kagetama | ナノ

パイリダエーザ


 大学から帰ってきたカゲミツが屋敷の前にたどり着いた瞬間、突然ポケットのなかのスマートフォンが振動した。
 慌てて取り出してディスプレイを確認すると、着信はオミからだった。珍しいなと思いつつ通話ボタンを押して耳に当てると、
「もしもし?」
『やあ。おかえり、カゲミツ』
「……あん?」
 どうして自分が帰宅したばかりだということをオミが知っているだろう。不審に思いながら門をくぐると、屋敷の豪奢な扉の前に、見覚えのあるセピア色の頭を見つけた。カゲミツの視線に気が付くと、胡散臭いほどの爽やかな笑顔で片手をひらひらと振ってくる。
「…………」
 カゲミツは無言で通話を切ると、大股でオミで近付いた。
「なにやってんだおまえは!?」
「なにって、カゲミツが馬鹿みたいに呆けた顔で帰ってきたのが見えたから、どんな反応するかと思って電話してみたんじゃん。驚いた?」
「誰が馬鹿みたいに呆けた顔だ!!」
「だからカゲミツだよ」
「ていうか! おまえ一体なにしに来たんだよ!?」
「タマキに会いに」
「タマキに……あぁ……そっか……」
 急に声のトーンを落としたカゲミツに、オミは一瞬だけチラリと物言いたげな視線を投げたあと、
「そう。だからさっさと家の中に入れてよ。わざわざメイドに取り次ぎ頼むの面倒臭くてさ、カゲミツの姿が見えたからここで待ってたんだよ」
 そう言って、玄関の扉をくいっと顎でしゃくった。
「あ、ああ……」
 カゲミツは我に返ったように何度か瞬きをすると、扉を開けて屋敷のなかへと入る。オミが後に続いた。
「いつ来ても空気が重々しいよね、この屋敷」
 豪奢な玄関ホールを見回しながら、無遠慮な呟きを漏らすオミに呆れたような苦笑を返してから、
「タマキなら、たぶんルーフガーデンにいると思う」
 カゲミツはそう告げると、オミを先導して歩き出した。
「ああ、この前来たときもそこにいたね」
 付いて行きながら、オミはあっさりと頷く。カゲミツはふと思い出して言った。
「そういえばカナエのロザリオの数珠、おまえが持ってきてくれたんだって?」
「そうだけど……余計なお世話だった?」
「いや……」
 カゲミツはゆっくりと首を横に振る。
「サンキュウ。タマキ、喜んでたよ。……新しい数珠と十字架を付けてカナエに渡すんだって」
「うん、俺にもそう言ってた」
 オミは軽く首肯する。
「だから今日は、タマキにこれを持ってきたんだ」
 そう言うと、オミはふと立ち止まり、持っていた紙袋から小箱を取り出した。
 螺鈿で出来た、繊細な作りの美しいものだ。それを左手の上に載せると、そっと丁寧な仕草で蓋を開けてみせる。中にはいくつかの種類の十字架と、いくつもの種類や大きさの数珠が入っていた。
「タマキが好きなのを選べるように、一応何種類か持ってきたんだけど」
「そっか……。きっとタマキ喜ぶな」
 箱のなかを覗き込んで薄い笑みを浮かべるカゲミツに、オミは怪訝そうな視線を向ける。次いで、わずかに苛立った様子を抑えるように、静かに口を開いた。
「……カゲミツはそれでいいわけ?」
「え?」
「べつに怒ってもいいのに。なんで今更カナエの形見のロザリオの数珠なんて持ってきたのかって。その上、新しいロザリオを作ってカナエにプレゼントしたいなんて夢みたいなことを言ってるタマキに、なんで新しい数珠と十字架を持ってくる約束なんかしたのかって」
 オミは口調に微かに苦いものを滲ませる。
「……俺がしてることは、タマキをいまのままの状況に縛りつける手助けみたいなものだよ」
「オミ……」
 すこしの沈黙が降りた。
 オミは、開けたときとおなじような丁寧な仕草でそっと小箱の蓋を閉じると、元の通り紙袋へと仕舞った。
 無言のまま、カゲミツはオミと隣り合ってルーフガーデンへと歩を進めていく。
 やがて、重々しい空気のなか、カゲミツがゆっくりと口を開いた。
「……いいんだ。きっとオミがそれを渡したら、タマキは喜ぶし……べつにオミのせいってわけじゃなくて、たとえ周りがなにを言ってもなにをしても、タマキは変わらないから……」
 なにかを諦めたような笑みを浮かべるカゲミツに、オミは苛立ちと哀れみの混じった複雑そうな眼差しを向ける。それをやり過ごすように軽くかぶりを振ってから、カゲミツは続ける。
「……これまでに何度もカナエはもういないってタマキに説明したけど、俺の言葉はタマキにはまるで響かない。……タマキはいつも笑いながら、カナエがどっかに行くわけないだろって、俺に言うんだ。胸に手を当てながら、『カナエは自分のそばにいるから、どっか行くわけない』って……」
「……どういう意味?」
 オミは眉をひそめる。カゲミツは苦笑まじりに答えた。
「あのヘリの中でさ……タマキにパラシュートを付けて脱出させる直前に、カナエがタマキの胸に手を押し当てて言ったらしいんだ」

