待ちわびた想い




カタカタとキーボードを叩く音が狭い部屋に響く。ありきたりな1K。この部屋を主に構成しているのは今向かっているローテーブルにベッド、テレビ、仕事の資料が詰まった本棚。と、そこに入り切らず床に積まれた本だ。
そしてこの部屋の主である私は、駆け出しの小説家。得意とするジャンルは歴史物だ。歴史物を書くのは時代劇が好きだった祖父の影響が大きい。

読書好きが高じて自分でも小説を書き始めたのが高校生の時。生みの苦しみは尽きないものの、自分でも何かを生み出すことが出来るのだという喜びや自信を得られるのは何事にも代えがたく、どんどんとのめり込んでいった。そうして幾つかの作品を仕上げた時、賞に応募してみようと思い立った。もしかしたらデビューできちゃうのでは?と甘い期待を持っていなかったと言えば嘘になる。受賞時に副賞として貰える金額に欲が出たのもある。結果は見事なまでに鼻っ柱をへし折られた。
そこからは俄然やる気に火がついた。勉学の傍ら何回かの投稿の末、大学生の時に小さな賞に引っかかった。担当さんがつき、薄いながらも本を1冊出してもらえた。今は次の作品の構想に精を出す日々だ。

ローテーブルの片隅には江戸時代に関する資料が堆く積まれている。適当に1冊抜き出してからパラパラと本を捲る。何か良いアイデアは浮かばないかなぁと、目についた箇所を流し読みしていくが、ただただ目が滑っていくだけ。再びパソコンに視線を戻すが、昨日から然程進んでいない現実に焦りと苛立ちが募る。

「じゃあ後であっくん家に集合な!」

外からは帰宅途中の小学生達が楽しそうに喋っている声が聞こえる。

ーー最近、仕事以外で人に会ってないな。

脳内に1人の男性の姿が浮かんだ時、リマインダーが次の予定を知らせてくれる。もうそんな時間か。座椅子に背中を預けてググッと伸びをする。心なしか軽くなった体に喝をいれ、外出の準備をして家を出た。向かう先は大学生の頃から続けているバイト先の書店だ。小説家といっても端くれの端くれ。印税生活なんて夢のまた夢。こうして別の仕事で働かないと暮らしていけない。デビューした時にも「仕事やバイトは絶対に止めないでね」と担当さんに釘を刺された理由が今はわかる。

エプロンを身に纏い、取次から届いた新刊をチェックしたりといつもの仕事を進める。一通り書棚を眺め、そろそろこの本はバックヤードに移そうかなぁと背表紙に手を掛けた時、背後から声が掛かる。振り返ると見慣れた白シャツに黒いノータックのスラックス、経年変化により良い味が出ている黒皮の鞄を手に持った男性が立っていた。地味な服装とは正反対に、髪の毛は遠目でも目立つ焔色をしている。

「杏寿郎さん」

そこにいたのは私の恋人である煉獄杏寿郎だった。更に言うと元高校の担任であり、私の仕事の良き理解者であり心強い存在だ。久しぶりに見た姿に胸が弾む。

杏寿郎さんとは、まだデビュー前、良いネタはないかと他の本屋でうんうん唸っていた時に再会した。卒業以来会っていない変わらぬ恩師の姿に気持ちが少し昂ったのだろう、実は小説を書いているんですと在校時には秘密にしていた事を初めて打ち明けた。家に蔵があるが見に来るか?ネタになる物があるやもしれん。との誘いに飛びついたのが始まりだ。
杏寿郎さんの家は何代も続く名家だそうで、敷地がとても広い。これぞ日本家屋という母屋にお父様が営んでいる剣道場、手入れが行き届いている庭には蔵と離れがあり、初めて訪問した時はこれほどとは思わず度肝を抜かれたっけか。

