Crime and Punishment keitai | ナノ




荊にくちづけを

 人々からの供物も祈りもまともに捧げられなくなって久しい廃墟に近い教会は、それゆえの不思議な聖性と静謐に充ちている、とオミは思う。
 ステンドグラスを透過した光が、埃をキラキラと反射させながら、教会内を淡く照らしていた。祭壇の中央にある十字架に磔にされたイエス・キリスト像は、その光を受けてもなお憂いを帯びた表情で、こちらを見下ろしている。
「、」
 SIGザウアーP220。
 瞳を閉じて、この世界に別れを告げる。
 そっと銃口をこめかみに当てた瞬間、背後でキィと重々しい音を立てて扉が開いた。誰かひとが入ってくる気配。次いで、ほんのかすかな息を呑む音。
「……死にたいの?」
 静かな問いかけに、オミは銃口を離して、ゆっくりと振り返った。
「止めてくれるの、リニット?」
 場に似合わない明るい声で言いながら、オミは笑顔を作る。カナエは無表情のまま、あっさりと首を横に振った。
「いや。でも、教会で死ぬのはできれば避けて欲しいかな」
「ふうん……冷たいんだね、リニット」
「ここは祈るための場所だから」
 カナエは硬質な声で、咎めるように言う。
 そういえばここは昔からカナエのお気に入りの場所だった。ナイツオブラウンドにいたときから、クリスチャンであるカナエが神に祈るためにこのスラムの教会をよく訪れていたことを、オミは思い出す。
「ああ、だから俺も祈ってたんだよ。これは俺なりの祈りの形だ」
 オミの言葉に、カナエはぴくりと片眉を上げた。
「そんな物騒なものをこめかみに当てておいて?」
「俺の拳銃はリニットのロザリオと同じようなものなんだから、べつに不自然じゃないだろ?」
 カナエは訝しげにわずかに眉をひそめる。
「……どういう意味?」
 そのまましばらく待ったが、オミに詳しく説明する気はないようだった。ひとつ溜め息を吐いたあと、カナエは質問を変える。
「じゃあ、さっきなにを祈っていたの?」
 それでもやはり、オミはなにも答えない。
 カナエはまたひとつ溜め息を落とすと、ふと視線を上げて、オミの背後にある像を見た。人間の罪を贖うために十字架に磔にされた神の子イエス・キリスト。
「……」
 母親の形見のロザリオに触れると、カナエは起立したまま、静かに神に祈りを捧げる。いつもとおなじように。ゆっくりと瞳を開けると、自分のことを見つめていたオミと視線が合った。その虚ろな目の色に、カナエは一瞬言葉を失う。
「オミ……?」
 カナエが呼びかけると、オミはふと我に返ったような表情になり、すっとカナエから視線を逸らした。少しの沈黙のあと、やがて、ぽつりと問いを零す。
「……リニットにとって、祈りってどういうものなの?」
「え?」
「神に赦しを乞うもの? でも、赦しなんか乞うたって犯した罪が消えるわけじゃないよね。じゃあ一体なんのために祈るの?」
「……赦して欲しいわけじゃないよ」
 カナエは静かな声で答える。
「俺だって、祈ることで罪が消えるなんて思っていないし、赦されるはずがないってことは分かってるから……」
「じゃあ、一体なんのために祈るの?」
「……」
「リニット、さっき俺になにを祈っていたかって訊いたよね? だけど、本当は俺に祈るようなことなんてありはしないんだ。……祈る資格なんて俺にはない。赦されることなんてあるわけがないし、赦されていいはずもない」
 言いながら、オミはもう一度、銃口を自身のこめかみに当てる。
「あの横領事件のあと、両親が死んで、国を恨んで感情に任せてテロリストになって、多くの人間を巻き込んで殺して……それで結局俺になにができた? 世の中のなにが変わった? なにも変わっちゃいない。……単にヒサヤを喪っただけだ。そう考えると、死んだほうがマシなんじゃないかって思ったよ、たしかにね」
「……」
 カナエは無言のまま、オミをじっと見つめている。
「……まあ、だからってべつに死ぬつもりはなかったけどね」
 オミはふっと唇を歪めて自嘲気味に笑うと、ゆっくりと銃を持つ手を下げた。
「リニットは、フィッシュの所有物だったんだよね?」
 銃を懐に仕舞いながら、オミはあまり抑揚のない声で訊ねる。
「……うん」
 質問の意図が分からないまま、カナエは頷いた。
「じゃあリニットはさ、もしフィッシュから死ねって言われたら死んでたの?」
「、」
 カナエは不快げに眉を顰める。それを意に介することなく、オミはわずかに焦れたような口調で続けた。
「だって、所有物ってそういうことなんじゃないの? 所有者が好きなようにしていいってことでしょ? リニットはフィッシュのためなら死ねたの?」
「……」
「ねえ、どうなのリニット?」
 執拗にリニットと呼び掛けてくることで、彼の苛立ちが分かった。普段から人を食ったような態度で他人に接することが多いオミだが、実際には印象よりもはるかに他人に気を遣うし、カナエをわざわざ過去のコードネームで呼ぶような真似をすることは、いつもならば絶対にない。理由は分からないが、他人を傷つけることでわざと自分を傷つけようとしているのだと思えた。
