Crime and Punishment | ナノ

Forgive me not


 ――私はあなたの御霊から離れて、どこへ行けましょう。私はあなたの御前を離れて、どこへ逃れましょう。

                                 (詩篇139:7)


 キィと重々しい音を立てて、背後の扉が開いた。
「   」
 途端に吹き込んできた冷たい外気が、まるで時が止まっているかのように沈滞していた教会内の埃っぽい空気を動かした。いつから祭壇の上に置かれているのかも分からない、開かれたままの古びた聖書のページが、風にパラパラと捲られる。次いで、ゲホゲホと咳き込む、聞き覚えのある声。
「カゲミツ君……?」
 振り返ったカナエは、わずかに驚いたようにパチパチと数度まばたきをした。
「どうしてここに……?」
 カゲミツはまだ苦しげに咳き込んでいる。きっと元々育ちが良いから気管支が繊細なのだろうな、と考えながらカナエが眺めていると、ギロリと視線を上げたカゲミツが、苛立たしげな様子で口を開いた。
「……てめぇ、なに笑ってんだよ?」
「え? 俺、笑ってた?」
 カナエはキョトンとして訊き返す。カゲミツはふんと鼻を鳴らした。
「どうせ、お坊っちゃん育ちだから埃に弱いとか思ってんだろ?」
「そんなことは……思ってなくもないけど……」
「やっぱ思ってんじゃねぇかよ!!」
 忌々しそうに舌打ちをしたあと、まだ咽喉がいがらっぽいのか、カゲミツは口元に手を当てながら、斜め下を向いて数度咳払いをした。
 ステンドグラスを透過した淡い幻想的な色合いの光が、金色の髪の毛をやわらかく照らしている。カゲミツの繊細な気管支をを悩ませている埃は、しかし光に反射してキラキラと輝きながら舞い、彼の輪郭をうつくしく縁どっている。その様子を眺めながら、カナエはまるで宗教絵画の天使や聖人のようだと思った。
「……口さえ悪くなければいいのに」
「あん?」
「ううん、なんでもないよ。ただ、今日は教会に珍しい人がよく来る日だなって思っただけ」
 カナエは取り繕うような笑みを浮かべる。なにか突っ込まれるかと思ったが、カゲミツはべつのことが引っ掛かったようだった。
「……って、俺の他にも誰かここに来たのかよ?」
「うん。さっきオミがね」
「オミ……ここに来てたのか……」
 呟いて、カゲミツは考え込むようにぎゅっと眉間にシワを寄せる。カナエは不思議そうに首を傾げた。
「カゲミツ君、もしかしてオミのことを探してたの?」
「いや……べつに探してたってほどでもねえけどよ……」
 まるで言い訳するかのように小声でぼそぼそと言ったあと、考え込むように少しのあいだ沈黙する。その後、カゲミツはふと改まった口調で訊ねた。
「――あいつ、何しに教会なんか来てたんだ?」
 さあ……と呟いて、カナエはゆるく首を傾げる。
「それは俺も知らないけど……。でも、なにか考え事してたみたいだよ。そういえば、俺が教会に来たとき拳銃をこめかみに当ててたな……」
 カナエは右手で拳銃の形を作るとそっとその銃口を自身のこめかみに当てた。
「ちょうど、こんなふうにね」
「なっ……」
 カゲミツは驚いたような表情でカナエを見る。
「……まあ、オミもべつに死ぬつもりだったわけじゃなさそうだけどね」
 カナエはそう言ってゆっくりと拳銃の形を解くと、そのままその右手で、いつも肌身離さず身に付けているロザリオに触れた。
「自分なりの祈りの形だって言ってたよ。オミは、自分の拳銃は俺のロザリオと同じような物だから、べつにそうしてても変じゃないだろって」
「拳銃がロザリオと一緒……?」
 一体どういう意味なのだろう。カゲミツは問うような視線をカナエに向ける。カナエは自分にも分からないというように軽く肩を竦めてみせた。
「おまえのそれは、母親の形見だろ?」
 カナエが大事そうに触れている金色のロザリオに視線を落としながら、カゲミツは訊ねる。カナエは小さく頷いた。
「うん。俺の母さんは、俺とは違って敬虔なクリスチャンだったからね」
 どこか含みのある言葉に、カゲミツは訝しげに眉を寄せる。
「俺とは違ってって……こんなとこに祈りに来てるくらいなんだから、おまえもクリスチャンなんだろ?」
 カナエは曖昧な笑みを浮かべた。
「……自分がクリスチャンと呼べるのかどうか、本当はよく分からないんだ」
「え?」
 カナエは底の見えない笑みを浮かべている。ロザリオから手を離すと、ふと視線を上げて、祭壇のイエス・キリスト像を見つめた。その神の子の表情を自身に写し取ったかのような憂いを帯びた顔で、カナエは静かに口を開いた。
「――俺の母さんがトキワ男爵から強姦されて、その結果産まれたのが俺だってことは、カゲミツ君も知ってるよね?」
「……ああ」
 カゲミツは渋面を作って頷く。カナエの生い立ちについて既に知ってはいるが、本人の口から改めてそれを聞くのは心が痛んだ。
「俺さえいなければ、俺なんて産まなければ母さんは不幸にならずに済んだのにって、何度も思った……。強姦されて妊娠した子どもなんて堕胎してしまえばよかったのに、なんでそうしなかったのかって疑問に思って訊いたことがあるんだけど、そしたら母さんからこう言われたんだ」

