催恋雨




夕方頃より暗雲が立ち込み、やがてポツポツと雨が降り出した。退勤時に酷い雨降りと重なるのは避けたいなぁと思っていたのだが、現実は悪い予想に引っ張られたようだ。結局いつも通りの残業時間を経て会社を出れば、外はバケツをひっくり返したような雨が空から降り注いでいる。
ここ数日雨が続いていたが、いずれも夕立程度ですぐに晴れた。だが今日の雨は特に酷い。傘をさしてはいるものの、最寄りのバス停に着く頃には足元がびしょ濡れになってしまった。

一般的に雨の日は乗車率が上がる。
今日は豪雨というせいもあり、通常の雨の日と比べても特に多い。バス停の屋根の下ではいつもより多くの人が列を成している様を、心許ない灯りが照らしている。最後尾と思われる男性の後ろに並び、傘を畳んで防ぎきれなかった雨飛沫をハンカチでそっと拭き取る。
近くの側溝が氾濫し、勢いよく道路を侵食していく様はいかにこの雨が激しいのか物語っている。比例するように雨音も激しく、それに負けじと列にいる男性が駅まで迎えに来てほしいと大声で電話している。
顔を傾けそんな列を眺めていると、視線は目の前の男性で止まった。
バス停に設置された灯りにより、いつもの白い髪の毛ではなくオレンジがかったように照らし出されているが間違いない。
後ろ姿のため顔はわからないが、この背丈に白髪、黒いいつものリュックを背負う彼は、おそらくこのバス停でたまに見かける人物だと察した。

私より少し若そうにみえる目の前のこの男性は、初めて見た時にその強面さと顔の傷が相まって同じバス停にいるだけでも緊張してしまった事を覚えている。到着したバスに乗り込めば、運が悪くその人の後の座席しか空いていなかった。緊張感を引きずったまましばらく揺られ、次に止まったバス停でそれは起きた。
1人のお婆ちゃんがヨタヨタしながらバスに乗り込んだものの、座席は空いていない。私の席を譲るべきなのだろうけど、こういう時に声掛けするのって恥ずかしいんだよなぁと羞恥心が勝って声が出ない。
その時だ。

「良かったらここどうぞ」

目の前の白髪の男性が、自分の席をお婆ちゃんに譲っているではないか。感謝するお婆ちゃんに、いいえと優しく笑いかける姿を見て躊躇っていた事と外見で判断していた己を深く恥じた。
以来この男性がバス停にいる時は、ついつい目で追ってしまう存在になっていた。

一方的ではあるが見知った顔がいる。
それだけでこんな夜の豪雨により心細いなか、拠り所が出来たようで少しだけ安心できる思いだ。


やがて激しくワイパーを動かし、水飛沫をあげながらバスがやってきた。既に車内には結構な人数が乗っている。全員乗り切れるのか心配になったが、やはり悪い予感は当たってしまった。

「誠に申し訳ありません。これ以上は入り切らないため、次のバスをお待ち下さい」

残すところ白髪の男性と私という時に、無情にも待ったが掛かった。恐縮しきるようにバスの運転手にそう告げられ、なんとか入れないものかと乗車口を見る。しかしどう頑張っても入り切らない様子に無理だなと判断した。

「わかりました」

白髪の男性が大人しく引き下がるので、私も同じ返事をしてバスを見送った。


私達以外に誰もいなくなったバス停。
次のバスは20分後かと確認してから、先程まで埋まっていたベンチに腰を掛ければ体の疲れが一気に出た。もう立ちたくない。雨の勢いは衰えることなく激しく地面を打ち付け、水が跳ね返っている。
今ならマイナスイオンを浴び放題だなぁと、疲労により低下した思考力でそんな事を思う。
白髪の男性は2人分ほど空けた位置に座り込み、足を組んでスマホを弄っている。
初対面の時が今でなくて良かったな。今だったらこんなに落ち着いて次のバスを待っていられないもの。