 ――タマキ君の『ここ』に俺はいるよ

「ああ、そうか……」
 オミはふと納得したように呟いた。
「それが、カナエからタマキにかけられた呪いなんだね」
「……呪い?」
 穏やかではない単語に、カゲミツは眉をひそめる。
「そう、呪い」
 オミは面白そうにゆっくりと繰り返す。
「祈りとも呪いとも言えるけど、俺はどっちかというと呪いに近いと思うね。……タマキの心のなかにはいつまでもカナエがいるという呪い。だからタマキは、いつまでもカナエのことを諦められないし、カナエがいない現実を受け入れられない」
「…………」
 カゲミツはぎゅっと唇を噛みしめる。
 きっとカナエにはそんな意図はなかったに違いない。純粋にタマキのことを想って、自分がいなくなっても悲しまないで欲しくてそう告げたのだろうことは、カゲミツにも想像がつく。けれど現実に、タマキはカナエの言葉に縛られて、カナエのことを諦められず、カナエのいない世界を拒んでしまっている。カナエの最期の言葉は、タマキにとっては――否、カゲミツにとっても、呪いでしかない。
「……でも、幸せな呪いだね」
 オミはぽつりと呟く。カゲミツは訝しげに片眉を上げた。
「どういう意味だよ?」
「べつに? 単に言葉の通りの意味だよ。死んだあとも一生忘れられないなんて、幸せな呪いだなって思っただけ」
 オミはそう言って薄く笑うと、あまり感情のこもっていない声で続けた。
「俺はヒサヤが死んだとき、一緒に死のうって思ってた。……ヒサヤが自分の分まで生きて欲しいって言ったから仕方なく生きてるけど、でも、いまでも一緒に死ねたら良かったのにって思うことはあるよ」
 一旦言葉を切ると、すこしの間を置いて、オミはゆっくりと首を傾げてみせた。
「……タマキにとっての幸せってなんなんだろうね?」
「え?」
「カゲミツは、いまのタマキのことを不幸だって思ってるの?」
「それは……っ」
 カゲミツは答えに詰まる。タマキが正常なのか正常でないのかという問いであれば、すぐに答えられる。けれど、いまタマキが幸せなのか不幸なのかと問われると、カゲミツはすぐには答えられなかった。――客観的に見て不幸な状況だとは思うけれど、タマキ自身が不幸せそうには、カゲミツに見えなかった。
 オミは淡々と続ける。
「……なにが正しいのかなんて分からない。たしかにいまのタマキは心を病んでいて、カナエがいないという現実を拒否してしまっているけれど、でも、それが本当に悪いことなのかどうか俺にはどうしても分からないんだよね。……狂って幸せになった人間を、正気の不幸な人間にしてあげるのが正しいだなんてこと、本当に言えるのかな? そう思うのは周囲の人間の傲慢なんじゃないの?」
「……っ」
 オミの言葉は、カゲミツの痛点を正確に突いた。それはカゲミツ自身、いままでに何度も自問自答してきて、そして、敢えていままでずっと答えを出さずにきたことだった。
 思わず項垂れてしまったカゲミツを見遣ると、オミは痛ましげにすっと瞳を細め、口調をわずかに柔らかいものに改めた。
「だからカゲミツには悪いけど、俺は本当は、タマキがあのままでもべつに構わないんじゃないかって思ってるよ。……自分がタマキとおなじ立場だったら、たぶん正気になんて戻りたくないだろうからね」
 そう言うと、オミはふっと自嘲するような笑みを漏らした。
 オミはフライ――ヒサヤのことを思い出しているのだと、カゲミツは直感的に思った。戦いのなかでオミを庇って命を落とした、オミがずっと家族同様に過ごしてきたのだという乳兄弟の従者。オミが彼の死を悔いていて、いまだに自分を責め続けていることを、カゲミツは知っている。
「愛する人間がこの世から消えてしまうのはひどく辛いことだし、それならたとえ現実を拒否して狂ったとしても、本人が幸せならべつにいいんじゃないかって俺は思うよ。……正直、羨ましいとすらね」
「オミ……」
 幸いにも、カゲミツはこれまでに自分と近しい人間を亡くしたことがない。そのため、オミが味わったであろう喪失感を完全に理解することはできなかった。辛いのだろうとは思うが、それはあくまでも想像でしかない。カナエを喪って現実世界を拒否しているタマキの気持ちをいちばん汲んであげられるのは、もしかしたら自分ではなく、オミなのかもしれなかった。