時代劇でよく見る蔵の外観の上部には、煉獄家の家紋が刻まれていた。ギギィと重苦しい音を立てて重厚な扉が開く。一歩足を踏み入れれば、背後より差し込む光でチンダル現象が起こる。そしてその向こう側に広がる景色に目を奪われた。左側の棚には大小様々な木箱が収納されており、葛籠もあった。右側には昔使われていたであろう家具が存在感を示す。正面には階段箪笥があり、2階へと続いている。
杏寿郎さんは手近にあった木箱を1つ手に取り、私に中を見せてくれた。桐の箱から顔を出したそれは、風鈴だった。青い花が装飾されたそれは、大正時代のご先祖様が好んで使用していた物らしい。杏寿郎さんが小さい頃にも使われていたそうで、ここに仕舞ってあったのかと懐かしそうに撫でていた。大正時代の嘘か真かわからぬ話を聞きつつ、他にも様々な物を見せてもらった。
その晩、見せてもらった風鈴を題材に話を1つ書き始めた。勿論許可は貰ってある。それがデビュー作となったのだ。杏寿郎さんに伝えれば、大層喜んでくれ、以来煉獄家に足繁く通うように。蔵の虫干しの手伝いまでするようになった頃、杏寿郎さんと付き合うようになった。

元担任の先生が相手という事に戸惑いはないわけではなかった。だが「好きだから付き合う!それ以外に何がある!」と直球な言葉にウダウダとした考えは一刀両断された。以来、私がうまく書けずに悩む傍らで、懸命に支え続けてきてくれている。1冊目の本が出た時はお祝いだとちょっとリッチなシティホテルに連れて行って貰ったこともある。
後ろ向きな考えが多い私は、明朗快活な彼の人柄に幾度となく助けられてきた。ここ最近はテスト期間のために彼が多忙で会えずにいたが、こうして会いに来てくれたということはそれも終わったのだろうか。

「何時までだ?」
「あと30分で上がりです」
「そうか、それならそこで待っている」

杏寿郎さんが指差す先は書店に併設されているカフェが。こくんと頷けば、いつもの明るい笑み返してくれる。こそこそと小声での会話もだいぶ板についた。杏寿郎さんの地声は大きい。最初の頃は「プライベートな会話を全くするなとは言わないけど、もう少し声を落としてもらってね」と苦笑いと共に店長に注意されていたっけか。
退勤後に杏寿郎さんと合流してから、近くにある大衆食堂に来た。

「こうして会うのは久し振りだな!元気だったか?」

注文を終えた後、騒がしい店内に負けず劣らずの声で尋ねてくる。

「元気でしたよ。でも筆が全然進まなくて…そこは参ってます」
「む…今はどういう構想を練っているんだ?」
「それもまだハッキリしてないんです。いいなーと思い浮かぶ案もあるんですけど、本当に面白いのかなぁと思って止まっちゃうんです」

来週頭には担当さんと直接会っての打ち合わせがある。その時までに何か1つでも案を練っていないと体裁が悪い。しかし焦りからか何も思い浮かばず、更に焦るという悪循環に陥っている。
その後も、そもそも私の書く話って面白いんですかねぇだの、感性ってどうやって磨くんでしょうかだの愚痴めいたものへと変わっていく。

「あ、すみません。せっかく会えたのにこんな話ばっかりじゃ面白くないですよね」
「そんな事はないぞ!俺に弱味を見せてくれるのだなと思うと嬉しい。そもそも一人でなにもかもうと背負い込むのは良くない。何でも言ってくれ!」
「ありがとうございます…なんかスッキリしちゃいました。杏寿郎さんのお話聞かせてくださいよ。最近どうでした?」

彼の包み込むような優しさが身に染みる。愚痴を聞き流すでも諌めるでもなく、うんうんとまず真剣に頷いて聞いてくれる姿勢が私には嬉しい。最も、その後ド正論を言われてグサグサッと刺さる事もあるのだが。

「テストが忙しかった!あとはそうだな…中学生の副教材作りに参加しないかと声が掛かったくらいだな」
「え、最後のやつビックニュースじゃないですか!凄いですね」

中学生の頃、教科書以外にカラー写真がふんだんに使用された歴史の副教材を使用していたのを思い出す。文字ばかりの教科書とは違い、ちょっとしたコラムなども掲載されていて見るのが楽しかった1冊だ。資料になるかもと今も自宅に置いてあるはずだ。何年か毎に改定しているそれに、執筆メンバーの1人から良ければ参加しないかと声が掛かったそうだ。巻末には執筆者として名前も載るらしい。
「凄いですね。おめでとうございます」と口では言うものの、また差が開いてしまったと思う。そもそも年齢が離れているのだから、差が開いて当然。だがうまく小説が書けずにいる今の境遇が、自分を暗澹たる気持ちにさせる。心の底からお祝いできないなんて彼女失格、最低だ。私も早く2冊目の本が出せるようになんとかしなければと、焦りが出る。

