黎明 前編




そろそろ良い頃合いかしらと、羽釜から木蓋を取ればむわりとした白い湯気とお米の匂いが顔を包む。それらが辺りに散れば、白くツヤツヤとしたお米が顔を出す。蒸らしの時間は十分なようだ。水でさっと濡らした杓文字でお米を解していくと、底からは良い塩梅のお焦げが出てきた。
今日もうまく炊けたとほくそ笑み、羽釜から飯櫃へとお米を移していると、何処かからパキンと弾ける音がした。
まさか、との思いを胸に慌てて庭に出ればやはりとも言うべきか、予想通りの人物がそこにいた。手に斧を持ち、背筋をピンと伸ばしたその人は、次の丸太に目標を定めて斧を持って大きく振り被った。

「実弥さん!」

私の怒声で振り返った彼は、見つかったかと苦笑いをしつつ斧を丸太に刺す。

「もう!薪割りは私がやりますって何度も言ってるじゃないですか」
「でもよォ、その細っこい腕じゃ全部終わる頃には夕方になってるぜェ?」
「これでも元隠でしたし、そこまでやわじゃありませんよ。実弥さんこそ、胸の傷口が開いたらどうするんですか!」

大人しくしていてくださいと、いかにも怒っていますと眉根を寄せているのに、当の本人である実弥さんは「へいへい」とどこ吹く風といったように笑っている。

ーー随分、柔らかく笑うようになられたな。

鬼殺隊の柱として夜毎鬼を屠る生活を送っていたあの頃とは違い、日を追うごとに表情が穏やかになっていく夫、不死川実弥を見てしみじみと思う。


私は元々鬼殺隊の隠として、風柱であったこの御方、不死川実弥の身の回りのお世話をする役目をしていたうちの一人だ。
上からの指示で風柱邸の世話係に任命された時は、厄年でもないのに何でと途方に暮れた。風柱邸になんて行きたくない。恋柱邸が良かったと半泣きになりながら到着した私に待っていたのは「風柱邸も思っていたより悪くはない。風柱様の機嫌が悪い時は地獄だけど」との先輩隠達の言葉だった。
果たしてその通りで、ご飯を作ったり邸宅の掃除など、やる事をやればきちんと評価をし決して理不尽に怒る事はない様子に、徐々に認識を改めていった。食事も残さずに食べてくださり、空いた時間は庭で一人稽古に励まれるので関わる時間も思っていたより少ない。それでも苛立った様子で任務から帰宅された時は、誰が風柱様に食事を出しに行くかで散々揉めたのだが。


そんな時にいつからか、邸宅によく姿を現すようになった猫がいた。猫特有のまん丸い瞳を細め、足元にすりすりと身を寄せてからゴロリとお腹を上にして地面に寝そべるその姿の愛らしいこと。すっかり猫に心を奪われてしまった私は、その猫が来る度に余り物をせっせと献上していたのだ。
その日も余り物を手に、猫お気に入りの昼寝場所へと向かった。いつもその場所でご飯を上げているので三度の飯時にはそこでゆったりと身を寛がせ、私の姿を見るなり「御苦労」というようににゃあと鳴くのだ。
だがその日は違った。一向に姿を見せぬ猫にもしやどこかで野垂れ死んだのか…いやいや、どこぞのお人に見染められて飼い猫になったやもしれぬと気を取り直した頃、にゃあにゃあと愛らしい猫の鳴き声が遠くから聞こえた。猫とは気紛れな生き物だと聞く。きっと今朝はそこが猫にとってのお気に入りの場所になったのだろうと、声のする方へと足を進めた。邸宅の更に裏手、風呂釜に薪を焚べる用にと備え付けられた薪小屋に近付くにつれにゃあと甘えるような声が大きくなる。

「ここにいたんだね〜。探した…よ」

猫ちゃんと続くはずの言葉は喉の奥底に引っ込んだ。何故ならばそこにいたのは猫だけではなかったからだ。風柱である不死川様もいたのだ。
私の時よりもふんだんにゴロゴロと喉を鳴らし、足元にじゃれつくようにごろごろと身を転がす猫を撫でておられた。私の声掛けにその手を止め、すっと立ち上がりこちらに体を向ける。

「おう。手間かけさせ悪かったなァ。で、用件はなんだ」

風柱様に用なんてあるわけがない。私が用があるのはそちらの猫なんです。などと言えるわけもなく、何か適当な案件はないだろうかと「ええっと、その」と時間を稼ぎながらも頭を回転させる。そうこうしているうちに、私の存在に気付いた猫がご飯を寄越せと私の脛にゴツゴツと頭をぶつけて催促してくる。降り注ぐ痛い視線に脚に受ける頭突きと、上も下も忙しくて汗がダラダラと吹き出る。

「フッ…からかって悪かったな。おら、メシだってよ」
「へ?」
「コイツのために持ってきたんだろ、それ。それともなんだ、本当に俺に用でもあんのかァ?」
「あっ、ち、違います!猫に用です!」