「カゲミツは、タマキのことを不幸だって思ってるの?」
 オミはもう一度、先程とおなじ問いを繰り返す。
「それ……は……」
 やっぱり答えられなくて、カゲミツは俯いたまま唇を強く噛みしめる。
 強いて返答を求める気はなかったらしいオミは、答えを待つことなく、淡々と自分の考えをカゲミツに告げる。
「俺は、タマキのことを幸せそうだって思ったよ」
「…………」
「この前ロザリオの数珠を渡しにこの屋敷に来たとき、季節の花々で彩られたルーフガーデンのなかで、タマキは本当に幸せそうに見えた」
 そのときの光景を思い出しているのか、オミはふと眩しげに切れ長の瞳を細めた。
「あのルーフガーデンは、タマキにとっての楽園なんだと思ったよ」
「……楽園……」
 かつて要人警護の任務でイチジョウ邸を訪れた際、タマキはカゲミツのお気に入りの場所だったルーフガーデンを、まるで小さな箱庭みたいだと評した。
 色とりどりのパンジー、ピンク色のデイジー、紫の矢車草や白いマーガレット。
 季節が一周し、ルーフガーデンにはあのときとおなじ花々が咲き誇っている。
 夢のようにうつくしい、閉ざされた楽園。
 一年前と異なるのは、いまではその小さな箱庭の主人がタマキだということだけだ。美しい花々に囲まれて、タマキはいつも、夢を見ているような表情で幸せそうに微笑っている――。
「……分かってる……っ」
 カゲミツは声を絞り出すようにして、苦しげな表情で言った。
「認めたくねぇけど……たぶんタマキはいまのままでも幸せなんだ。タマキはいまでもカナエのことが好きで、忘れられなくて、カナエのいない世界を拒否していて……。たしかにタマキは精神を病んでいるし正常じゃないけど、でも……それであいつは幸せなんだ……それは俺にだって分かってる……」
「……そうだね」
 オミは静かに頷く。
「……でも、いまのままじゃカゲミツは幸せじゃないよね」
 続けられた言葉に、カゲミツはゆっくりと顔を上げた。
「え?」
 オミは、不意に真剣なまなざしをカゲミツに向けた。
「カゲミツの望みはなんなの? タマキに正気に戻って欲しいの?」
「俺の望み、は……」
 自分でも驚くほど掠れた声が出た。
 唾を飲み込んで無理やり喉を湿らせてから、カゲミツは己の考えをまとめるように、時間を掛けて言葉を紡いだ。
「俺は……タマキのそばにいたい。たとえ一生俺の気持ちが報われることがないとしても、それでも俺はタマキが好きだし、そばにいたい。……いてくれるだけでいいんだ」
 そう言って、カゲミツは泣き出す直前のような笑みを浮かべる。
「いつまでも帰ってこないカナエを待ち続けているタマキを見ているのは、正直辛いよ……。本当は、タマキにはカナエのいない現実を受け入れて欲しいって思う。できればそれで、俺のことを見て欲しいって……」
 声が震えそうになるのを必死に堪えて、カゲミツは続ける。
「でも……それが俺のエゴだってことも分かってる。それに、タマキが正気に戻って、カナエがいないことを理解して傷つく姿を見るのも辛いんだ……」
 言い終わった瞬間、じんわりと目頭が熱くなった。カゲミツは眉間に力を込め、泣きそうになるのをなんとか我慢する。鼻をすすり上げると、咽喉の奥に涙の味が広がった。 
「……損な性分だね、カゲミツ」
 オミはため息とともにポツリと呟く。
「うっせぇな……んなこと、自分でも分かってるよ……」
 俯いたまま気弱な声で言い返してくるカゲミツを見つめながら、
「カゲミツには信じてもらえないかもしれないけどさ……俺はこれでもタマキにもカゲミツにも幸せになって欲しいって思ってるんだよ」
 オミはふと真面目な声でそう告げる。
「ああ……分かってるよ」
 スンと再び鼻をすすりながらカゲミツが返すと、オミはすっと瞳を細めて笑った。
「ふうん? やっぱりお人好しだね、カゲミツ」
 からかうような言葉とは裏腹に、オミの口調はどこか優しかった。