「うむ!ところで…この後はどうする?もし名前さえ良ければ…」
「私…」
「ん?」
「私、もっと頑張らなきゃ!!今晩は徹夜でネタ作りに掛かります!!」
「そ、そうか……なら夜も遅いしせめて家まで送ろう!」

メラメラとやる気に満ちた私は、帰りしなにコンビニに寄り栄養ドリンクをドカドカと籠に入れていった。気迫に押されたのか、杏寿郎さんも少し引き気味だったのには申し訳ない。玄関で別れてからすぐさまパソコンに向かい、買ってきた栄養ドリンクをグビグビと飲み干す。構想よ降りてこい、いや、降りてきてください!と願いながら、ああでもないこうでもないとパソコンと資料を睨んで夜が更けていった。


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「今日から名字先生の担当になります!宜しくお願いします!」

打ち合わせ日に出版社に行けば、迎えてくれたのはデビュー当初から面倒をみてくれている年配の担当さん。と、その隣にいかにも新卒1,2年目ですといった若い男性が。もしや…の予感は当たり、担当の交代を言い渡された。

「まぁ、コイツは見てのとおり若いけどやる気は凄いあるから」

見捨てないでくださいという私の表情を的確に読み取った元担当さんは、色々とフォローをするが今の私には響かない。私と年齢的にそう変わらない新担当さんに、大丈夫かなぁと不安になる。

「俺、名字先生の話好きですよ!1冊目の短編集に収録されたあの話ですが…」

担当になるのだから当然と言ってしまえばそれまでだが、私の少ない過去作を全て読み込んだ上で、あそこが良かった、逆にあそこをこうしたらもっと良かったかもしれないと話し出す。こういう事をズバリと言えるのは若いからか性格だからか。

「欲しい資料とかあったら何でも言ってください!俺、先生のためなら何でもします!」

これが口先だけではないと分かるのは早かった。こういう話を書くのはどうかなぁと思っているが、まだ資料集めができていないと言えば、数日後には角2封筒にぎっしり入った資料を持参してきた。更には、どこそこの博物館の学芸員さんに話を聞くことも出来そうですよと言う。
前の担当さんは年配でベテランであったため、私のとっ散らかった構想をうまく纏めてくれる人だった。新しい担当さんには当然そこまでの技量はない。しかしながら若さでそれをカバーしようとしていた。フットワークが軽く、なんの気無しに言った言葉にも反応して、それならこういうお話はどうでしょうかと提案してくる。

その熱意に感化されていった私は、次第に新担当さんとの連絡を密にしつつ作品作りに励むようになった。私の部屋で杏寿郎さんとご飯を食べている時、部屋でちょっといい雰囲気になった時など、お構いなしに電話やらメッセージが来るのは少し勘弁してほしかったが。杏寿郎さんも、あまりにも頻繁なそれに訝しんだようだが、新しい担当さんに変わった事を説明したところ、釈然としない様子ではあったものの「わかった!」と納得してくれた。


そんなある日のことだ。
10月に入り朝方の冷え込みで目を覚ますことも出てきて秋の気配を感じるようになった。週末は温かいお鍋でもつつこうという杏寿郎さんの提案に一も二もなく賛成した。
普段は本やノートパソコンで埋もれる机をキレイに片付けて(床の端に寄せただけとも言う)、杏寿郎さんが仕事終わりに来るのを待った。
7時を少し過ぎた頃、両手に食材が入ったビニール袋を引っ提げ、えびす顔で杏寿郎さんはやって来た。食材の量に驚いたが、杏寿郎さんは大食漢だしこれくらいならぺろりといけてしまうだろう。すぐに使うものと冷蔵庫行きのものを選り分けていると、袋からはビールやら甘いお菓子も出てきた。