ぴしりと背筋を伸ばし、あわあわとしてから猫に茶碗を差し出せば、待っていましたといわんばかりにガツガツと食べだす。
どうやら不死川様もこの猫の存在を前から知っていたようで、たまに何かしらを与えていたらしい。

「野良猫のくせにふくよかな体型してんなァとは思っていたが、お前も餌やってたのか」 
「も、申し訳ありません。残り物や私のご飯から上げていますので、決してご迷惑はおかけしていませんので…」
「別にそんな事を気にしちゃあいねぇよ。それより自分の分はしっかり食っとけ」

小言を言われるかと思ったのだが、代わりに身体が資本なのだからしっかり食えとの言葉が掛けられた。猫を気に掛ける様子といい、やはり思っていたより怖い方ではないのかもしれない。勿論平素の時は、であるのだが。その後も猫にご飯を持っていけば不死川様がその場にいるというのが度々あった。
そんな猫が結んだ縁により、紆余曲折を経て風柱様とお付き合いすることになった。
周囲の人間からは「正気か?」「私の知ってる風柱様とあんたの付き合ってる風柱様って同一人物?」となかなかに失礼な事を言われたりもした。
不死川様は本当は優しい人なんですとあれこれ言いたくなったが、そんな様子を知っているのは私だけでありたいなんて独占欲がそれを邪魔する。
おはぎが好きでこっそりと召し上がっている事。それを食べる時に頬が膨らむ姿がとても可愛らしい事。膳の上げ下げをすれば「ありがとなァ」と微かに上がる口端と共に頭をポンと撫でる手がとても優しい事。
それらはみんな、私だけが知っていればいいのだ。不死川様から実弥さんと呼び名がすっかり変わった頃、最終決戦が起きた。


鬼舞辻無惨を倒した後、実弥さんはしばらくの間生死を彷徨った。臓器が零れ落ちぬのが不思議な程の傷を胸に負い、出血も大量であったのだから無理からぬ事だ。
蝶屋敷に寝泊まりし、有志の者で怪我人の方々の看護にあたりつつ毎日毎日実弥さんの見舞いに部屋に通った。意識を取り戻してからも、傷や極度の貧血により体がうまく動かせない様子ではあったが、それを支えるために触れれば温かく、生きておられる事を実感して涙腺が緩む事が何度あったことか。
日に日に快復へと向かっていき喜ぶ私とは裏腹に、実弥さんはどこかうらさみしい様子。唯一生き残っていた弟の玄弥君とのお別れのせいだろうと考えていた。

だがそれだけではなかったと知ったのは、最後の柱合会議が催されるとの伝令を受けた直後だ。実弥さんの口より語られたのは、痣による代価で己はあと数年の命。必要なら輝利哉様に頼んで良い縁談をまとめてくるから、先の短い俺になんて構うなとの別れ話であった。
明日をも知れぬ命であった時に手を出したのはそっちじゃないですか、なんで今更そんな事を言うんですか。貴方とじゃなければ私は幸せになんてなれませんと、数日間泣きに泣き続けて憔悴しきった頃、遂に実弥さんが折れた。詳細はわからぬが輝利哉様や宇髄様の口添えもあったようで、なんとか元の鞘に収まる事ができた。そうしてからは早く、すぐに祝言もあげ名実共に夫婦として暮らすようになって一週間弱。


未だ深く残る傷の包帯が取れぬ今、まずは完治してもらう事が優先だと率先して家事の全てをやっているのだが、実弥さんはこうして私の目を盗んでは薪割りやら水汲みやらをしてしまうのだ。

「もうだいぶ傷も塞がってるし、調子もいいんだがなァ」
「何を言ってるんですか、たまに引き攣れて痛むと言っていたのを私は忘れていませんよ」
「わぁーったわぁーった。大人しくしてるわ……そうだなァ、じゃあ夜の方も名前に上になって動いてもらうとするかねェ」
「なっ!なななな…」
「はっ、茹で蛸みたいになってらァ。今日の夕飯は蛸飯にでもするかい」

ニヤリとしたかと思えば楽しそうに笑う姿を見て、顔の熱がしゅるしゅると引き、本当に良く笑うようになられたと、しみじみ思う。
これがこの人本来の姿だったのかもしれないと思うと、鬼という存在は本当に様々なものをこの人から奪っていたのだと痛感する。

「そういや、そろそろ醤油も終わりそうだったよなァ。買い物がてら町に行って甘味でも食おうぜ」
「わぁ、いいですね!あ、朝餉の準備ができましたよ」
「ん。ありがとな」

柔らかな春の日差しが私達に降り注ぎ、時折冷たさが交じることはあれど、暖かい風が辺りの木々を揺らす。
季節はもうすっかり春だ。

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持参した瓶に醤油を満たしてもらってから店を出る。これくらいは持てると、私の手からするりと瓶を奪った実弥さんは、次はどこに行くと尋ねる。

