ワード・ナイン

「――いつまで仕事してるつもりなんだ?」
 不意に掛けられた言葉にキーボードを打っていた手を休めて背後を見ると、ブランデーグラスを片手に持ったキヨタカが、ミーティングルームの入口に呆れた表情で立っていた。
 パソコン画面の右下を見ると1:30の表示。呆れたいのはこっちの方なんだけどなあ……と思いながら、トキオは苦笑とともに口を開いた。
「ちょっと提出しなきゃなんない書類が溜まってたもんで。……というかキヨタカ隊長こそ、なんでまだここにいるんです? ちゃんと休まないと、またタマキに怒られますよ」
「ああ、かもな……。でも、どうせ家に帰っても眠れないんだから仕方ないさ」
 キヨタカは自嘲するような笑みを浮かべる。まだ目を覚まさないヒカルが心配で眠れないということだろう。それで無理をして倒れては意味がないとは思うが、とはいえ、ヒカルが目を覚ましたときすぐに駆けつけたいというキヨタカの気持ちも分からなくはない。
「それで、今までバンプ・アップで飲んでたんです?」
 キヨタカの手にあるブランデーグラスを見ながら、トキオは訊ねる。店で見たことがあるものと同じなので、間違いないだろう。キヨタカは軽く頷いた。
「まあな。で、さっきマスターからいいかげん家に帰って寝ろと追い出された」
「それでここに来てちゃ世話ないでしょうに……」
「おまえこそ、こんな時間まであのタヌキに提出する書類の作成か? あんなことしでかしておいて、今更取り繕っても仕方ないだろうに」
 いつの間にかトキオのすぐ背後まで来ていたキヨタカが、パソコン画面に視線を走らせて呆れたように言う。トキオはポリポリと人差し指で右頬を掻いた。
「それはまあ……そうなんですけどね……」
 あんなこと、というのは、トキオがA部隊の女隊長から拝借したパスワードを使ってSランクの機密情報にアクセスした件だ。おかげでアマネ達の過去に関わる胸がむかつくような国の所業を知ることが出来たが、上層部に知られたら間違いなくタダでは済まされないだろう。
「まあでも、完全にバレるまではせいぜい頑張って取り繕いますよ。こっちも出来ればまだクビにはなりたくないですしね」
「クビどころか、下手すると牢屋行きだぞ」
「あはは、そうですね〜。でもま、べつに後悔はしてないんでいいんですけど」
 そう言って微笑すると、トキオは再びキーボードへと指を走らせる。キヨタカはブランデーグラスに口を付けながら、どこか感慨深そうに瞳を細めてトキオを見遣った。
「……それで、A部隊の女隊長におまえはどうやって媚を売ったんだ?」
 唐突すぎるキヨタカの質問に、トキオはキーボードを打つ手をはたと止めた。
「下世話だなぁ……そんなことに興味あります?」
「なくはない。抱かれたのか?」
「抱かれたって……相手は女性で、俺は男ですよ? 普通逆じゃないですか?」
「あの人なら、おまえを抱いてもおかしくないからな」
 さも当然のように言うキヨタカに、トキオは困ったような苦笑を返した。
「いやいや、おかしいでしょうよ……。というか、キスだけですよ」
「なんだ、そうなのか? それくらいのことでパスワードを貸してくれるなんて、あの人も存外おまえには甘いんだな」
「えっと、それはまあ……そうですね……」
 そういえば今度お礼はベッドで、とか言われたような気がする。キスにしろセックスにしろ、どちらにしてもその程度のことでパスワードを貸してくれる女隊長は、おそらくトキオには甘いのだろう。もし上層部に知られたら、彼女とて処分を免れないのだから。
「俺がアルコール消毒してやろうか?」
「は?」
「ブランデーはアルコール度数が高いから、消毒には最適だと思うが?」
 ふと、キヨタカは面白そうに瞳を細めると、すっと右手でトキオの顎をとらえた。そのまま少し顔を上向かされて、トキオは引き攣った笑いを浮かべる。
「ははは……ご冗談を」
「俺は本気だが?」
「ご自分のキスが消毒代わりになると思ってるなんて、本気で質悪いですよ?」
「当然なるに決まってるだろう?」
「うわぁ……どこから来るんですかその自信……」
「俺だからな」
「ヒカルに怒られますよ」
「おまえが黙っていればいい」
「……それ、俺になにかメリットあります?」
「ないかもしれないな」
 キヨタカはあっさり首肯する。トキオはふっと思わず口元をゆるめた。
「そこは認めるんですね」
「まあな。……ただ、俺達はおまえが盗んできた機密情報を知ったことで共犯者になったんだ。おまえも俺の共犯者にならないと公平じゃないだろう?」
 表情はまったく変わらないが、口調がどこか無機質な冷たいものへと変化した。
「……」
 トキオは探るようにじっとキヨタカの眼鏡の奥の黒い瞳を見つめる。一体なにを考えているのか分からない、底知れない色の瞳。普段はあまり意識することはないが、こういうとき、キヨタカはあのタヌキ――公安部長と血が繋がっているのだと思わされる。
「……取引ですか?」
「そうかもな」
 表情を変えないまま、キヨタカは言う。トキオはしばらく無言を保ったあと、やがて諦めたように、わざとことさら大仰な溜息をついてみせた。
「……分かりました」
「なんだ、意外と素直なんだな」
 拍子抜けしたようにキヨタカは言う。トキオは軽く肩を竦めてみせた。
「上司に逆らってもあんまり得がないってことは、あなたのお父上に散々教えこまされましたからね」
「……不愉快な名前を出すな」
 キヨタカは不快げに眉をひそめると、グラスを傾け、くいっとブランデーをあおる。それから、わざと少し乱暴なやり方でトキオの唇を塞いだ。