「このお菓子は君が好きだったろう!原稿の合間に食べるといい」

どうやら私への差し入れも兼ねていたようだ。こういう所が優しくて好きなんだよなぁと思いつつ、お礼を言えばにこりと笑い返される。ビニール袋の奥底からは、見覚えのある新商品のさつま芋のお菓子がいくつか出てきた。

「あ、杏寿郎さんもこれ買ったんですね。実は私も一緒に食べようと思って買ってあるんですよ」
「そうなのか?」
「さつま芋系の物を見る度に杏寿郎さんが頭の中に出てくるようになっちゃいましたよ」
「そうか…それは、責任を取らなければいけないな!」
「あはは、責任って。後で一緒に食べましょうね」

2人ともあまり料理は得意な方ではないのだが、お鍋はだしパックを使えばそれなりの味になるのだから素晴らしい。覚束ない手付きでネギや豆腐を切っていき、土鍋へと並べる。全ての具材を投入してからコンロに点火をした。

「やっぱり卓上コンロ、買うべきですかね」
「それならコタツも欲しいな!」
「コタツなんて置いたら、私なんにもやる気がおきなくなっちゃいますよ」

そもそもこの狭い部屋にコタツを置いたら邪魔になりそうだ。ぬくぬくと過ごせるのは捨て難いが、掃除も面倒そう。時間が経つにつれ香ばしい匂いが鼻を掠める中、2人でお鍋の様子を見ながらそんなことを談笑する。
出来上がったお鍋をテーブルに運び、白米とアルコールも忘れずに並べれば最高の夕食の完成だ。私はチューハイ、杏寿郎さんはビールで缶のまま乾杯してゴクリと一口。ホカホカと湯気を上げるお鍋から好きな具材を好き勝手に取っていく。

「あー、美味しい〜幸せ〜」

お肉をはふはふとさせながら幸せを噛みしめる。美味しいお鍋にアルコール、眼前には笑顔の杏寿郎さん。これで小説の進みも順調ならば言うことはないのだけど。

「うむ、うまいな!やっぱり君と一緒に食べるご飯は何でもうまい!」
「ええ、本当ですか?大袈裟ですよ」

相変わらずストレートに言うものだから、言われるこっちが照れる。

「本当だとも!君と歴史について討論しあうのも楽しいが、こうして他愛ない話をしているのはもっと楽しい。君が真剣に本を読み込んだりパソコンに向かい合う姿を見ると応援したくなる。だから…」

ピンポーン

安アパート独特の、間の抜けた呼び鈴が杏寿郎さんの言葉を遮る。強制的に話を中断された杏寿郎さんは口を一文字に結び、難しそうな顔をした後、俺が出ると立ち上がった。特に通販も頼んでいないから宅配ではないはず。新聞とかの勧誘だったらイヤだなと、そのまま杏寿郎さんにお願いをした。玄関とこの部屋を区切る扉の向こうに杏寿郎さんが消えたのを見届けてから、再び箸をお鍋に向ける。椎茸でも食べようかなぁと狙いを定めた時、心臓が止まるのではという大声が響いた。

「君は誰だ!!!!???」
「え?僕は…うわっ、ちょ…名字先生助けて!!」

助けを求める声には聞き覚えがある。慌てて玄関に向かえば、杏寿郎さんに両肩をがしりと掴まれている新担当さんがいた。突然の事態に困惑している担当さんを他所に、杏寿郎さんは鼻同士がくっつくのではという程顔を近付けて「君は名前の何なんだ!?」と問い詰めている。

「き、杏寿郎さん!その人、新しい担当さんです!!」

欲しがってた資料が手に入ったので、早めに届けた方がいいかなぁと思って寄りました。誤解させちゃったようならすみません。と、平謝りする私達に苦笑いしつつ名刺と資料を預けて担当さんは帰宅した。

