「足元、気をつけてください」
「はいッス」
とある春の夜のことだ。事務所から近い公園では桜が見頃を迎えていると言うことで、たまたまそこに居合わせた男と円城寺は花見を行うことにした。
とは言っても天候は生憎の雨で、三寒四温と言う文字のとおり、昨日までの暖かさは嘘のように消え去って、日没から暫く過ぎた現在、気温は摂氏二桁を切っている。
雨で濡れた砂利と、雑草と、ぬかるんだ地面に足を取られながら、二人は傘の半径二つ分の距離を開けて、夜の公園を並んで歩いた。
「綺麗ですね」
「そうッスねえ」
雨が地面を打つ音。傘のビニールに弾かれる音。二人分の足音。それらに邪魔をされながらの散歩での会話は中々に難しい。遊歩道をぼんやりと照らすライトと街灯が濡れた地面に反射して光を撒き散らす姿は非常に幻想的で、周辺に人影が無いことも手伝って、まるで別の世界に迷い込んでしまったような気分である。
円城寺は自分の三歩前を歩く男の後姿を時折視界に入れながら、周辺の桜並木にも視線を配った。たしかに、ここ数日の良天候のおかげで桜はほぼ満開を迎えており、雨に打たれることに耐えられなくなった花々は花弁でなく、そのままの形で地面に落ちている。
地に落ちて、泥に塗れている花を見て、円城寺は素直に惜しいと思う。ただでさえ観賞できる期間が短いと言うのに、この雨はその寿命を更に縮めてくれているのだ。
「……散るの早いッスかね、今年」
「うーん……。そうかもしれません」
「雨、止まないッスかねえ」
「雨は嫌いですか?」
「洗濯物乾かないじゃないッスか」
「あはは。円城寺さんらしい」
取り留めの無い会話の中で見せる男が笑顔は見せる笑顔は、円城寺にとっては夜桜よりも魅力的なものだ。まして今、この静かな空間の中。円城寺だけに、彼の笑顔が向けられる。
傘を少し傾け自身の顔を隠してしまうと、円城寺もやんわりと笑った。ぼとぼとばつばつさあさあと様々に奏でられる雑音が、今の彼には有難い。
立ち止まり景観を楽しんでは、また少し歩く。その繰り返しを行っている間にも雨足は弱まることもせず、彼らの足元をぐずつかせて止まらない。
暗い中では設置されている時計の文字盤を見ることも叶わなかったので、どれだけ時間が過ぎたのかも円城寺には分からない。傘だけでは防ぎきることが出来なかった雨に濡れた手や腿が少し冷えてきている感覚で、なんとなく。一時間ほどは経過したのだろうと判断する。
この公園は都心のオアシスと言われるほどの広さを謳っているが、桜が植えられている場所は限られている。大人がゆっくり歩いたとしても、これ以上の時間を過ごす事は出来ないだろう。
もう直ぐ訪れるだろう密やかな楽しみの時間が終わることに寂しさを覚えながらも、円城寺が表すことは無い。
目の前の男はプロデューサーで、自分が彼が担当する四十人のアイドルのうちの一人なのだ。円城寺にとってプロデューサーは一人しか居ないが、プロデューサーにとってのアイドルは両手足の指より多い。
二十台の半ばに差し掛かっている彼が、「もう少し」などと言った我侭を言えるはずも無いのだ。
自然と沈黙が二人の間に割り込んで、雨音だけが響き渡る中。園内を一周し入口に戻った二人は、白い街灯の下で向き直った。
「……漣とタケルにも見せてやりたいッスね、この景色」
「そうですね。散らないうちにまた時間を見つけて来ましょう。今度は、四人で」
街灯に照らされた男の笑顔を目に焼き付けていると、彼が緩く結わいている髪の先が湿っていることに気がついた。それだけ長い間時間を共有できたことに喜びと申し訳なさを抱きながら。
「はいッス」
円城寺は出来るだけ明るい声で、笑顔を浮かべて良い返事をした。次は晴れている昼間に、弁当を携えて、ビニールシートも一緒に持ち込んで、どうせなら他のアイドル達にも声を掛けて賑やかしい時間を楽しむのも良いだろう。
出来るだけ楽しい方向へと思考を逸らしながら。円城寺が出口の方向に足を一歩踏み出した瞬間、男から制止の声がかかる。
疑問に思った彼が振り向けば、男は再び順路へと身体を向けていた。
「今度二人が来たときに教えてあげないといけませんからね。品種とか。……だからもう一周しませんか、円城寺さん」
「…………」
見透かされていたのだろうか、と思った直後、円城寺は自分の考えを否定する。かの人は、こういうことが自然に出来てしまう人なのだ。
どこまでも残酷で暖かな優しさに、円城寺の視界が滲む。でかい図体をしているくせに、なんて情けないことだろう。
声が震えないよう気を付けながら、円城寺は再び元気の良い返事をする。男は嬉しそうに口元を緩めると、彼に対して手を差し伸べた。
「足元、気をつけないといけませんからね。掴まってください」
「自分が倒れたら師匠じゃ支えきれないッスよ」
「出来ますよ! なんてったってプロデューサーなんですから」
「……じゃー、お言葉に甘えます」
「はい!」
手を繋ぐと言うことは傘から手を出すと言うことで。距離を開けてしまうと互いの手が冷たい雨に打ち付けられてしまうので、それを避けようとすると必然的に距離が縮まってしまう。
外を長時間うろついていたせいでお互いの指先は酷く冷えていたが、掌の中心は温かい。降り続く雨は粒が大きくなったようで、ビニールに弾かれる音が大きくなり始めた。
だから彼は、今が絶好の機会だと思ったのだ。傘を隔てた向こう側の男に対し小さな小さな声で、思いの丈を口にする。

「    、…………」

彼が言葉にした瞬間、雨脚が強くなった。勿論声は雨音に掻き消されてしまったようで、男には届かなかったようだ。
だが今は、それで十分なのかもしれない。円城寺は触れ合って温かみの増した手を握る手に少し力を込めて、冷たい雨に打たれ続けている桜の花弁に視線を移す。
いつ訪れるかも分からない「いつか」の日に向けて、夜は静かに更けていく。

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