正直になろ!



ーーあ、残り少ない

給湯スペースに立つ私は、ポットのお湯残量のメモリがだいぶ下まで来ていることに気付いた。給湯スペースといっても、職員室の一角にパーテーションで区切られただけで、備わっているのも手洗い場、冷蔵庫、電子レンジ、先生達や来客者用のマグカップやら茶器が入っている棚、そして電気ポットがあるだけの簡易な場所である。朝や昼休み時は混むものの、それ以外の時間は空いており、先生達を含め私も適宜利用している。

苦戦していた書類作成が一段落すれば、それまで忘れていた喉の渇きを思い出したので一息入れようと、給湯スペースを一瞥する。自分のデスクから給湯スペースは徒歩で5歩という近さで、着席したままでも給湯スペース全体を見渡す事ができるのだ。誰もいない事を確認してから、自分のデスクの引出からスティックコーヒーを取り出して席を立った。
そうして、自分のマグカップに粉末とお湯を注ぎ終えると、お湯の残量が少ない事に気付いたのである。

ーーお水足さなきゃなぁ

棚からやかんを取り出して、すぐそこの手洗い場から水を汲んでポットに入れる。そうすれば後は勝手に電気ポットが熱々のお湯を作ってくれる。たったそれだけの事なのだが、それをしない人が結構いる。自分がポットを使った後に残量を確認していないのだろう。自分が使おうとした時にはお湯がほとんど入っていない事が何回かあった。それどころか、突然の来客が来た時にお湯がなかった事もあった。あの時は慌てたっけな。
今から入れればお昼には十分間に合うだろう。時計をちらりと見たら「名字先生、外線です」と声を掛けられた。急ぎ自分のデスクに戻り電話を回して貰って応対していると、不死川先生がマグカップを手に給湯スペースに入っていくのが見えた。

「はい、はい...ええ、そうです」と口に出しながらも目線は不死川先生を追っている。『あー、不死川先生、今お湯あんまりないんですよー!いや、先生1人分くらいならあるかな?』と心の中で先生の背中に訴えかけつつ、先生が使えば確実にお湯がほぼ無くなるので空焚きになる前にお水を足さなければ。そう思っているとお湯を注ぎ終えたらしき不死川先生は、少し体を前に傾けたかと思うと、そのまま僅かに首を傾けた。

ーーなんだ?

突然の動きに驚いていると、元の姿勢に戻りおもむろに棚からやかんを取り出し水を注いでいく。そしてポットの蓋を開けて水を足していくではないか。
自分以外なら胡蝶先生が水を足す所を見た事があるが、男性では初めてだ。いや、もしかしたら気付かないでだけで他の先生もやっていたのかもしれないのだが。

そんな姿を見て以降、誰かが給湯スペースに行く度に、誰が水を足しているのかとついつい見てしまうようになった。結果、主に水を足すのは自分であるが、それ以外は胡蝶先生、不死川先生、そしてごく稀に悲鳴嶼先生の4人であった。中にはゴボゴボッとお湯が無くなる音がしたのに、水を足そうとせずに給湯スペースから去っていった先生までいたのには頭が痛くなった。
そんな場面を見たからだろうか。不死川先生の、使う度に必ずお湯の残量を確認する後ろ姿を見て「いいな」と思ったのだった。


不死川先生は同じ学園で働く数学教師で、私より2年先にこちらで働いている。下に妹や弟さんが6人おり、とても兄弟想いということで有名である。料理もするらしく、以前宇髄先生に飲みに行こうぜと誘われた時「今日はお袋も親父も遅いから実家に行って夕飯作らなきゃなんねェからパス」と断っていた時もあった。
料理が出来て兄弟とはいえ子供の面倒がしっかり見れて、気が利くなんて結婚相手としては最高の人ではないか。加えて外見も好みだ。切欠はどうであれ、仄かな恋心が芽生えるのは時間の問題だったのかもしれない。


そう思っていた矢先の事である。


職場の飲み会を、たまには違う店にしようということで「藤ノ屋」ではない居酒屋を利用した時のことだ。そこはテーブル席も勿論あるのだが、小上がりになっている座敷もあったため、我々はそこに案内をされた。特に仕切りらしい仕切りもなく、店内が見渡せる居酒屋である。
ある程度飲んで食べて多少お腹が満たされた所でさっさとお酌に回ってしまおうと私は席を立った。以前終盤にお酌に回ったところ、酔いに酔った人達になかなか離して貰えなくて、デザートを食べ損ねた事があったため、それ以降はまだ理性が多少残っているうちに回ってしまった方が良いと勉強したのだ。たとえ話が長くなっても、次の人が待ってますのでとやんわり切り上げれば角が立たない。

