「甘えても、いいですか」

微かに震えている声は、彼が抱く脅えを表していた。それが向けられた中年の男は手に持っていたグラスを一度テーブルに置き、困ったようにがしがしと頭を掻く。
正しくは困ったように、ではない。彼は今正真正銘、困っているからだ。何せ男の前にいる彼は十代半ばの少年であり、紛れもなく同性である。
味見がてら。興味本位で同性を抱いたことはあれど、それらは大体は金銭で解決する関係であり、少年が抱えているような綺麗な思いはひとかけらも存在していない。
少年からの、憧れが強く混ざった視線を不快だと思ったことは一度も無かった。何せ男の肩書きは「伝説の傭兵」である。彼のほんの少し年上である日本人の少年も、一時は男に対して強い憧れと尊敬を抱いていた。
だからきっと、今目の前で、緑色の大きな瞳を涙の膜で揺らしながらこちらを窺っている少年も、同じだと思い込んでしまった。
「(いい男ってのは、辛いねえ)」
彼の倍、もしかすると三倍近く生きている男はそれだけ捻じ曲がっており、今更その思考を矯正することは叶わない。
彼らが居るのは都合よく男がS.I.V.Aから宛がわれている質素な部屋で、プライバシーを配慮してか防音設備は完璧である。
監視カメラは廊下にだけ設置されているので、各個室で何が起きようと干渉されることはない。少年のずるさはそこにあるのだ。
丁度良くミッションで疲労していて、丁度良く酒を飲んでいて、丁度良く男の部屋で、丁度良く最近性欲を持て余していて、丁度良く、好意を打ち明ける。
もしかすると彼は計算ずくではないのだろうか、と男が下種な勘繰りを行ってしまいそうなほど、お膳立てが立派である。スラックスのポケットからひしゃげてしまった煙草の箱を取り出した男は一本中身を取り出すと、ライターで火をつけてその煙を口に含む。
静かになってしまった部屋で、かちん、と。ライターの蓋が閉まる音だけが響いた。
「……サイードさん?」
男からの返事が無かったことに焦れたのか、それとも不安を抱いたのか。少年は確かめるように男、サイードの顔を覗き込み、少しでも情報を得ようと努力をする。
サイードはゆっくりと煙を吐き出すと、少年の柔らかな栗色の髪を節くれだった指で梳いた。規則正しい生活を心掛けている彼はもう入浴も済ませたらしく、その髪はするりと指から逃げ出していくほどに滑らかでよい香りがする。
男の心はとっくに決まっている。というか、それ以外の答えなど認められるはずがないのだ。
「わりぃな。俺のポリシーに反するわ」
く、と。少年が空気を飲み込む音が鼓膜に響いた。緑色の瞳は涙の膜の臨界を迎えてしまい、ぷつりと決壊した滴が白く柔らか味の残っている頬を伝う。
罪悪感が一気に男の心を苛むが、無理なものは無理なのだ。それはどうあっても覆ることのない真実で、妙な期待を持たせることの方が彼にとって悲劇に違いがない。
少年とて、泣きたくて泣いたわけではないのだ。それを表すように、彼は素早く顔を逸らすと袖口で涙を拭いて、無様にしゃくり上げてしまわないように懸命に息を整えている。
その小さく華奢な背中を撫でてやりたいが、彼の想いを拒絶した直後にそのような行為を働いては意味がない。
ふ、ふ、と何とか呼吸を整えきった少年は顔を上げると、いつも男や他のチームメイトに見せるような。眉尻を下げ、少し困ったような柔らかな笑みを浮かべていた。
「ですよね。わかってました。変なこと言っちゃって、すみません」
「気にすんなよ。誰だってそんなことの一度や二度、あるもんだ」
「あはは……」
そんなこと。少年が男に抱いた想いも、伝えるために散々苦悩したであろう心も、たった五文字で片付けてしまう。
少年がなんの未練も残さないようにしなければ意味が無いからだ。彼は男の心内を知ってか知らずか腰を掛けていたベッドから立ち上がると、笑顔を貼り付かせたまま言葉を続けた。
「じゃあ、僕部屋に戻ります。お話聞いてくれてありがとうございました。おやすみなさい、サイードさん」
「おう。まあ、何かあったらまた来いよ。相談くらいならいつでも乗ってやるさ」
「……はい」
男の言葉が社交辞令であることを、少年は知っている。彼のことを本当に何とも思っていないから、こうして優しい言葉を吐くことができるのだ。
潔さを良しとする『大人の恋愛』に慣れきっているサイードは上手なかわし方を知っている。理想的な『先輩からの言葉』に太刀打ちすることが出来ない少年はそのまま一度深々とお辞儀をすると、静かに退室した。
部屋に一人残された男は煙草を一本味わいきってしまうと、氷が解けて丁度良いくらいに薄められた酒を一気に胃の中へと流し込む。少年の性格からして、このことを翌日に持ち越すような真似はしないだろう。
これでいい、と。誰に聞かせるわけでもない言葉を呟いた男は、そのまま寝床に入った。