自分もスマホを取り出し、暇潰しにSNSを開けば夜8時近くという時間帯のせいか、タイムラインは華美な食事の写真で溢れかえっていた。

ーー美味しそう。お腹すいたぁ…

仕事が立て込んでお昼を食べ損ねたせいもあり、急激にお腹が空いてきてぐぅと鳴ってしまう。恥ずかしさで慌てて隣を見るが、雨音のお陰か聞こえてはいないようで変わらずスマホを見ている。それにホッとしつつ、今の自分にはSNSは目の毒だとアプリを終了した。
何か気を紛らわせるようなニュースはないだろうかとネットの海を漁るが、1度空腹感を自覚してしまうともう止まらない。意思に反して再びぐうぅぅとお腹が鳴ってしまった。しかも先程より大きい音だ。そっと隣を見れば、僅かに気まずさを含んだ顔をしつつもスマホを見ている。これは絶対に聞こえたな。その上で素知らぬ振りをしてくれているのだろう。申し訳ない。折角気を遣ってくれているのだから、私もそのままでいようと思っていたのだが、いたたまれなさが勝ってしまった。

「さっきからうるさいですよね。すみません」

仕事のせいでお昼を食べそこねちゃったのでお腹が空いてて、と弁明しつつ苦笑いをすれば、それは災難でしたねと話を合わせてくれる。やはりこの男性は優しいなと思っていると、三度ぐうぅぅとお腹が鳴った。

「……もう…本当にすみません」
「あー、いえ」

本当に恥ずかしい。飴でもなかったかしらと鞄の中を漁っていると、隣から控え目な声が聞こえた。

「バイト先の賄の残りを貰ってきたんですが、良かったら食べますか?」

黒いリュックから取り出されたそれは、ラップに巻かれたおにぎりだった。ひじきと枝豆のおにぎりという健康的なそれに、思わず伸びかけた手が止まり正気に戻る。

「ハッ、あの…本当に良いんですか?」
「どうぞ。俺はバイト先で夕飯を済ませてきたので」

一方的に顔は見知っているものの、こうして話すのは初めてだ。そんな人から食べ物を貰うなんて、いつもの私は絶対にしない。だが極限的にお腹が空いているこの状況と、この人は大丈夫という何の根拠もない自信が私を動かした。
有り難く頂戴しますと手を合わせ、口に含む。

「くぅ、五臓六腑に染み渡るとはこの事かぁ…」

口をついて出た言葉に、白髪の男性はそんなふうに食べてもらえるなら、思いきって声を掛けた甲斐がありますと小さく笑う。


それを皮切りに、バイト先はどこか聞いてもいいか、オススメのメニューは何かという質問や雑談が2人の間で交わされるようになった。
その結果知り得たことは、私が勤める会社の目と鼻の先にある食堂でバイトをしていること、ここからもう少し駅寄りにある大学に通っていること、そして差し出してくれたおにぎりは夜食用だったことだ。それを知り「せめてお金出すからそれで何か買いなよ」と慌てる私に手で制するという一幕もあった。
私の方もバイト先近くの会社で働いていることや仕事内容などを教えていれば、あっという間に時間は過ぎていく。

大きな雨音に遮られぬようにと、会話をする私達の物理的距離は自然と近くなる。それに気付いた時、次のバスが私達の前に到着した。
「大変お待たせして申し訳ありません」とのアナウンスにより、定刻より大幅に遅れて到着した事を知る。車内はそれなりに混み合ってはいるものの、いつの間にか私達の後ろに並んで座っていた数人も余すことなく乗れた。
そうして駅に到着してから、なんとなくお互いに軽く頭を下げて別れたのだった。

名前を聞いておけば良かったな。そう思ったがもう遅い。だがいずれまた会うこともあるだろう。
駅ビルに設置された大型スクリーンからは、今日から梅雨入りしたとの知らせが聞こえた。


-----------


翌日、今日も会えるかなと期待してバス停に行ったが、彼の姿はなかった。毎日バイトがあるとは限らないだろうから当たり前か。そう納得するも期待していた分落胆は大きい。会えたら渡そうと密かに用意した物を思い浮かべ、早くに会えたらいいなと願う。
彼に会えたのはその2日後のことだ。


先日の豪雨とは違い、しとしとと穏やかな雨降りの日。バス停に近付くと待ち望んだ人影を見付けた。

「あ、良かった。今日はいた」

左手に濡れた傘を持ち、右手でスマホを弄るその後ろ姿に話し掛ける。自分に話し掛けているとは思っていないのか聞こえないのか、反応がないのでその肩をそっと叩く。今気づいたと言うように振り返るその顔には、驚きが表れていた。