「あんなに若い男性とは聞いていなかったぞ!!!」
「す、すみませんでした…あの、もう少し声を落としてもらえると…」

なんせ安アパートだ。そこまで防音性能は良くない。この修羅場はまず間違いなく両隣に聞かれているだろう。
新しい担当さんになったとは話していたし、頻繁な連絡も新担当さんによるものだと杏寿郎さんは正しく理解していた。しかしこんなに若い男性だとは思っていなかったようでーー私も説明し忘れていたらしいーー、玄関で見た新担当さんを浮気相手かと勘違いしたようだ。

「前の担当と同じ年配の男性だとばかり思っていた!ちゃんと話してもらわないと困る!!」
「年齢とか言う必要ないかなって思ってて…」
「必要ある!!俺が心配になる!」
「そうなんですか?」
「…俺と君とでは年も7歳近くも離れている。いつか、同じ年位の男性に目移りするのではと思っていた…だからさっきは焦ったぞ」
「そう、だったんですか……私も、焦ってました」
「君が?」
「はい。杏寿郎さんが本の執筆に加わるって聞いた時、また差が開いちゃったなぁって。こんな芽の出ない作家なんて嫌気がさして捨てられちゃうかなって…」
「そんな事はまったくないぞ!!!」

心外だというように鬼気迫る表情で告げる。そしてやはり声は大きい。これは明日お隣さんに謝罪コースだ。

「君の頑張りは、側にいる俺がよく知っている!」
「あ、ありがとうございます」
「君が己の魂を燃やしながら、一文字一文字を紡いでいく姿を見るのが好きだ!君が思い悩む度に、俺に何ができるだろうといつも思う。それくらい君が大切なんだ」
「杏寿郎さん…私だって、杏寿郎さんが大切ですよ!」

面倒見が良くて、叱咤激励しつつ私の仕事を応援してくれる。人情家で家族想い。お母様をはじめ、家族の話をする度に愛おしさが溢れ出るような笑みを浮かべる顔を見るのが好きだし、杏寿郎さんの家族に羨望を抱いてすらいる。

ん?
人情家?家族想い?

「そうか…名前、俺は君をもっと側で支えたいと思っている。だから俺と…」
「あー!!思いついたかもしれない!」
「よもや!?」

ちょっと待ってくださいねと言いながら、ネタ帳を本棚から取り出して走り書きをしていく。頭に浮かんだ事が消えてしまわぬうちに書かねば。一通り黙々と書いたところでようやく一息つく。

「話の腰を折っちゃってすみません。えっと、なんでしたっけ?」
「………なんでもない!」
「えー、教えて下さいよ」
「また今度にする!この話はこれで終いだ!鍋を食べるぞ!もう冷めている」
「あ、本当だ。温め直してきますね」

その晩、乱雑に書き殴ったプロットを元に大まかな話や設定をパソコンで書き綴っていった。杏寿郎さんも今晩は家に泊まると言い出し、時折コーヒーを淹れてくれたり肩を揉んでくれたりする。
そのうち杏寿郎さんもノートパソコンを鞄から出し、授業内容の作成に入った。2人のタイピング音が、静かな部屋に心地良く響いた夜だった。


数日後、担当さんに見せれば「これはいいですね!」と好感触。編集会議を経て月刊誌に載せてもらえる事になった。そうと決まれば本格的に腰を据えて作品作りに取り掛かった。1度のめり込むとご飯も平気で抜かす私を心配して、杏寿郎さんは2日と空けずに来てくれた。
途中、「やっぱりダメです…もう書けません」と弱音を吐けば「諦めるな!己の不甲斐なさにどれだけ打ちのめされようとも、心を燃やせ!歯を喰いしばって手を動かせ!」と喝が入る。そうしてなんとか出来上がった原稿は、新年特大号に無事掲載され、ありがたいことに反響があった。

「いやー、俺も読んだけどあの話良かったよ」
「本当ですか?!」

打ち合わせに訪れれば、前担当さんもいて新作の感想を伝えてくれた。

「ありきたりな長屋の差配モノだけど、主人公がいいんだよね。生真面目な人情家で愛嬌のある性格が読んでいて面白かったよ」
「そうなんですよね!設定は本当にありきたりなんですけど、長屋に住む他の登場人物も個性豊かで魅力的なんですよね!」
「ありきたりな設定ですみませんねぇ…」
「いやいや!それを面白くするのに作家の力量が問われるんだよ。誰かモデルとかいるの?」