それが、三日前のことである。

今日も今日とて鋼鉄虫を殲滅するミッションが無事終了した。NEHAN、と言う有機物たる人間の意識を無機物たるスティールスーツに接続するシステムを使用している彼らの肉体は、ミッション中は休眠状態となる。
その極端に無防備な状態を危険に晒さないよう実戦ルーム周辺は厳重に警備が成されており、ミッションが終了するまで猫の子一人侵入を許さない。
だが、内部からであれば話は別である。
「……」
ミッションに参加していた四名の内、一番先に目を覚ましたのはサイードだった。焦げ茶色の瞳が映したものは先程まで派遣されていた乾いた風が吹き荒ぶ黄土ではなく、気温湿度共に快適に調整された駐屯地の灰色の天井だ。
ゆっくりと身体を起こし、ヘッドセットを外した男は、ぐるりと周辺を見回して情報を収集する。残りの三名はまだ意識を失っており、見張り役とも言えるマネージャーやオペレーターも席を外している。
そしてひとしきり情報を集め終わった彼は、自分の隣に居る人間に視線を落とした。
赤いフレームが特徴のメガネを掛けて、栗色の髪を跳ねさせた優しい少年が安らかに寝息を立てている。その唇はうっすらと開いており、柔らかな桃色をしていた。
静かな部屋の中で男が身動きをとる度に、着用しているコネクトレイヤーが擦れ合う音が響く。彼ならば眼を覚ましてしまうような物音でも、少年は未だ目を覚ましては居ない。
ほんの少し安堵しながら、男は彼の顔を覗き込み、鼻先が触れ合う距離にまで近づけた。
「ノア」
吐息のような声で名を呼ぶが、返事はない。猟犬として配属されたばかりの頃は年下の少女にすら泣かされてばかりだったと言うのに、今では攻撃に重きを置いてしまいがちな他のチームメイトを補佐する存在として、しっかとその役目を果たしている。
何の含みを持たせることなく、将来が楽しみだと思える存在だ。そして、だからこそ。
「……毎朝、お前の声で目覚めたいもんだな」
いつ死ぬかも判らない。清らかさなどとっくに失って、責任を果たすことすら億劫だと思うこの無責任な男の人生に、彼を付き合わせるわけにはいかないのだ。
ただそれでも、これが最初で最後だと自分に言い聞かせながら、サイードはノアの唇に自身の唇を重ねた。柔らか味を感じるほどの重さも掛けず、ただ本当に薄い皮膚の表面を擦り合わせただけである。
しかし彼にはそれでも充分だった。ノアが目を覚ます前に、と名残惜しむことも無く身を起こした男は立ち上がると、長らく身体を動かしていなかったせいで悪くなった血流を正すように伸びをして、実戦ルームの出口へと歩みを進める。
卑怯が過ぎる彼は自分の想いを伝えることも、少年からの想いに応えることも、自分の欲を我慢することも無く、全てを終わらせてしまう。

再び、先程までと変わらない静寂に包まれた部屋の中では、男の臆病なキスで目覚めることの出来なかった少年が何も知らないまま、眠り続けていた。





「#ファンタジー」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -