飢えている。
目の前に広がる風景が歪んでいて、まともに立っていることすら叶わない。
渇いている。
具体的に「何が」と問われても答える事は出来ないくらいに、曖昧な形のストレスがずしりと身体に圧し掛かっていた。

「……ぅ、あ……」
旧山岳居住区の小さく、今にも倒壊してしまいそうな家屋の地下で、一人の青年が呻き声を上げた。
その肌に血の気はなく、代わりに眼球は鮮やかな赤色に染まっている。だらしなく肩口まで伸びた髪の所々は生来のものではない色に染まっており、血管と見紛う紫色の筋が幾つも肌の上を這っていた。
「ぐ……」
身体中に張り巡らされたその筋は、彼の心拍に合わせるように脈を打つ。この状況に立たされてからそう時間が経っていないわけなのだが、この違和感は未だに拭えない。
ずるずると壁に上半身を預けながら、彼は摺り足で歩き出した。長く着用しているコネクトレイヤーはすっかり色が褪せ、部分的に擦り切れてしまっている。しかし彼はそれに構うことなく、足を引きずるようにしてのそりと移動を続けていく。
酷く飢えてはいるものの、食欲はない。睡眠欲もない。それらを満たされていないからだろう、性欲など爪の先程も沸き上がらない。今の彼を動かしているのは自責と贖罪の感情だけだ。
『世界には鋼鉄虫と言う名の生物が蔓延っている。』
『だから、どうか。協力をしてくれないか。』
『それらは人類の敵で、倒すことが出来るのはスティールスーツを操作出来るハウンドだけだ。』
『このままではいつか必ず、この星は滅んでしまう。』
『しかしスティールテクノロジーでは限度がある。』
切っ掛けとなった言葉が疲労で鈍った脳内を苛むので、ゆるゆると首を振ることで物理的に払ってしまう。
彼は本来であればこのような廃墟に身を置くような立場で無く、人類最大の脅威鋼鉄虫の殲滅機関として世界最大と言えるS.I.V.A内のハウンドとして全世界を救済する旗艦のような存在だ。
しかし今、そうなってはいない。焦点の定まらない赤い目で月明かりが辛うじて射し込む廃墟内を歩き、土埃に塗れたまま顔を拭うことすらしない。傍から見て、彼の精神状態が異常であることは明白だった。
一歩歩く度に擦り切れたコネクトレイヤーの踵が瓦礫を踏みしめ、バランスが悪く重なった場所を踏み抜けばあっけなく体勢を崩し地面へと倒れこむ。
「……ぁ、う」
どじゃり、と派手な音を立てて砂礫だらけの地面に体を擦り付ければどうなるかなど、小さな子供でもわかることだ。受身を取ることもしなかった彼は無様に頬を擦り剥いて、血の気のない肌からじわりと中身を滲ませる。
だがこの程度の痛みでは、彼の歩みは止まらない。再び緩慢な動きで身体を起こした彼は、目的地に向けてただ只管に歩みを進めていく。
とうの昔に棄てられ、地図からすら抹消されているこの場所に人間の気配はない。が、月明かりの下で瓦礫の間を移動する物体の影はそこかしこにあった。
それらは3メートル程の背丈で、硬い素材から成っている身体の表面で月の光を反射している。きょろりと頭部を動かしながらのろのろと歩行し、時折何かを見つけたように走り出していた。
彼らは彼と似たような存在だ。彼のハウンドとしての行動データに則った動きをする無機物の塊は効率的に鋼鉄虫を狩り、死骸が発するエネルギーの結晶であるネクロストーンをそこかしこに放置している。
設計者としては回収したネクロストーンをこれから彼の向かう場所へと持ち帰る程度の知能を持たせたかったようだが、中々上手くは行かないようだった。彼らがこの場所を根城にして、どれほどの時間が経過したか。それを考えるだけの知能も、今の彼には残されていない。
数時間後本能と義務感の赴くままに足を動かし漸く辿り着いた場所は、一見では研究室のようだった。深く澄んだ紫色の結晶体がそこかしこに転がっており、先ほど建物の外を彷徨いていた『彼ら』の原型とも、残骸とも言える人型が壁に立て掛けられている。
どこから調達しているのだろう、電気も辛うじて通っているらしく、幾つものディスプレイが並んだ中央では一人の老人が立っていた。老人と言うものの背筋はしっかりと伸びており、時折確認するように画面を撫でるその手付きにも明確に意思が宿っている。
壁に身体を預けようやっと立っている彼と見比べれば、老人の方が若々しい印象を受けてしまう。老人は彼が立てた足音に気づくとゆっくりと振り向いて、ディスプレイの光を背負った。
「……やあ。よく休めたかね、ジャスティン」
「ぁ、……、あ」
老人に名を呼ばれた青年。ジャスティンは掛けられた言葉の意味を数秒掛けて咀嚼した後、こくりと首を縦に振った。老人はその返事に納得したのか、「それは何より」と短く言葉を発した後、再び画面を注視してしまう。
だがその反応は、ジャスティンの望んだものではない。彼は目の前に見えるゴールに震える腕を伸ばしながら、ネクロストーンと人形の残骸を踏みしめ、老人へと距離を詰める。
「ブ、ラフ、マン」
ひび割れ、かさついた唇で老人の名を呼んだジャスティンは、自らが何に飢えているかを少しずつ理解し始めていた。
地面に転がっている鉱物は普通の人間にとっては毒にしかならないものだが、今のジャスティンにとっては動力源となるものだ。食欲も、睡眠でも補うことのできないエネルギーは、ブラフマンしか自在に扱うことができない。
先ほどより強い意志を持って老人の下にたどり着いた彼は、そのままずるりと膝から崩れ落ちる。しかし今度は顔を擦りむく事などなく、やせ細った手は彼の白衣を握り締めた。
「ブラフ、マン」
子供のように同じ言葉を繰り返すジャスティンをどう思ったのか。老人は一度眼鏡を直すと、彼へと向き直り視線を合わせるようにしゃがみこんだ。
だらしなく伸びた長い前髪の隙間から覗く赤色は細かく揺れながら、それでもなんとか彼を捉えている。ブラフマンには、彼が何を欲しているかと言うことが判っていた。
しかしそれを与えてしまうことは、彼を更に変質させてしまうことになる。『地球の救済』を最上の目的としているブラフマンにとってそれは望ましいことではない。
「頼む、お願い、だ。苦しい、ん、だ」
地球そのもののエネルギーであるTERRA、SEED。そして生まれた鋼鉄虫。そして、鋼鉄虫を狩るハウンドという存在。
それらは全てスティールエナジーと言うモノを活動の起点に置いており、輪廻のように終わりの無い関係だ。輪廻を断つためには『スティールエナジー』以外のモノに頼らざるを得ず。
その末にブラフマンがたどり着いたのが、『ネクロエナジー』だった。スティールエナジーから生まれた存在が事切れるほんの一瞬に発せられるエナジーは強力かつ希少であるが、これまでには無かった力だ。
結晶化することで安定させることに成功し、これまで『スティールエナジー』でしか動作しなかった装甲の動力にすげ替えることにも成功した。そして、彼が開発した『NEHANシステム』にてハウンドとスーツの同調を更に強力にすることで、生身と変わらない操作性を持たせることにも成功した。
全ては順調に進んでいたかのように見えたが、この世界は本当に無慈悲な現実を老人に突きつける。
「頼む。助けて、くれ、ブラフマ、ぶ、ら、フマン、たす、けて」
ジャスティンの眼球に、久方ぶりに涙の膜が張った。食欲性欲睡眠欲。ネクロエナジーによって蓋をされた筈の欲求が一挙に溢れ出した彼にとって、餌を与えられないことは何よりの苦痛である。
睡眠不足から眼球は充血し、栄養不足から胃は空腹を訴え、下腹は嫌な熱が籠り、失っていたはずの体温が湧き上がる。この哀れな、浅ましい姿を見て、誰が彼の輝かしい勲章の数々を思い出すことが出来るのだろうか。
「……」
鋼鉄虫を作ったのは紛れもなく老人であり、日々拡大していく被害を陰ながら食い止めるためにわざと彼を失踪させ、かつS.I.V.A所属に限らず様々な猟犬達を拉致し、改造した。
新たな答えは得ることが出来た。しかし結局のところ世界は逞しく順応してしまい、鋼鉄虫を狩ることすら経済活動の一環へと変貌させてしまっている。ここで仮にネクロエナジーを利用したシステムを発表したところで、使用者の崩壊前提をした改革案など誰も飲むはずがない。
老人は十分に聡い。
彼はもう既に、到達点にいるのだ。
「ブラフ、マン」
「……ああ、解っているとも。待っていたまえ」
何度も強請る子供のような青年の頭を一度撫でた老人は、ネクロエナジーからの汚染を防ぐことが出来る特殊なグローブを嵌めた手で、地面に転がっているネクロストーンを無造作に拾い上げた。
掌大の塊は老人が少し強い力で握り込むと罅を発生させ、一口大の欠片へと分散されていく。デスク上に散らばったそれらの一つを摘まみ上げたブラフマンは、ジャスティンの眼前でそれをちらつかせた。
「ほら、これが欲しかったんだろう?」
「あ、あ」
自分の苦痛を取り除いてくれる万能薬を視界に入れた彼は激しく首を上下に振り、大きく口を開く。餌を求める小鳥のような仕草ではあるが、可愛らしさなど老人は微塵も抱かない。
だらりと伸ばされた舌の上にその結晶を置いてやると、それだけでジャスティンの身体は大きく波打った。
「っ、あ、ァ、あっ!」
飢えていた欲求が一瞬で全て満たされたのだ。強すぎる刺激に彼の視界には火花が散り、口からは飲み下すことが出来ない量の唾液が溢れぼたぼたと地面に染みを作る。
ついでに熱を孕んでいた彼の根もそれらを一挙に吐き出したため、股間部分の生地はじんわりと色を濃くさせた。脱力しきった身体を頭部を支えきることが出来ずに崩れ、地面に体を投げ出した。
この、例えようのない一瞬の快楽を得るためであれば、鋼鉄虫を狩ること等本当に簡単で単純な労働でしかないと彼は思う。
しかしその至福を一瞬得た直後、彼は自分の責務を思い出し自責する。
「(ち、……が、気持ちいいことが、欲しいん、じゃ、な)」
ブラフマンと共に鋼鉄虫を狩ることが彼の目的であって、その為にはスティールエナジー以外の動力が必要で、それはネクロエナジーという名で、使用者の身体に負担を掛けるもので、痛んだ身体に与えられるそれは本当に強い快楽を与えてくれるもので。
「(しかた、ない、んだ)」
彼は尻を高く上げた、まるで雌犬の交尾のような体勢で身体をひくつかせながら。随分と靄のかかってしまった脳内で必死に自己弁護を行った。特に誰も彼を責めていると言うわけでもないのに、だ。
その行動の底にあるのは後ろめたさであり、『人類を救う』という高潔な目標を掲げていた自分がこうして快楽に溺れてしまっていることを許すことが出来ないのだ。
「(だって、ネクロ、エナジーが、ないと)」
揺れ動く赤い瞳から止めど無く涙が溢れ出るのは生理的な反射からなのか、それとも自らの惨めさを思い知らされているからなのか。
しかし人格的に優れているジャスティンは、元凶である目の前の老人を責め立てることが出来ない。鋼鉄虫発生の元凶を知った後、家族も恋人も捨てて老人の計画に参加した彼は既に共犯者なのだ。
老人と共に道を外す前に、他の誰かに相談することが出来ていたら。道を外そうとする老人の腕を取り、引き止めることが出来ていたなら。
当時は思い至ることが出来なかった選択肢は余計な希望を抱かせて、彼の絶望を更に深いものに変えていく。
発狂しないことが奇跡と言えるような限界の状態で。ジャスティンは共犯者に対して言葉を投げかけた。
「な、ブラフマン。これで、いいん、だよ、な? これで、キョウコも、エミリアも、じん、るい、も、みんな」
カチカチと歯を鳴らしながら確認するように尋ねる彼の唇には、うっすらと笑みが浮かんでいる。
選んだ道が間違いであったなどとは信じられず、信じたくもなく。覚えのあるジレンマに陥っているジャスティンに対しブラフマンが抱くのは、哀れみを通り越した愛情だ。
土埃ですっかり痛み、ネクロエナジーで汚染されてしまった彼の銀髪に指を絡めると自らのそっと唇に触れさせる。
「……ああ、そうだ。私達は何も間違ってなどいない。それを証明するためには、まだまだ戦い続けねばならんのだよ。ジャスティン」
どこまでも穏やかな言葉で肯定を得ることが出来たジャスティンは、大きく安堵の息を吐いた。溢れた唾液が地面に水溜りを作り頬が浸ってしまっていても、今の彼にはそれが不快だと思う機能がない。
その、壊れた人形を優しく撫でている途中のことだった。山岳居住区一帯に配置している無機物達の信号がぷつりぷつりと途絶え始めたのだ。
「……?」
長い時間代わり映えのしなかったモニターに現れた異変に、ブラフマンは視線を奪われた。
人形たちを次々に打ち倒し廃墟の影から現れたのは、彼がある意味でずっと待ち望んでいた存在だったのだ。