モデルがいるかと言われたらいる。杏寿郎さんだ。だが恋人をモデルにしました、なんて事は恥ずかしくて言えない。結局、高校の時の先生ですと答えた。嘘ではない。他の魅力あると言ってくれた登場人物も母校の先生達をモデルにしている。

「続きを書きましょう!長屋だから住人の入替えも当然あるので、シリーズ化も狙えますよ!後々この差配の過去編とかやったら受けがいいかもしれないですね。欲しい資料とかあります?何でも言ってくださいよ」
「あ、じゃあ忍者についての資料いいですか?この人は元御庭番ってのはなんとなく決めてて」
「なるほど、面白そうですね!すぐ用意しますね!」

準備期間を置いてから連載として月刊誌に枠を作ってくれることになった。杏寿郎さんは自分のことのように喜んでくれ、私も嬉しかった。
しかし、連載をするに辺り日に日に増える文献やら資料に部屋が手狭になってきた。これからも資料は増え続けるだろう。どうにかしなければいけない。

「引っ越そうかなぁ…」

杏寿郎さんと本棚の整理をしている時に思い立った。ポツリと呟いた言葉だが、杏寿郎さんは聞き逃さなかったようです素早く反応した。

「そうか!ならいい物件があるぞ!」
「え、本当ですか?どんな所ですか?」
「日本家屋の戸建てだ!庭園があって蔵もある」
「えー!そんな素敵は所、絶対に家賃が高いからムリですよ」
「心配ない!タダだ!正確には光熱費だけ払えばいい」
「そんな美味しい物件あるんですか?」
「ある!俺の家だ」
「……はい?」

家って、あの杏寿郎さんの大きな家のこと?そりゃあ確かに素晴らしいまでの日本家屋で蔵もありましたけれど。けれども…!

「あの離れで2人で暮らすのはどうだろうか!お風呂はないがシャワーとミニキッチンならある!勿論家族の許可は取ってあるぞ!」
「えーっと、それって…」

つまり、同棲ってことですか?の質問は杏寿郎さんの大声に遮られた。

「俺と結婚しよう!」

結婚という言葉が脳内に木霊して固まる。
何度も何度も言おうと思ったが、邪魔が入り言えなかった。ようやく言えたと満足気な杏寿郎さんに向かって、ようやく捻り出した言葉は「私、料理そんなに出来ませんけども」だった。

「一緒に練習しよう!俺はさつま芋ご飯なら得意だ!」

その言葉に思わず笑みが溢れる。
この人と一緒なら、きっとどんな事も楽しく乗り越えられるだろう。
善は急げだと、新年度が始まる前に籍を入れて引っ越した。いわゆる敷地内同居だがうまくやれている。締切に追われた時は、瑠火さんがご飯を用意してくれるので大変にありがたい。

「それじゃあ行ってくる!」
「はい、行ってらっしゃいませ」

朝は、どんなに忙しくても杏寿郎さんを玄関まで見送っている。私がしたい事でもあるし、杏寿郎さんからの申し出にもよる。
見送りの挨拶をしたが、杏寿郎さんは玄関を開けずにじっとこちらを見ている。

「どうしましたか?」
「いや、君が当たり前のようにいるのが嬉しくてな!」
「またそんな…恥ずかしげもなく…」
「本心だ!ところで…原稿はそろそろ一段落つきそうか?」
「そうですね、大まかな流れはできたので次話の目処は立ってます」
「そうか、それは良かった!ならば今日は何が何でも早く帰宅する!」

帰宅宣言にはぁと返せば、そっと私の両手を取り優しく握る。

「今晩はパソコンではなく、俺だけを見てくれ」
「ひぇっ……わ、わかりました」

唐突なお誘いで顔が真っ赤になる私に、ハハハ!と破顔して杏寿郎さんは仕事へと出掛けていった。

「心臓に悪い…」

ドキドキする胸を抑えながらも、何が何でも今日の分はきっちりと早くに終わらせねばと思うのだった。



20211003
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