「私のこと、覚えてる?ほら、前におにぎりを分けてもらった者です」
「え、ええ…覚えてます。まさか話しかけられるとは思わなかったんで、ちょっとビックリしただけです」
「へへ。実はね、これを渡したくて」

やっと日の目を浴びることが出来たそれを、鞄から取り出して差し出す。疑問を浮かべつつも彼は受け取ってくれた。

「クオカード、ですか?」
「そう!いくら非常事態だったとはいえ、君の夜食を食べちゃったのが申し訳なくてさ。これでコンビニとかで好きなの買いなよ」

やっぱり何かお礼がしたくてと続けるも受け取るのを遠慮する彼に、貰い物だから気にするなと言えば、ようやくそこでじゃあ有り難くと彼はポケットに仕舞い込んでくれた。

「あの翌日も会えるかなと思ったんだけどさ」
「ああ、あの日はバイト休みだったんで」
「やっぱりかぁ。でもこうしてまた会えて良かったよ」

あれから君のバイト先に行ってオススメのご飯食べたよと伝えれば、本当に行ったんですかと驚かれた。
昼休みに行ったので混んでいたが、美味しいご飯に癒やされて午後の仕事は捗った。できることならば毎日通いたいところだけど、金銭的にそれは不可能なのでせめて週一くらいで通いたい所だ。そう伝えれば、もうすぐ出る期間限定メニューも美味いですよと教えてくれた。

こうしてこの日を皮切りに、彼とバス停で会えばなんとなく会話をする間柄になった。会話を重ねるうちにバス待ちの列で前後に並ぶ事がなくても、乗車後に隣り合って話すようにもなった。
ここまできたならば、名前を尋ねてもいいだろうか。いつも「君」と呼んでいるが流石にそれでは味気ない。今日会えたら聞こうと心に決めてバス停に行けば、彼はいた。運がいい。だが私と彼の間には何人かいるため今は会話ができない。
乗車後に吊り革を掴んで立つ彼の元へすすっと寄れば、私に気付きお疲れさまですと声を掛けてくれた。


「ねぇ、名前って聞いてもいい?」

バスに揺られながらの雑談に区切りがついた時、思い切って聞いてみた。

「名前、ですか」
「そう。いつまでも君って呼ぶのはなー、と思ってさ。嫌かな?」
「まぁ、別にいいですけど…不死川実弥と言います」

初めて聞く名字のため漢字の綴りも教えてもらい「強そうな名字だね、長生きしそう」と率直な感想を伝えれば、そんな事は初めて言われましたよと少し笑われた。

「私の名前は名字名前です。よろし……わっ!」

自己紹介を終えようとした瞬間、バスが大きく揺れた。吊り革を掴んではいたものの、バスの揺れに対して高さのあるパンプスでは踏ん張りが効かない。そのままドスンと隣の実弥くんに体がぶつかってしまう。体格の良さなのか体幹がいいのか、実弥くんはバスの揺れに動じるどころか、私の体が突っ込んでもその場にしっかりと立っている。
彼の胸元に顔を埋める形になり、布越しでもわかる胸筋についすごいなと感じ入ってしまう。どれくらい硬いのかしらと手で触りたい気持ちを堪えて実弥くんの体から離れた。

「あたた、ぶつかっちゃってごめんね」
「っ、…いえ……」
「それにしても今の揺れにビクともしないなんて、実弥くんすごいね。何かスポーツでもやってるの?」
「…」
「実弥くん?」

反応がない彼を見れば少し決まりが悪そうに菫色の瞳が揺れている。もしかして私のタックルでどこか痛めてしまったのか。そう心配すればそうじゃないですと慌てたように言われた。

「あーその、…下の名前で呼ばれるとは思わなかったので」
「名字呼びのほうが良かった?名前の方が短くて呼びやすかったからつい」
「ああ…いえ、大丈夫です。スポーツは、高校の時に剣道部だったくらいで今はやってません」

そっか剣道かぁ。足腰が鍛えられそうだねと返せば「名字、さんは何かやってたんですか」とぎこちなく私の名前を口にする。ウブなその反応に、やだこの子ちょっと可愛いとときめく。だがここで下手に反応すれば心を閉ざされちゃいそうだなと思ったので素知らぬ振りをして質問に答えた。