「……正直、よく分からない」
 すこしの沈黙の後、カナエはぽつりと答えた。
「俺は昔から汚いことばかりしてきて、死んだほうがマシだって何度も思ったけど、それでも死ねなかった……。浅ましいくらい生に執着してたんだね、きっと。だから、いくらアマネの命令だったとしても、死ねって言われて死ねたかどうかは、正直言って自分でも分からない」
「……」
「俺は結局、最後までアマネの所有物のままではいられなかったけど、でも……もしかしてアマネから死ねって言われて死ねるようだったら、それはそれで幸せだったのかもしれないって……そう思うことはあるよ」
 カナエの言葉に、オミは少し苦々しげな表情で眉を寄せる。
「それは、フィッシュの所有物のままでいたかったってこと?」
 カナエは瞳を伏せると、ゆっくりと首を横に振る。
「……そういうわけじゃない。ただ、そういう形の幸せもあったのかもしれないって思うだけだよ」
「それは幸せなの?」
 わずかに苛立った口調でオミは訊ねた。カナエは静かに首肯する。
「……だと、俺は思う」
「じゃあ、それができなかったのはタマキのせい?」
 重ねられた問いに、カナエは今度は首を横に振った。
「ううん、タマキ君のおかげだよ」
 わずかに口角を上げて、薄く笑みの形を作る。オミにはその笑顔が、ひどく穏やかなようにも、単になにかを諦めているようにも見えた。
「もしタマキがいなかったら、フィッシュの所有物のままで構わなかったってこと? それで幸せだったって? ……よく意味が分からないんだけど」
 オミはそう言って嘆息する。カナエは困ったような笑みを浮かべた。
「……そうだね。俺にも上手く説明できないから」 
「誰かの所有物でいて幸せだなんて、俺にはまったく理解できない。死ねって言われて死んでもそれで構わないだなんて……」
「……」
「だって、誰かに死ねって言ってそれで相手が死ぬなんて、殺しても構わないだなんて……そんな権利誰にもあるわけないだろう?」
「うん、オミの言う通りだよ。他人をじぶんの所有物にするなんてことは、たぶん間違ってる。けっして正しいことではないだろうって、俺も思う」
 カナエは静かな声で言う。
「……でも、正しいことが幸せなことだとは限らないから」
 言い終わると、カナエは瞳を伏せてそっと笑った。幸せそうな不幸せそうな、ひどく複雑な微笑みだった。
 わずかに迷うような素振りを見せたあと、オミはゆっくりと訊ねた。
「リニ……、カナエはアマネのことをどう思ってたの?」
 カナエは驚いたように、パチパチと何度か瞬きをした。
「それ、タマキ君からも訊かれたことがあるな」
 カナエは考え込むように唇に人差し指を当てると、やがて、自身の考えをまとめるように、ぽつぽつと言葉を紡ぎ出した。
「……そのときは、たぶん尊敬してるって答えた。タマキ君からアマネが好きなのかって訊かれたけど、正直よく分からなかったんだよね。アマネに対する気持ちは、家族やレイを想うようなものとも、タマキ君に対するものとも全然違ったから。でも……いまならきっと、もっと違う答えを出すと思う」
「どんな?」
 オミは続きを促す。カナエは儚げな微笑とともに、はっきりと口にした。
「たぶん……アマネを愛してた」
 オミはわずかに瞠目する。
 少しの沈黙のあと、まるでオミとおなじ痛みを分け合っているかのような奇妙に優しい表情で、カナエは静かに続けた。
「……俺とアマネの関係と、君とフライの関係は、もしかしたら少し似ていたのかもしれないね」
「……」
 ああ、そうなのかもしれない、とオミは思った。だからたぶん自分はカナエに訊きたかったのだ。カナエがアマネのことを一体どう思っていたのかを。
「……愛してたって……アマネに命令されて、本当は望んでもないことをやらされたりしたんだろ? カナエはアマネのことが憎くはないのか?」
「憎い? どうして?」
 オミの問い掛けに、カナエは不思議そうに首を傾げる。
「正直、そういうふうに思ったことはないな。アマネを恐ろしいと思うことは何度もあったよ。でも……恨んだり憎んだりっていうのとは、ちょっと違うから」
 一旦言葉を切ったあと、カナエはふと思い付いて訊ねた。
「オミは、アマネのことが憎い?」
「憎いよ」
 オミは即答する。
「ヒサヤを殺されたんだから、そりゃ憎いに決まってる」
「……そうだね」
 カナエは痛ましさと申し訳なさが混じったような複雑な眼差しをオミに向ける。その視線を避けるように俯いてから、オミは低い声で続けた。
「でも……アマネよりも自分のほうがもっと憎い。アマネと組もうと思ったのは俺だし、ナイツオブラウンドのリーダーとして、アマネと肩を並べているつもりでいた。そんな自分の認識の甘さに腹が立つ……」
 オミはぎゅっと強く唇を噛みしめると、苦しげな声で言葉を継いだ。