 ――あなたの命は神が作りたもうた尊い命よ。あなたには何の罪もない。父親の犯した邪悪な行為のために、あなたが罰を受ける必要はないのよ。

 カゲミツは思わず眉をひそめた。言っている内容は正しいのかもしれないが、なにか引っ掛かる。この違和感は何なのだろう……とカゲミツは思う。母親が幼い我が子に掛ける言葉にしては、どうも人間らしい温かみを欠いているように思えてならない。どこか盲信にも似た異様さを感じた。
「だからね……俺は神に生かされたんだ」
 カナエはそう言うと、なにかを諦めたような儚げな笑みを浮かべた。
「母さんは心から神を信じてた。たぶんだけど、トキワ男爵夫人からは、俺を堕ろすよう迫られてたと思う。でも、母さんはそれを拒んだ……キリスト教では堕胎は禁じられているからね」
「え……?」
「モーセの十戒に殺してはならないって有名な言葉があるけど、それと、聖書の詩篇139篇13にあるんだよ。たとえ自分がどこに行っても……それが天国でも地獄でも、海の果てだったとしてもそこには必ず神様がいる。そしてそれは、神様が母親の胎内で自分をつくったからだっていう、ね」

 ――それはあなたが私の内臓をつくり、母の胎のうちで私を組み立てられたからです。

「俺が子どもの頃、母さんは聖書のこの言葉をよく読んで聞かせてくれたよ。たとえ強姦されて出来た望まない子どもであったとしても、それを自分のお腹のなかで組み立てたのはあくまでも神様だっていう気持ちが強くあったんだろうね。だからきっと、母さんは俺を堕ろすことができなかったんだと思う。たぶん、本当は産みたくはなかったんだろうけど……」
 カゲミツは思わず眉を寄せる。辛くないはずがないのに、カナエは穏やかな声で淡々と話し続ける。
「……だけど、俺のことを産んだせいで、母さんは夫人から酷い扱いを受けるようになってしまった。夫人には子どもがいなかったし、あの人には母さんが強姦されて妊娠した子どもを産んででもトキワ家の財産を欲しがっている薄汚い人間に思えたんだろうね。実際に何度も、汚らわしい親子って罵られたし……」
 カナエはわずかに痛みを堪えるような表情になると、自分と母を口汚く罵る夫人の幻影から逃れるように、そっと瞳を閉じて世界を遮断した。
 ……ああ、なんて汚らわしい……早くいなくなってくれるといいのに……。
 そのうち不意に、目蓋の裏が真っ赤に染まったかと思うと、夫人の幻影が紙切れのようにシュッと焼け焦げて消えた。と、今度は燃え盛る恐ろしいくらいに美しく赤い炎の前に佇んでいる幼い子どもの姿が見えた。子どもはこれで自由だと笑いながら泣いている。驚くほど虚ろな瞳からとめどなく涙を流しているあの子どもは、あれは、幼いカナエ自身だ。
(ごめんね、母さん……)
(もう……俺は天国には行けない……)
(神様の教えが守れなくて、本当にごめんね……)
 カナエは震える睫毛を持ち上げて、再び元の世界を受け入れる。
「俺は優しい母さんのことが大好きだったし、母さんは俺を産んだことをまったく後悔していなかった。それは間違いないんだけれど、でもそれは単に母さんが神を愛していて神の教えを忠実に守ったというだけのことであって、母さんが俺のことを愛していたのかどうかは、全然自信がないんだよね……」
 カナエはあまり感情の篭らない声でぽつりと零す。悲しいなら、傷ついているのならば泣けばいいのに、カナエはずっと諦めたような微笑を浮かべたままだ。
 カゲミツはちっと忌々しげにひとつ舌打ちをすると、苛立ちと気遣いが綯交ぜになった、ぶっきらぼうな口調で言った。
「そんなことねぇだろ……」
「え……?」
「俺だってそんなに温かい家庭で育ったとは言えねぇけどよ……。でも、子どものことをまったく愛してない母親なんていないだろ……」