「えーっと、あとはお野菜ですね。そこの通りを少し行った所に馴染みの八百屋があるんですが、いいですか?」
「わかった」

2人並んで昼間の町中を歩くなんて、鬼殺隊時代には滅多になかった事だ。実弥さんの召し物は鶯色の着流しで、対する私ももう隠の服ではない。こうしてニ人並び歩けば、やはり夫婦に見えるのかしらと内心浮き立つような心地でいた。
欲を言えば眼前を歩く若夫婦のように、手を繋いで歩いてみたいのだけどそれはなかなか言い出せないし恥ずかしい。実弥さんが知ったらもっと恥ずかしいもん見せ合ってくるせに何を今更言ってんだと言われそうだが、それはそれ。これはこれだ。
悶々とした想いを抱えていれば、隠時代に足繁く通った八百屋の店先に着いた。

「いらっしゃいませ!…って、名前さんじゃないですか。久しぶりですね。冬前から姿を見なくなってしまったので、何かあったのかと心配してましたよ」

にこにこと愛想の良い笑顔で迎えてくれたのは、この八百屋の息子さんだ。
風柱邸に隠として配属された頃より、ここは鮮度がいいから買い出しに行くならこの店にと、先輩隠から教えてもらって利用している。店主のオジさんは笑い皺が見事に刻まれた齢だが、その息子さんであるこの人は年が近いせいか何かと気に掛けては話しかけてくれる気さくな人だ。

「こんにちは。しばらくバタバタしてまして、なかなかこちらに来られませんでした。また利用させて頂きますので宜しくおねがいします」
「もちろんです!また名前さんが来てくださるのなら、私も嬉しい限りです。今日は何を買っていかれますか?」
「実はまだ決めていなくて…」
「それでしたらのらぼう菜はどうです?今が旬ですから栄養もたっぷりあって美味しいですし、幅広い調理法がありますよ。それから…」

買い出しに来る度、こうして隣に立ってあれやこれやと野菜について教えてくれるお陰で私もだいぶ野菜の知識がついた。いつものようにふむふむと聞いていると、突然右半身に衝撃が走る。

「なるほどなァ。そりゃ美味そうじゃねぇか。味噌汁も良いがお浸しもいいなァ」

突然実弥さんが右半身にピタリと身を寄せたかと思えば、そのまま私の左腰にするりと手を回す。

「えっと…この方は…?」
「あ、初めてですよね。この方は…「どうもォ、名前の夫です。いつも妻がお世話になっているようで」……えっと、はい、そうなんです」
「お、夫って…名前さん結婚されてたんですか?給仕として働いていると聞いていましたが……」
「実は、そこの方とつい最近祝言をあげたばかりでして」
「そういうことなんでェ。それで若旦那さんよォ、聞きてェんだが滋養強壮効果のあるモンはどれか教えてくれよ」
「か、かしこまりました…」

思えば鬼殺隊以外の人に実弥さんの事を夫と紹介するのは初めてだ。自分が実弥さんに妻と紹介される事も。「妻」という響きにうっとりとしながらも照れている私をよそに、実弥さんは野菜についての指南を受けている。時たま私に「そいつは旨そうだな。名前、作ってくれるかい?」などと話を投げかけるので「勿論です!実弥さんの為なら何でもしますよ」と答えれば、嬉しそうに笑うのだからこちらもますます笑顔になるというもの。

「あ、ありがとうございました…またのご利用をお待ちしています…」

どこか気落ちして覇気のない様子の息子さんの声を背に歩き出す。あれもこれもと実弥さんが買うものだから、籠がずしりと重くなってしまった。それを実弥さんが持ち、代わりに醤油瓶を渡される。

「お野菜をこんなに買ったのは初めてです」
「……悪かったよ。まぁ保存が効くのもあるけど、悪くならねぇうちに食っちまおうぜ」
「そうですね。今夜は腕によりをかけて作るので楽しみにしていてくださいね」
「ああ、楽しみにしてるわァ。あと、しばらく買い物には一人で行くなよな。行く時は俺も行くから声を掛けろ」
「何でですか?」

流石に腰に手を回したままだと歩きづらかったのか、数歩行った所で腰に回されていた手は離されてしまった。

ーーあ、さみしい

しょんもりと微かに眉を下げた時、「おら」と実弥さんが片手を差し出す。

「え、ダメですよ。醤油瓶くらいは私が持ちますからね」
「ちっげぇよ!手を出せってんだ」
「あ…!」

意図する事にようやく気付き、そっと右手を乗せれば優しく握り返される。

「限りある時間なんだ。少しでも一緒にいたいって思うのはダメかァ?」
「っ、全然ダメなんかじゃないです!嬉しい…」
「そうか…まぁ虫除けもしっかりやっとかねぇといけねぇしなァ…」
「え?何か言いましたか?」
「いや。それより甘味は何が食いたいんだ?」
「ええっと、そうですねぇ…」

あれも食べたいしこれも食べたいと悩む私の手を、しっかりと握った実弥さんは目を細めて私が決めるまでじっくりと待ってくれる。いつまでもこうしていたい。そう思える程に幸せだった。



20210904
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