「……ヒサヤをあんな風に死なせてしまったのは、俺の責任だ……」
「オミ……」
 沈黙が、重々しく響いた。
 カナエはふと、オミの背後にあるイエス・キリスト像を見上げた。憂いを帯びたその表情は、地上の罪深い人間に対して向けられている。
 ああ、神はいま彼の懺悔を聞いているのだ、とカナエは思った。
 赦されることはないと、赦されるはずがないと自分を責めている彼の告白を。
「でも、それでもフライは……ヒサヤは、きっと幸せだったんだと俺は思うよ」
 カナエはぽつりと呟く。オミは弾かれたように顔を上げた。
「たぶんヒサヤは君のためなら死んでも構わなかった。……オミはそう思ってなかったかもしれないけど、彼はきっと、君の所有物になりたかったんだと思う」
「そんなわけないじゃないか……!!」
 声を荒らげて言葉を遮ると、オミはカナエを睨み付けた。
「俺はおまえやアマネとは違って、ヒサヤを所有していたわけじゃない!! ヒサヤは俺の持ち物なんかじゃない!! ヒサヤは俺の乳兄弟で、家族同様の存在で……いや、家族だったんだ。両親が死んで妹も目を覚まさないなか、ヒサヤが……ヒサヤだけが、俺のたったひとりの家族だったんだ……っ」
 オミは言い終えると、項垂れ、怒りに細かく震える唇をきつく噛みしめた。
「……そうだね」
 カナエはオミを見つめながら、そっと呟く。
「でも、誰かの所有物になりたいっていうのも、たぶんひとつの愛の形なんだよ」
「……」
 オミはふと顔を上げると、物言いたげな視線をカナエに向けた。
「……本当に誰かの所有物でいることもひとつの愛の形で……それが幸せだって言うのか……?」
 オミは震える唇で言葉を紡ぐと、カナエをきっと睨み付けた。
「じゃあカナエ……どうしておまえは生きてるんだ!?」
「え……?」
「愛する者を……アマネを自分の手で殺して……それで、おまえはどうして生きていこうと思えるんだ……!?」
「……っ」
 オミの言葉は、鋭くカナエの心を刺した。
 カナエは一瞬痛みを堪えるような表情になると、一度ぎゅっと瞳を閉じて、世界を遮断してから、ゆっくりと目蓋を持ち上げた。
「タマキ君が……いたから……」
 いまにも泣き出しそうな儚い笑みを浮かべながら、カナエは言う。
「タマキ君が赦してくれるって言ってくれたから……だから俺は生きるよ。俺のしてきたことは決して正しいことじゃないし、決して赦されることじゃないけど……だけど、それでもタマキ君が俺の過ちを赦すって言ってくれたから……」
「……」
 カナエは無意識に、胸元のロザリオを握り締めている。母親の形見だという、ロザリオ。オミは自身も一度懐の愛銃に指先で触れてから、そう、と頷いた。
「……俺たちみたいなのは、なにか理由がないと、なかなか生きてけないよね」
 まるで独り言のようにオミはぽつりと言う。その声の響きが、先程までとは違うひどく優しいものだったので、カナエは怪訝そうに眉を寄せた。
「オミ……?」
「俺もヒサヤに自分の分まで生きて欲しいって言われたから、簡単に死ぬわけにはいかないんだよね……」
 オミはふっと自嘲と諦めが混じった笑みを漏らすと、
「さて、そろそろバンプアップに戻ろうかな」
 そうひとりごちて、やおら出口に向かって歩き始めた。カナエのいるところまで来ると、一度立ち止まって、
「……さっきは怒鳴って悪かったよ」
 と、小声で謝罪する。カナエはちいさく首を横に振り、そのまま教会を出て行くオミの姿勢の良い後ろ姿を見送った。

 ひとりになった教会で、カナエは改めてイエス・キリスト像を見上げる。
 荊の冠を被せられ、十字架に磔にされ処刑された神の子、イエス・キリスト。
 聖書によると、キリストの罪はユダヤの王を名乗ったという反逆罪だった。荊の冠は、キリストに対する蔑みと侮辱の印だ。「おまえが王ならこれをくれてやる」と載せられた冠。キリストの額を裂き、血の涙を流させた、鋭い棘の冠。
「……」
 カナエはふと、きっと自分の頭にも、荊の冠が載せられているのだろうと思った。決して致命傷に至らせるようなものではない、けれども常に自分の頭を痛めつけ、血を流させる荊の冠。これまでに犯してきた多くの罪は、きっとこれから一生消えることなく、カナエの頭を苛み続けるのだろう。
「……」
 そうしてきっと、オミの頭にも自分とおなじように荊の冠が載せられている。彼は自分が王を名乗ったことを恥じることなく、自ら進んで荊の冠を頭上に戴き続けるのだろうと、カナエは思った。決してその冠を捨てようなどと考えることはなく、ときには自分からその荊にくちづけ、傷付くような、誠実な生き方で。

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第3回BLove小説・漫画コンテスト結果発表!
テーマ「人外ファンタジー」
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