「オイオイどーなってんだこりゃあ!?どう見ても虫じゃねーぞ、こいつら!」
「とにかく、先行は避けましょう。確実に仕留めていけば何の問題もありません」
「賛成するわ。サポートは任せて頂戴」
「了解した。皆、俺から離れるな!」

彼らの原型を作ったブラフマンにとって通信を傍受することなど赤子の手を捻るより簡単だ。
再びジャスティンに視線を戻した彼は、謝罪の意志を滲ませながら嘆願する。
「すまない、どうやらとうとう彼らがここに辿り着いてしまったらしい。……よろしく頼んだよ」
「……」
新たに供給されたネクロエナジーで思考が麻痺してしまったジャスティンに、ブラフマンの言う『彼ら』の意味は理解が出来なかった。
しかし『敵』が現れ、彼らの安息の地であるこの場所を脅かすと言うのなら排除する以外に手立てはない。ゆっくりとした動きで地面から起き上がった彼は、先程までよりは生気の宿った足取りでスティールスーツの格納庫へと歩みを進めていった。
ブラフマンはその背中を見送った後、モニターの一角に表示されているスティールスーツの型番に視線をやった。
【ISAT-001】と言う表記が意味する存在を知っているのは、この世界でただ一人の老人だけである。
「安心したまえ。君だけに背負わせんよ」

誰に聴かせるでもない愛の言葉は、薄暗い空間の中ですぐに溶け込み形を無くしてしまった。







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