そうやってちゃんちゃんと周り続け、後お酌をしていないのは...不死川先生だけかと気付く。辺りを見回すも先生の姿は見えない。不死川先生の近くで飲んでいた胡蝶先生に聞くと「お手洗いに行ったわよ。お酌?心配しなくても座ってたら向こうから名字先生の所に来るから大丈夫よ〜」とにこやかに微笑まれたが、先輩に来させるのはどうかと思う。

お手洗いという言葉を聞いたせいか、自分も少しお手洗いに行きたくなってきたので、不死川先生もお手洗いに行っている今のうちに済ませてしまおうと、自分の靴を履いて標識を頼りに向かった。
人1人すれ違える程度の狭い通路を進めば左手側に扉が2つあり、手前が男子トイレ、奥が女子トイレである。その扉と扉の間の壁に1人の女性がもたれかかってスマホを弄っていた。
もしかして順番待ちだろうか。そう思ってその場に立ち止まると、私に気付いた女性はこちらを見て「空いてますよ」と言い、すぐに視線をスマホに戻した。綺麗な人だな。ここで電話をするのかな?そう思いつつ女性に軽く頭を下げてお手洗いの扉を開けた。

用を済ませ、手洗い場の鏡でマスカラが取れていないか、髪の毛は乱れていないか等を薄暗い照明の中確認し終えてお手洗いの扉を開ければ、目の前で広がっている光景にちょっとたじろいだ。
狭い通路に先程の女性と不死川先生がおり、不死川先生の進路を塞ぐように女性が立っているのだ。

「ねぇ、良いでしょう?」
「いや、さっきも言ったが職場の飲み会で来てるんで」
「そんなの抜ければいいじゃん。じゃあせめて連絡先教えてよ」
「それもちょっと...」

凄い。あんな綺麗な人に逆ナンされている。
女性が押せ押せで詰め寄るものの、不死川先生はそれを懸命に交わしていた。
「じゃあ私の連絡先渡すから...」
そこでこちらを向いていた女性が、ずっと立っていた私の存在に気が付き、何を見ているんだという目で睨みつけてきた。
女性の言葉が不自然に止まり、自分ではない方を向いている事に不審に思ったようで不死川先生がこちらを振り返った。私の姿を認めた瞬間、元々大きい眼を更に大きく見開きそのままこちらを見て固まってしまった。

ーーそうですよね、気まずいですよね。私も気まずいです。

ここでずっと立っているのもおかしいので、不死川先生達の方へと足を進め、声も掛けずにさっと横を通り過ぎた。横を通る時、申しわけ程度に頭を下げて通り過ぎた私の背中に、どちらかの視線が突き刺さっているような気がした。

ーー邪魔な女だと思われただろうか。
ーー誰に?

もやもやとした気持ちを抱えつつ、自分の元の席に戻り飲みかけのお酒をぐいぐいと飲み干せば、不死川先生も直ぐに戻ってきた。不死川先生に声を掛けていた女性も、元々近くのテーブル席に座っていたらしく、友人らしき女性達に迎えられて座る姿を自分の席から確認できた。恐らく不死川先生が1人になる瞬間を虎視眈々と狙っていたのだろう。
連絡先は交換したのだろうか。これが職場の飲み会でなければ2人で消えたのだろうか。
結局その日は、私が不死川先生の所にお酌に行くことも、逆に来てくれる事もなかったのだった。


つまり不死川先生はモテるのだ。
別の時にも二次会の店に向かう途中で、宇髄先生と共に歩いている不死川先生が2人組の女性に声を掛けられていた事が何回かあった。最も、その時も乗り気な宇髄先生とは正反対に「俺は行かねェ」と誘いを一刀両断していたのだが。
このように、もし彼と付き合えたとしてもそういった女性の影に常に悩まされる事になる。そんなのはごめんだ。まぁ、根がオタクな私と、その対極にいるような不死川先生が付き合うなんて事はないのだろうが。

『いいな』という想いは先頭に「同僚として」というシールを貼り付けて『同僚としていいな』という思いに書き換えたのだった。

自分の想いを自覚し、即座に封印してから約1年。そうやって同僚として適正だと思われる距離感で接していたのだが、映画に誘われた時からそれが少しずつ変わってきたように思う。