 やがて目的地にたどり着き、ルーフガーデンへと続く扉を開けたカゲミツは、タマキに声を掛けようとして、ふと躊躇する。
「…………」
 クスクスと、タマキの軽やかな笑い声が聞こえる。
 木製の古い2人掛けブランコに腰を下ろしたタマキが、誰も座っていないはずの傍らのブランコを見つめて幸せそうに微笑んでいる。時折ひとりでなにか言ったかと思うと、またクスクスと楽しそうな笑い声を漏らす。こんな光景を、もうカゲミツは何度も見てきた。
「タマキ……?」
 わずかに狼狽したようなオミの呟きが耳に届いたけれど、カゲミツはなにも答えることができなかった。
 タマキの心の病はすこしずつ深くなってきていて、最近では時折カナエの幻を見るようになっていた。傍らにいる幻のカナエに愛おしげに話しかけ、無垢な笑顔を見せるタマキは、以前よりも更に幸せそうに見える。胸が痛くなるほど切なくて、儚く、うつくしい光景だ。
 いまにも壊れそうな――本当はもうとっくに壊れてしまっている、脆い幸福。
「……っ」
 思わず目を逸らしたカゲミツをわずかに気の毒そうな様子で一瞥したあと、オミはカゲミツに気付かれないようにそっと嘆息してから、意識的にひどく明るい声を出した。
「やあ、タマキ。久しぶりだね」
 オミが声を掛けると、タマキは夢から醒めたような表情で振り返った。黒い双眸が、夢と現実の狭間に戸惑っているかのように揺れている。待ち望んでいた人物ではなかったことに一瞬だけ落胆の色を滲ませたタマキは、その後すぐにまた夢を見ているような瞳になって、淡い笑みを浮かべる。
「カゲミツ、オミ……」
「今日は約束してたものを持ってきたよ」
「約束してたもの?」
 すぐには思い当たらないようで、タマキは不思議そうに小首を傾げる。
「そう。カナエのためにロザリオを作るって言ってたでしょ?」
「ああ、そっか……」
 タマキはふわりと微笑むと、オミが恭しく差し出した螺鈿の美しい小箱を、不健康なほどに白く細い両手で、大事そうに受け取った。
「ありがとう」
 優しい風に、タマキの柔らかな黒髪がふわふわと揺れている。
 静かに舞い散るはなびら。漂う芳しい花の匂い。
 穏やかに差し込む夕陽が、タマキの横顔と手のなかの小さな箱をキラキラと美しく照らしている。
「…………」
 カゲミツはなぜだか唐突に泣きたくなった。
 うつくしいのに、哀しい。
 カゲミツはふと、パラダイスの語源であるパイリダエーザが、古代ペルシャ語で閉ざされた庭という意味であることを思い出す。
 ……ああ、本当にここはタマキにとっての楽園だ。

 小さな箱庭のような楽園で、タマキは夢のように綺麗な小さな箱を開ける。
 中身を確認すると、タマキはちいさな歓声を上げ、嬉しそうにひどく無邪気な笑みを浮かべた。子どものように、心から幸福そうな笑みを。
「本当にありがとう、オミ」
 十字架や数珠をひとつひとつ手に取って眺めながら、タマキはうっとりと呟く。
「これで、カナエの新しいロザリオが作れる……」
 そうしてまた、小さな箱庭のなかのタマキは、小さな箱のなかに終わらない夢を見る。

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