きっとそよ風が揺らすの(現パロ)
※軽いイジメのような描写があります。苦手な方はご注意ください。


あの日もこんな暑い日だった。

交通安全教室だったか、ただの学年集会だったか。小学生の頃の出来事なので、今となってはそこら辺の記憶は曖昧だ。
夏休み前の暑い夏の日。学年全体で体育館に集まって何かの話を聞いていたのは確かだ。
体育館にエアコンなんて物は勿論ない。せめて風通しが良いようにと、外に面した四箇所の扉が大きく開け放たれていた。端に座っていた生徒には涼風が届いたのかもしれないが、男女の境目である丁度真ん中付近に座っていた私には、涼風の恩恵に預かれなかった。

(気持ち悪い……)

寝苦しさで昨晩よく眠れなかったせいだろうか。その日は朝からどことなく調子が悪かった。それでも五時間目の今まではどうにかこうにか過ごしてこれた。
しかし、寝不足に加えて、慣れない体育館の暑さの中でひたすら話を聞く疲労により、私の体調不良もピークに達しようとしていた。

(むねが、くるしい……)

我慢の限界を超えた私は、遂にその場で嘔吐してしまった。短く上がる悲鳴。うわっ汚ねっ。臭ぇ。瞬時に私の周囲から人が離れ、好き勝手に言い出す。しょうがないじゃないか。私だって好きで吐いたわけじゃない。
出してしまった事で僅かにスッキリしたが、まだ喉の奥に酸っぱい物が詰まっていて喉が焼けつく感じがする。反射的な物か、皆の前で戻してしまった事による恥ずかしさか、その両方か。じわりと目尻に涙が溜まる。
離れた場所に座っていた仲の良い子が駆け寄り、大丈夫かと背中を擦ってくれなければ、いよいよ泣き出していたかもしれない。
先生をはじめクラスメイト達が吐瀉物の後始末をするのを尻目に、友達に連れられて保健室へと向かった。

翌日からは地獄だった。

クラスのお調子者の男子が、これみよがしに「オエー」と昨日の私の真似をする。「なんか酸っぱい匂いがすんなぁ」と鼻を摘まんでニヤニヤしながら私を見る。周囲の男子は馬鹿笑いをしているが、それを見ている女子の目は冷ややかであり、「馬鹿じゃないの」と嫌悪を露わにしていたのは救いだった。それでも屈辱的である事には変わりないのだが。
学校と家庭が世界の全てである、当時の小学生の私にとって、男子達の行動は耐えきれなかった。学校に行きたくない。そう思うも半ば無理矢理に母親に送り出され、重い足取りで学校に向かう。そんな日が三、四日続いただろうか。いつものようにからかわれ、友達が言い返してくれたが、当時の私ときたら情けない事に拳を握って俯くだけ。その時だ。
ガタンッと何かが当たる音がした。先程までの喧騒が嘘のように静まり返り、皆が見つめる音の出処へと私も視線を向ける。
クラスメイトの不死川実弥君が、椅子に座ったまま机を蹴飛ばしたのだろう。不死川君の机と前の席の机がくっついて傾いていた。
「……いちいちうるせぇなァ。誰だって吐くことはあるんだ。いつまでからかってんだ。ダッセェ」
ギロリと睨まれたお調子者とその仲間たちは、気まずそうに視線を逸らす。フンと鼻を鳴らした不死川君は、立ち上がって机を自分の方へと引き戻したかと思うと、読みかけの本を
読み始めた。
その一喝が効いたのだろう。それ以降からかわれる事はなくなった。不死川君にお礼を言おう言おうと思ってはいたが、普段話すこともなかったため、なかなか言い出せずに夏休みに入ってしまった。更に私の家庭の事情で、新学期に入り間もなく地方への引っ越しを余儀なくされてしまったのだ。