お互いの呼び名がすっかり定着した頃には、会話の内容もお互いの私生活やら愚痴など、徐々に踏み込んだものに変わっていった。
会話の中で彼が7人兄弟の長男と知った時が1番驚いた。下の兄弟達のためにも、食堂以外にいくつかのバイトを掛け持ちして学費やら生活費を自分で賄っているらしい。今どき珍しい勤勉なその姿にいたく感動した。

そんな多忙を極める彼は、バスに隣り合って座っているとこくりこくりと船を漕ぐ時がある。幾つかのバイトの合間にレポートなど学業をこなす彼にとって、乗車時間は束の間の休息なのだろう。駅につくまで肩を貸すよと冗談交じりで提案した事もあるが、「何を言ってるんですか」と少し顔を赤らめて断わられる。
そんなある日、いつものように隣り合って座っているとやはり少し眠そうにしている。断られるの前提で声を掛ければ、返事はいつもと同じ。まぁそうだよねと、せめてゆっくり休めるように話しかけるのは止めておこうと窓の外を眺めていると肩に重さを感じた。
ゆっくりと顔だけを横に向ければ、こちらにもたれ掛かり寝息をたてている実弥くん。ここまでぐっすり眠っている姿は初めてだ。余程眠かったのか。それとも少しは心を許してくれるようになったのかしらと、野良猫を手懐けたようなほっこりとした気分になった。
駅に到着してから起きた実弥くんは、とても恐縮していて平謝りしてきた。

「私は全然気にしてないからね。何なら私のこと、お姉ちゃんだと思って甘えていいんだよ」

なんだか複雑そうな顔をしている実弥くんの肩をトントンと叩く。
もうすぐボーナスの時期だ。日々懸命に頑張る彼に何か奢ってあげよう。


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会社を出る足取りは、このまま空を駆け上がれそうな程軽い。憂鬱な雨降りの日だが、そんな厚い雲ですら突き破れそうだ。
今日は実弥君がバス停にいて欲しいところだが、どうだろうか。いて欲しいなぁと念じつつバス停に着いたが彼の姿はない。
残念。今日は会えずじまいかと思った矢先、バシャバシャと水溜りの中を走る音が近付いてくる。後ろを振り向けば、雨の中傘もささずにいたせいか、少し濡れている実弥くんがバス停の屋根の下に入ってきた。

「実弥くん!傘どうしたの?」
「コンビニで盗られました。最悪です」

忌々しそうに言いつつ、手で服についた水滴を払いのけている。
カバンからタオルハンカチを取り出して、実弥くんの濡れた頭をそっと拭おうとした。だが私の動きに実弥くんがビクリと体を震わせたので、流石にまずかったかと手を下げた。

「あ、ごめんね。風邪ひいちゃうかなと思って」
「いえ、ちょっと驚いただけなんで。…お願いしてもいいですか?」

そう言って頭を少し下げてくるので、タオルハンカチを渡して自分で拭いてもらう選択肢は消えた。戸惑いつつもお邪魔します、とそっと頭にハンカチを乗せる。
いつもは風にさわさわと揺れる柔らかい髪の毛が、水分を含んだ事でのそりと重そうにしている。湿気もあるため、いつもよりうねりのある髪の毛をじっと見つめる。

ーーあ、つむじ

身長差のためいつもは決して見ることの出来ない実弥くんのつむじを見て、俄に悪戯心が疼く。えいっとつむじを押せば当然だが「何してるんですかァ」と抗議の声が上がる。

「ごめんごめん。ねぇ、つむじを押すと下痢するって噂があるよね。本当なのかな?」
「あれは迷信だってテレビでやってましたよ」
「そうなの?」

仮に本当だとしても、バスの中で下痢とか勘弁して欲しいですと呆れる実弥くんに笑い、お詫びとして1つの提案を切り出す。

「ねぇ。実弥くんさ、この後暇?」
「は?」

驚きに目をまん丸くする彼に、ボーナスが出たのだと言い、一緒に焼き肉食べに行こうよと誘う。

「1人焼肉は流石にハードルが高くてさぁ。でも焼き肉行きたいんだよね。あ、勿論実弥くんの分は私が払うから気にしないで」
「や、自分の分は払うんで…」
「いいからいいから。実弥くんはいつも頑張っているんだから、こういう時くらいはお姉さんに甘えなさい」