 カゲミツの言葉に、カナエはふと眩しいものを見るような表情で瞳を細める。その後、ゆるゆると首を振ってから、ゆっくりと口を開いた。
「ねえ、カゲミツ君……俺の母さんとタマキ君のお母さんが姉妹だっていうことは君も知ってるよね?」
「……ああ。入院中にヒカルとキヨタカから聞いたからな」
 カナエに撃たれて入院していた間、ということだ。カナエは一瞬だけわずかに瞳を見開いたあと、ふと申し訳なさそうに表情を曇らせる。そっと瞳を伏せると、そう、と小さく呟いた。長い睫毛がすこし震えた。
「スパイとしてJ部隊に来る前、オミとアマネから資料だって初めてタマキ君の写真を見せられたんだけど、そのとき、母さんに似てるなって思ったんだ。最初は単なる他人の空似だろうなって思ってたけど、あとで母親同士が姉妹だって知って納得したよ。タマキ君のはなしによると、俺の母さんとタマキ君のお母さんって、雰囲気はちょっと違うけど顔立ちはそっくりらしいから」
「ああ……たしかにタマキに似てたな」
 カナエの母親の写真は、カゲミツもキヨタカから見せられたことがある。タマキの母親を見たことはないが、タマキがカナエの母親に似ているということは、タマキの母親がカナエの母親とそっくりというのも、おそらくそうなのだろう。
「……でも、俺とタマキ君って似てないでしょ?」
 カナエはぽつりと言うと、悲しげな笑みを浮かべる。
「だからたぶん俺は父親似なんじゃないかと思うんだ。自分を強姦した男に似た息子なんて、きっと母さんは愛せなかったんじゃないかって……」
「カナエ……?」
「俺はけっして望まれて生まれてきたわけじゃないから……だから、俺はずっと自分の存在に疑問を感じていたし、自分になにも価値がないって思ってきた。タマキ君はそんなことないって言ってくれるけど、でも……っ」
 言いながら、カナエはギュッと強く胸元のロザリオを握りしめた。
「どうして俺じゃなくて母さんが死んでしまったんだろう……俺さえいなければ、俺を産みさえしなければ、母さんはあんな死に方をせずに済んだのに……っ」
 カナエは悲痛な声を上げながら、より一層強く母親の形見のロザリオを握りしめる。力を込めすぎたせいで、繊細な彼の指先は白く染まっていた。
「……俺はあまりにも罪を重ねてしまったし、もう天国の母さんにはとても顔向けできないな……」
 やがてゆるゆると自身の手のひらを開くと、鈍く光る金色のロザリオに視線を落としながら、カナエは自嘲するように薄く笑った。
「本当に、さっさと自殺でもすればよかったのにね……でも、きっとそれでも俺は生に固執して、死ぬことすらできないんだ……」
 まるで定められていることのように、悲壮な口調でカナエは言う。
「……」
 カナエが自殺しなかったのは、彼と彼の母親がクリスチャンだったからなのかもしれない、とカゲミツは思った。
 キリスト教において、自殺は他殺よりも重い罪だ。人間は神の所有物であり、その神の意志無く自ら勝手に命を絶つことはかたく禁じられている。
 カナエは自分のことを、無価値で生きていても仕方ないような人間だと言う。けれど、それでも彼が自殺することなく、生にしがみつくようにしてこれまで生きてきたのは、母親が愛した神の教えを破りたくなかったからなのではないのかと思えた。自殺というなによりも重い罪を犯すことによって、決定的に母親から嫌われることを恐れていたからなのではないかと思えた。
「さっきオミが言ってたんだ……『俺たちみたいなのは、なにか理由がないとなかなか生きてけないよね』って」
「オミが……?」
 カゲミツは意外そうに片眉を上げる。カナエは静かに頷いた。
「……俺がJ部隊に戻ってきたとき、タマキ君が俺の過ちを赦してくれるって言ってくれて嬉しかった。俺なんかでも生きていていいんだって、生きていこうって、そう思えた。でもね……カゲミツ君は俺のことを赦さなくていいよ」