当時のような蒸し暑さにより記憶の蓋が開き、満員電車の中で回顧して小さな笑みが浮かぶ。
あの時の私は、どうしようもなく引っ込み思案だった。結果、不死川君にお礼を言う機会は永遠に失われてしまった。
東京の大学に進学し、そのままこちらで就職。社会の荒波にある程度揉まれた私は、幼少期に比べてそこそこには図太くなった。今ならすぐ彼にお礼を言えるのに、なんて意味のない事を思い小さく息を吐く。過去を思い出して気を紛らわせようとしたが、やはりどうにもダメなようだ。
梅雨を通り越して急激に始まった酷暑により、ここ数日体調が優れない。仕事の疲労が蓄積されているせいもあるのだろうか。
息苦しさと動悸が回顧前より酷くなってきた気がする。目的の駅まではあと少しだと己を奮い立たせ、吊り革をギュッと握ること数分。巨大な箱からようやく脱出する事ができた。
あとは自分の足で職場に向かわねばならない。体に鞭打って歩みを進めるが、電車の中とは違いホームに漂う蒸し暑さが、目眩まで引き起こし始めた。咄嗟に壁に手をつき、ふらつく体を支える。ドクドクと尋常ではない鼓動を鎮めようとしていると、背後から声を掛けられた。

「大丈夫ですか?」
「あ、はい……ちょっと……」
「すぐそこにベンチがあります。少し座った方がいいかと。動けますか?」

促されて眼の前にあるベンチへのろのろと移動する。口元を抑え、俯いて深呼吸をして気持ちを落ち着けていると、側にあった革靴が離れていくのが見えた。朝の通勤ラッシュの時間だ。仕事に行ったのだろう。見てみぬふりをする人が多い昨今、声を掛けてベンチへと誘導してくれただけでもありがたい事だ。ただ、お礼を言いそびれてしまったな。ふぅと小さく息を吐き、バンプスの爪先を眺めていると、遮るように「どうぞ」とスポドリが差し出された。
弾かれたように顔を見上げると、おそらく先程の男性であろう人物が気遣わしげにこちらを見ている。その顔を見て、私の時が止まった。
「不死川……君……」
驚きのあまりその名を口にする。あの頃より全体的に逞しくなってはいるものの、面影はしっかりと残っている。間違いはないだろう。こんな偶然があるのか。
「えっと……すみません。どこかで会いましたっけ」
驚愕で震える私とは違い、彼は申し訳なさを含みつつも怪訝そうな顔をしている。そりゃそうか。小学生の時の僅か数年、しかも禄に話したこともない元クラスメイトである私の事なんて、覚えていないのも無理はないだろう。私と不死川君の接点を説明すれば、朧気ながらも思い出してくれたようだ。
こんな偶然もあるんだねと笑いあった時、ふと思い出す。今が通勤ラッシュの時間なのだと。
「ごめん!不死川君スーツ姿だし、これから仕事だよね!?引き止めちゃってごめんね。時間、間に合うかな?」
「ああ、時間は大丈夫だ。今は夏休み中だしな」
聞けばこの駅の近くにある学園の教師をしているそうだ。凄いなぁと感嘆の眼差しを向ければ、少し照れくさそうに不死川君が笑う。
「そうだ。首筋にこれ充てとけよ。少し気が楽になると思うぜ」
通勤鞄とは別に持っていた弁当袋から保冷剤を取り出し、ハンカチで包んで手渡してくる。いいのかなと一瞬迷うが、ありがたく手に取って首筋に充てれば体の火照りが少し鎮まるようだ。

「気持ちいい……」
「そりゃ良かった。もう少し休んで、ダメなら無理せず帰ったほうがいいんじゃねぇの」
「そうだね、そうするよ。……不死川君、本当にありがとう」

そろそろ行くという不死川君に保冷剤を返そうとするも、固辞された。一人残ったベンチで座っていると、先程より心做しかぬるい風が肌を撫でる。保冷剤が包んである折り目正しいハンカチを見て、不死川君が変わらずに優しい人で良かったと、何故か涙がこみ上げてきた。



20210703


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