「んっ……」
 滑り込んできた舌を伝って、生温い液体がトキオの口内に注ぎ込まれる。ブランデーのアルコール度数は40度弱から50度程度だ。味そのものよりも、体温によって温められたことによって立つ独特の強い香りとアルコールの咽喉を灼くような熱さ、生き物のように動き回り絡められるキヨタカの生温い舌の感触に、トキオは思わず酔いそうになる。
「……消毒終了だ」
 唇を少し離しただけの距離で囁かれて、トキオはいつの間にかきつく閉じていた目蓋を持ち上げた。自分は椅子に座っていてキヨタカは立っているので、不本意ながら上目遣いで見上げる格好になってしまう。視線が合うと、キヨタカは片眉を上げた。
「なんだ、不満そうだな」
「いえ……そんなこともないですけど……」
 トキオはぼそぼそと答える。まさか舌まで入れられるとは思わなかった。しかも、妙に上手かったのが、予想通りとはいえなんだか腹が立つ。一応上司である手前、アルコールと唾液に濡れた唇を拭うのも舐めるのも躊躇われて、トキオは静かに溜め息を落とした。
「仕方ないな。キスだけじゃ不満そうだから、おまえにはこれをやろう」
 突然目の前に差し出されたカクテルグラスに、トキオは思わず目を丸くする。
「なんです、これ?」
 一体どこから出してきたのだろう――トキオは数度瞬きをする。濃いオレンジとイエローの二層で出来た、美しい色合いのカクテルだ。グラスの縁にはオレンジの薄切りが飾られている。
「さっきマスターに頼んで作って貰ったんだ」
「マスターに?」
「いいから、飲んでみろ」
「えーと、いや、でも俺まだ仕事中なんですけど……」
「とっくに勤務時間外なのに、なにを言ってるんだ」
「はあ……。それじゃ、口直しにありがたく」
「口直しとはなんだ。失礼な奴だな」
 キヨタカはわずかにムッとした表情をする。ははは、と笑いながら、トキオは差し出されたカクテルグラスを受け取り、少しだけ口を付けた。
「……“ワード・エイト”ですか?」
 舌の上でテイスティングしたあと、トキオはとあるカクテル名を口にする。
 ワード・エイトは、ウイスキーをベースに、オレンジジュースとレモンジュース、グレナデン・シロップを加えたスッキリとしたテイストのカクテルだ。やや甘めの優しい口当たりだが、ウイスキーベースだけあって、アルコール度数は18度と決して弱くはない。
 キヨタカはどこか愉しむような笑みを浮かべると、少しだけ違うな、と呟いて、手のひらで包み込むようにして底を持ったブランデーグラスを静かに左右に揺らした。
「え?」
「ワード・エイトの名前の由来は知ってるか?」
「……まあ、知ってますけど」
 アルファベットで表記するとWard Eight。Wardは「区」という意味で、かつてアメリカ・ボストン市が8区に分けられて区政が始まったことを記念して作られたカクテルだ。
「ワード・エイトはウイスキーベースのカクテルだが、それにはほんの少しだけ、これと同じブランデーが加えてある」
 言いながら、キヨタカは自身の持つグラスをトキオの方にわずかに傾けてみせた。ブランデーは、適度に温度が上がると香りが立つ。キヨタカの手のひらで温められた琥珀色の美しい液体は、特有の芳しい香りを放ちながら、トロリとグラスの内側を滑ってゆく。
「だから、ベースはおまえの言うとおりワード・エイトだが、それは正確には俺のオリジナルカクテルだな。名前は、そうだな……さしずめ“ワード・ナイン”ってとこか」
 キヨタカは眼鏡の奥の瞳をふと柔らかく細めると、乾杯、と小さく呟いて、トキオの持つグラスの縁に、自分のグラスを軽く合わせた。
「改めて、おまえが俺達J部隊の9人目の仲間だ、トキオ」
「……」
 トキオは驚いたようにわずかに瞠目する。
 J部隊のメンバーは、キヨタカ、タマキ、カナエ、カゲミツ、ナオユキ、アラタ、ヒカル、ユウト――そして自分を入れると9人だ。ワード・エイト……ワード・ナイン。
 そのことに思い当たった瞬間、嬉しさと可笑しさと気恥ずかしさとが同時に襲ってきた。トキオは思わず叫び出したいような、笑い出してしまいたいような衝動に駆られる。
「うわぁ、気障だなぁ……」
「格好良いだろう?」
 恥ずかしげもなくしゃあしゃあとキヨタカは言う。本当にこの人は……と半ば呆れながら、トキオはわざと少し意地悪な質問をしてみた。
「でもキヨタカ隊長、Wardには“区”って意味だけじゃなくて、刑務所の“監房”っていう意味もありますよね?」
「ああ、勿論そういう意味も込めたネーミングだが? 俺達の部隊は、おまえの盗んできた情報を知ったせいで、みんな犯罪者みたいなものだからな」
 あっさりと返され、トキオは束の間、本気で言葉に詰まった。やがておずおずと訊ねる。
「……俺、ひょっとして仕返しされてます?」
「感謝しているつもりだが?」
「えっ、ちょっと分かりにくすぎません、それ?」
「そうか?」
 キヨタカはいまいち納得がいかないような表情をしている。トキオは思わず吹き出した。
 隊長も案外不器用なんですね、とキヨタカに聞こえるか聞こえないかの小声で呟いてから、トキオは再びカクテルを口に運ぶ。それから、ふっと口角を上げた。
「……美味しいですね、これ」
 先ほど一口だけ飲んだときには分からなかったけれど、ワード・ナインと名付けられたそのカクテルからは、キヨタカのキスと同じ微かなブランデーの味が、たしかに、した。
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