元々ラブホ女子会の時の友人と行く予定だったのだが、何故か急に仕事が忙しくなってムリそうだと言い出されて困っていた。他の友人に当たってみるも、ちょっと...と濁されてしまう。特典目当てで買ったこの前売り券はどうすれば?消化に付き合ってくれると言うので買ったのにと恨みがましく思っていると「職場の先生誘ったら?不死川先生とか。あ、間違っても宇髄先生は誘わないでね。私狙ってるから!」との友人の言葉に口があんぐり開いた。

あの場にいた先生なら煉獄先生もいたのに、何故よりによって不死川先生なんだ。アニメとか見るようなタイプじゃないだろう。むしろ表立って口に出さないが、そういうのを冷めた目で見ていそうなタイプだと勝手な偏見を持っている。
仕方がない。1人で2回観に行くかと思い始めていたので、不死川先生に誘われた時はとても驚いたが渡りに船だと思った。興味が無さそうだと思っていたが、国民的アニメともなるとやはり気になるのだろうか。
そう思っていたのだが、当日映画前の食事時に意外とアニメや特撮に詳しい事が判明した。しかも私と不死川先生の一番好きな特撮が同じという事で、ぐっと親近感が湧いた。
1年前の「いいな」という想いが頭の中を再度チラつき始めたが、不死川先生と私では釣り合わないのだから冷静になれとすぐに蓋をした。その後も映画やイルミネーションに誘われる度に、これは身近な特撮仲間として誘ってくれているのであって、勘違いをするなと必死に言い聞かせていた。


だがそんな想いが瓦解したのは、公園で元カレに絡まれた時だ。自分のために真剣に怒るその姿を見ているうちに、いいようのない感情が溢れてきてもうダメだった。
そして、私は不死川先生の事をちゃんと知りもしないのに、私による一方的な価値観を押しつけていたのだと気付いた。
不死川先生をオタクを嫌悪していそうなタイプだとか、言い寄られたら浮気しちゃいそうな人だとか決めつけている自分は、オタクなんてと偏見を持っていた元カレと一緒ではないだろうかと自分自身に嫌悪感を感じ、猛烈に恥ずかしくなった。


こうして「同僚として」という言葉は一生剥がれることがないように思われたのだが、粘着部分は私が気付かぬうちに途轍もない速度で経年劣化を起こしていたようで、呆気なく剥がれて風に舞って消えてしまった。それを追いかける気も新たに貼り直す気も起きない。

いいだろうか。
このまま不死川先生を好きになっても。
例え自分の想いを伝えて振られたとしても、相手が不死川先生なら後悔はしないだろう。そうなれば、もうこれからは自分の気持ちに素直になろうと決めたのだった。


自分に対して気まずそうに、申し訳無さそうにする不死川先生に気を使わせないためにもと、帰りの車中で1人ベラベラと喋っていると、いつも誘ってもらってばかりだという事に気付いた。私から誘っても迷惑ではないだろうか。散々悩んだ末、車から降りる直前に意を決して「今度は私から誘ってもいいですか?」と聞けば幸いにも快諾してくれた。
嬉しい気分のまま別れ、自宅に入ってから直ぐにお礼のメッセージを送った。不死川先生は律儀なのでやはりすぐにそれに返事をしてくれる。いつもはここで終わらせてしまうのだが、自分の気持ちに正直になろうと決めた今は、とにかく接点が欲しいと思ったので更にメッセージを送った。

帰省した時も不死川先生に何か買って帰りたいなと悩みに悩み、一緒にわさび農園に行った友達にも相談し、酒飲みならおつまみが無難ではというアドバイスを元に色々と買ってみた。
出勤してからは渡す機会を終始伺っていたのだが、初日は無理だった。翌日もどこかで渡せないかと思っていると、運良く教室に行くと言い置いて1人出て行ったので私も慌てて適当な離席理由を告げて後を追う。
迷惑がられませんようにと緊張しながらお土産を渡せば、私の緊張を消し去る位不死川先生は喜んでくれた。更に嬉しい事に不死川先生から雑談を振ってくれたので、2人だけで話すことも出来た。宇髄先生が来て不死川先生を呼び出したので長くはなかったが、それでも楽しい一時だった。職員室に行くため教室から出て行く不死川先生の背中を見送っていれば、何やら隣から視線を感じる。宇髄先生だ。

「どうかしましたか?」
「いやぁ...春がちけぇなぁと思ってよ」

口角を上げてこちらを見る宇髄先生に一抹の不安を覚えた。今は夏で春から一番遠いのだが...もしかして暑さで少し参っているのかもしれない。今年も酷暑だったから無理もない。

「おい、暑さでおかしくなっちゃったんですねって顔すんのはやめろ。傷つくだろ」



20210522


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