ドンと胸を叩く私を見て、しばし考えを巡らせてからこくりと頷いてくれた。

「じゃあ、名字さんの連絡先、教えて下さいよ」
「え?」

実弥くんは賄で夕飯を済ませた後だったので、別の日にしたいとのこと。そりゃそうか。焼き肉に行くならしっかりとお腹を空かせてから行きたいよねと納得し、連絡先を交換した。
バスに乗り込み、隣り合って座りながらどこの焼き肉に行こうかと作戦を立て、忙しい実弥くんの都合に合わせて週末の金曜日に行く運びとなった。

「すげぇ楽しみです」
「うんうん、やっぱり男の子はお肉が好きだもんね。たんと食べなね」

機嫌のいい実弥くんを見て、私も顔を綻ばせる。駅前のバス停に着いてから駅の入口までの短い距離ではあるが、私の傘に入るかと尋ねた。断られたのならそれはそれでいいかと思ったが、意外にも実弥くんは助かりますと素直に傘に入ってきた。
といっても、身長差がありすぎるため結局実弥くんが傘を持ってくれたのだが。相合い傘なんて久しぶりだな。いや、異性とするのは初めてかもしれない。年下で弟みたいな実弥くんとはいえ、なんだか気恥ずかしいものがあるなと、自分で言っておきながらドキドキしつつ、短い相合い傘を終えて別れた。


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そうして迎えた金曜日。今日は絶対に残業をしませんと宣言すれば、デートかと野次が飛んだ。
デート。
年下の男性と焼き肉に行くってデートなのかしら。でも普通のお店にご飯に行くよりは親しくなければ出来ない事な気がする。そう思えば不安なのか緊張なのか胸が騒がしくなってくる。

実弥くんはバス停の降り口付近で待ってくれていた。バスを降りる私を見つけて、嬉しそうに近寄ってくる姿がなんだが犬と重なって見え、可愛く思えたのは内緒だ。
あらかじめ予約してある駅近くの焼き肉チェーン店へと2人で並んで向かう。時たま実弥くんと同年代らしき女性が、すれ違いざまにチラチラと実弥くんを見ている。その表情には好意が滲んでいることに、隣の彼は気付いているのだろうか。彼女はいないと言ってはいたけれど、大学ではモテていそうだなぁ。
私が立ち入ることのできぬ大学生活を思えば、何故か胸がモヤモヤする。そのモヤモヤの正体がわからぬまま焼き肉店に到着した。


「美味っしいー!!」
一口食べれば先程までのモヤモヤは霧散し、幸せ物質のオキシトシンが体を満たしてくれる。

「ほらほら、実弥くんも遠慮しないで沢山食べなね。といっても食べ放題だけどさ」
「ありがとうございます。じゃあ冷麺とかも頼んでいいですか?」
「いいよー!」

肉以外を頼むのか。これも若さかと納得しつつタッチパネルで次々と注文していく実弥くんを眺める。

「名字さん、飲み物は?」
「あ、ジンジャーエール頼んで貰ってもいい?」
「わかりました」

忙しなく肉をひっくり返し、焼けた肉を次々と実弥くんのお皿に乗せていく。ちょっと乗せすぎたかな?と思うも、全然余裕ですと白米と一緒に口の中にかき込み、美味しそうに小さく頷きながら咀嚼している。いい食べっぷりだ。見ているこちらまで気分が良くなる。
ご飯を食べつつ、実弥くんが今度行く教育実習の話やら駅前に新しく出来たお店のご飯が美味しそうと話題が尽きる事はなかった。

