の家がある地名が小さく掲載されている。見出しを確認すれば、『気絶男性、わいせつ事件との関与は』とある。
冬美の興味を知った若里がタイトルをタップすると、詳細ページが表示された。
『○月×日未明、住宅街にて意識を失っている男性を巡回中の警察官が発見。目立った外傷はなし。所持品や衣服から近隣で発生しているわいせつ事件との関与を認め、捜査する方針。』
「……てーかこれ今朝じゃん。ジュン、昨日ここ来てたんだろ? 帰り大丈夫だったのか?」
「ええ、昨日は牙崎さんが送ってくれたので」
「え?! ごめんオレそっちにびっくりなんだけど?! レンが?!」
「色々経緯があったんです。これ以上はプライバシーなので黙秘します」
「ええええなにそれ!! ひどくね?!」
渡されたドーナツに噛り付きながら彼の横に腰を下ろした冬美は、口の中の甘みをコーヒーの苦味で胃の中に流し込む。
牙崎には拳法の心得があるので特に心配をしているわけではなかったのだが。もし自分を送ったせいで変質者に遭遇してしまったのなら大変に申し訳なく思う。
不躾な問いかけをしてしまったことについては、謝ることすら傷に塩を塗るように思えたので、どうすることも出来ない。もそもそとドーナツを食べつつ若里の詰問をかわしていれば、事務所の入口から騒がしいやりとりが聞こえてくる。
「だーかぁーらァ、なんもしてねーっての! ンなおっさんなんか知らねーし!」
「だから疑ってないって言ってるだろ。怪我は無いかって聞いてんだ」
「ハナッから信じてねーじゃねえか!」
「信じてるさ。で、本当に怪我は無いんだな?」
「だから、……怪我なんか、ねえって」
「……二人とも、何の話してるんだ?」
「うるせえ!! チビには関係ねーよ!!」
「なんだよ、いきなり」
会話の内容を察した冬美は、牙崎にも理解者がきちんといることを把握して安堵した。牙崎に話しかけている穏やかな声の持ち主は恐らく、プロデューサーから話を聞いたのだろう。
ドーナツの残りを口に押し込みティッシュで指先を清めていれば、若里が「お、噂をすれば」と楽しげな表情を隠さずに出入り口を見つめている。
「そんなことより。今日中に投票コメントを選んで提出しなくちゃいけないんでしょう? ほら、早く準備してください。余計なことしてる時間はないですよ」
「あっ、ひど……。はーい」
若里はドーナツの空き箱をゴミ箱に捨てると、目の前のテーブルに置かれている書類の束を手に取った。それらは総選挙時、投票とともに彼らに寄せられたコメントの束である。
各個人ごとに纏められた書類には、溢れんばかりのラブコールが大量に書き連ねられている。アイドルなどと、と言う思いを抱えていた冬美も、嬉しさに心が浮ついてしまう。
冬美もそれを手に取り一枚ずつコメントを確認していくと、その途中。おそらくはプロデューサーのミスなのだろう。牙崎宛のコメントが一枚紛れ込んでしまっていた。
まずいと思った時にはもう遅い。彼の黒い目は、あの、尋常なほど素直ではない彼に寄せられたコメントを取り込んでしまった。
「…………」
件のページをクリップから外した冬美は、牙崎の分の書類の一番上に置いてやる。冬美の心配など余計なお世話だと言わんばかりに、どうやら彼の優しさは周知されているようだった。
若里はそんな彼の姿を眺めながら、当初よりも随分と穏やかになった空気に思わず頬を緩ませる。
直後に事務所のドアが開き、室内に賑やかしい声が響き渡った。

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