「え?」
 不意に、カナエは真剣な眼差しをカゲミツに向けた。
「あのときアラタもユウトも怪我をしたけど、俺が直接手を下したわけじゃなかった。……だけど、カゲミツ君だけはそうじゃない」
 カゲミツは目を見開く。カナエは抑えた低い声で淡々と続けた。
「あのとき、俺は君を殺す気だったよ。……そんなことする必要があったのかって、あとで何度も考えた。そうするしかなかったんだって、仕方なかったんだって思い込もうとしたけれど、だけど、たぶん本当はそんなことはなかった」
 やめろ、と言いたいけれど声にはならない。もうそれ以上はなにも言うな。やめろ、カナエ。やめろ、やめてくれ――。
「だってあの時、ミーティングルームで盗聴器を見つけたのがカゲミツ君じゃなくてタマキ君だったら、たぶん俺は撃ってなかった」
「……っ!!」
「だから――俺を絶対に赦さないで」
 カナエははっきりとそう告げると、ふと顔を歪め、いまにも泣き出しそうな微笑をカゲミツに向けた。
「……」
 その笑顔の痛々しさに、カゲミツはふと胸を突かれる。
 ああ、カナエは自分の母親に愛されたくて愛される自信がなくて、赦されたくて赦されたくないと思っているのだ、とカゲミツは思った。
「……俺が赦さないほうが嬉しいって言うのかよ……本当にどこまでもムカつく奴だなテメェは……」
 しばらくの間、俯いたまま黙って唇を噛み締めていたカゲミツは、やがて、忌々しげに低く言葉を吐き出した。
「じゃあカゲミツ君、俺を赦す……?」
 カナエはひどく気弱な笑みを浮かべている。
「いや、赦さねえ!」
 カゲミツは即答する。
「絶対に赦さねえよ……一生な」
 視線を上げ、まるで睨みつけるようにまっすぐにカナエを見つめて宣言する。カナエはどこかほっとしたような表情で頷いた。
「……ありがとう」
「うっせ! 赦さないって言ってんのに感謝してんじゃねぇよ!!」
「うん……でもありがとう。絶対にタマキ君のことは渡さないから、カゲミツ君は安心して一生俺のことを赦さなくていいよ」
「うっわ、おまえほんとムカつく!! マジでぜってぇ一生赦さねえ!!」
 カゲミツは悔しそうに地団駄を踏む。あはは、とカナエは笑った。
「さてと……。じゃあ、俺はもう戻るけど……おまえは?」
 スマートフォンで時間を確認していたカゲミツが、視線をちらりと上げて訊ねる。カナエは小さく首を横に振った。
「俺はもう少しここにいるよ」
「そっか、わかった」
 ツナギの尻ポケットにスマートフォンを仕舞いながら、カゲミツは言う。
「……タマキが心配するから、あんまり遅くなりすぎんなよな」
「うん、ありがとう」
 カナエは穏やかに微笑んで、教会を後にするカゲミツの後ろ姿を見送った。
 扉を開ける直前、どこか心配そうな顔で一度こちらを振り返った彼と目が合った。小さく手を振ると、カゲミツはちっと舌打ちをして、わざと乱暴な仕草で扉を開けずかずかと大股で出て行ってしまう。思わず吹き出したあと、不意に泣きたい気持ちが溢れた。
「……」
 ああ、彼は優しすぎて、きっととっくに自分のことを赦してしまっているのだ、と思うと、涙が出て止まらなくなった。
 けっして赦されたくはないのに……赦されるはずもないのに……。
(ごめんね、母さん……)
(もう……俺は天国には行けない……)
(神様の教えが守れなくて、本当にごめんね……)
「ふっ……う……」
 子どものように泣きじゃくりながら、カナエはまるで祈るような気持ちで思う。

 ねえ、お願いだからだれかだれかだれかだれか、だれか、
 俺のことを、けっして、赦さないで。

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