「あれ、不死川?」

不意に掛けられた声に2人で振り向けば、通路に1人の男性が立っていた。声を掛けた男性は、やっぱそうかー!と破顔しながら近付く。

「お前ゼミの飲み会断っておいてデートなのかよ」
「ンだよ、なんでここにいんだ。あっち行けェ」

顎でクイッと指図する不死川くんの顔は、少し眉根を寄せていて、いつも私に見せる顔とは少し違う。

「いつもの飲み会に行くつもりだったんだけどさぁ、たまには思いっきり肉食いたいって事になって急遽ここにしたんだよ。にしても、そうかぁ…大事な用事ってこれかぁ」

ニヤニヤとしつつ私を見てくるので、なんだが居心地が悪くなってくる。

「実弥くん、ゼミの方に行ってもいいよ」
「はぁ?」
「あと20分くらいで食べ放題も終わりだしさ。私もデザート食べたら帰るから気にしないで」

気を使って言ったのだが、私の言葉に不死川くんの眉間が更に深くなる。

「名字さんは…」
「え?」
「いや、なんでもないっす。……じゃあ少しだけ顔を出してきます」

そのまま立ち上がり、男性と共に店の奥に行ってしまった。
ゼミの飲み会を断らせちゃっていたのか。なんだか悪いことしちゃったかな。独りよがりの行動をしていたかもしれない事実に少し落ち込んだ。タッチパネルを手に取り、杏仁豆腐とシャーベットのどっちにしようかなと迷っていると、店のどこかから「うおぉぉぉぉ!」と盛り上がる野太い声が響いた。他のテーブルの人達が凄い声と笑っている。もしかして実弥くん達のテーブルだろうか。同年代といる時の実弥くんもあんな感じではしゃいだりするのかなと、その姿を想像してくすりと笑えば目の前の座席に再び人が座り込んだ。

「デザートですか?俺も頼みたいです」

そういってタッチパネルを覗き込んでくるのは実弥くんだ。

「あれ、実弥くん?もういいの?」
「ちょっと顔を出したんで義理は果たしました」

義理って、と思わなくもないが戻ってきてくれて嬉しいものは嬉しい。実弥くんは杏仁豆腐にシャーベットだけでなくミニパフェも追加していく。

「ゼミの飲み会断らせちゃってごめんね」
「あんなのは別にいいんですよ。しょっちゅうやってるからいつでも行けますし。俺には名字さんとの約束の方が大事ですから」
「私とだっていつでも行けるし、そんなに大したものではないんだけどなぁ」
「そんな事ないです。でも、また付き合ってくれるなら一緒にご飯に行きたいです」
「いいけど…毎回焼き肉はちょっとキツイかなぁ」
「焼き肉じゃなくていいんです。ああ、こことか行きたいんですけど、俺一人だと行きにくくて」

そう言ってスッスッとスワイプして表示したスマホを私に見せてくる。

「和菓子屋さん…?」
「名字さん甘いの好きだって言ってましたよね?」
「そりゃ好きだけどさ…大学の女の子とかと行かないの?」
「俺が甘い物好きって事は周囲の奴らは知りませんし、あんまり言いたくないんで」

まぁ、確かに男性が甘い物好きって言いにくい世の中ではあるよなと思う。

「名字さんしか頼れる人がいないんです。お願いします」

ここまで言われたら、断る気は起きない。

「よし、行こうか!私の前では甘い物じゃんじゃん食べていいんだからね」

任せなさいと言えば、実弥くんも嬉しそうに笑う。ふと、「そういえばさっき凄い盛り上がってる声が聞こえたんだけど、あれ実弥くん達?」と聞けば、あっさりと肯定された。

「こっちまで大声が聞こえてきたよ。楽しそうだったけど、なにで盛り上がってたの」
「あー、そうですね……いずれ、言います」
「えー、今教えてくれないの?」
「今はまだ、早いと思うんで」
「なにそれ、今教えてよ」

隠されると気になるのが人間というもので、教えてよと詰め寄るも実弥くんはただ笑うだけで教えてくれない。そのうち言いますからと、のらりくらりと交わされているうちに、頼んだデザートが次々とテーブルに運ばれる。

「さ、食べましょうかァ」
「有耶無耶にされた…今度絶対に教えてよね」
「大丈夫です。そう遠くないうちに言いますから」

本当かしらと疑問に思う私に、どうぞとデザート用のスプーンを渡してくる。
機嫌が良さそうに微笑む彼を見て、そのうち教えてくれるならいいかと思い直す。2人でシャーベットを食べて美味しいねと穏やかな談笑に戻るのだった。






(不死川ー、デート中なのに邪魔しちゃって悪かったなぁ)
(え、なにお前、彼女いたの?バイトばっかりしてるからいないと思ってた)
(まだ彼女じゃねぇけど、いずれ彼女になってもらう予定。だからこれでもうあっちに戻るからなァ。邪魔しに来んなよ)
(うおおおぉぉぉぉぉ!!!)
(マジかよ!頑張れよ!)




20210721
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