kanatama | ナノ

Starlet


「タマキ、記憶喪失なんだって」
 病室のベッドで聞かされた思いがけない言葉に、俺はわずかに瞠目する。
「え?」
「あいつ、崖から落ちたときに頭を打ったんだって。それでカナエのこと、ぜんぜんおぼえてないんだって」
 レイの言葉はどこか遠くから聞こえてくるようだった。
 タマキ君が記憶喪失? 俺のことを覚えていない?――なかなか内容を飲み込めなくて、俺はしばらくの間、なにも言葉を発することができなかった。
「…………そう」
 やがて瞳を伏せてそう答えた俺に、レイが複雑そうな表情で訊ねてくる。
「カナエ……やっぱりショック……?」
 俺はゆるゆると首を横に振ったあと、すこしの間を置いて、ゆっくりと口を開く。
「……ひとは誰かとさよならすると、生まれ変わるってきいたことがあるんだ」
「え?」
「それって、こういうことなのかな……」
 ポツリと呟いた俺に、レイはかすかに眉をひそめる。
「カナエ……?」
 不安そうに覗き込んでくるレイの大きな緋色の瞳には、ひどく虚ろな表情をした自分の姿が映っていた。焦点の合わない夜の海のような昏い虚無の色の瞳と出会い、俺ははっと我に返る。
「カナエ……」
「大丈夫だよ、レイ……」
 俺は安心させるように、レイに向かって弱々しく微笑んでみせる。
「大丈夫……」
 そう言って、俺はちいさく息を吐く。
 と、その瞬間、ズキリと胸に軋むような鋭い痛みが走り、俺は顔をしかめる。時間差で襲ってきた衝撃に、なんだ、やっぱりショックを受けてるんじゃないかと、半ば自嘲気味に俺は思った。なんにも感じなかったから平気だったのかと思ったけれど、そうじゃなかったんだ。あまりにもショックが大きすぎて麻痺してしまっていただけだったんだ。……その事実に、俺はなんだか唐突に泣きたくなってしまう。
「カナエ、具合悪いのか? やっぱりまだ傷が痛む?」
 胸を押さえて俯いてしまった俺を見て、レイが心配そうに訊ねてくる。
「……ちょっとね」
「待ってろ、すぐに医者を呼んでくるから」
「……ごめんね、レイ」
「いい。カナエは横になって休んでて!」
 そう言い置いて病室の外へと駆けていったレイの後ろ姿を見送ったあと、
「……ごめんね……」
 俺は顔を伏せて、もう一度ちいさく謝罪の言葉をつぶやいた。


 退院を数日後に控えた俺は、病院の屋上から、ひとり夜景を眺めていた。
 屋上には、入院中たびたび訪れていた。昔から、大都会の夜景を見下ろすのが好きだった。帝都の夜は、いつだっていっそ下品なほどギラギラと光り輝いていて、その光の数だけ欲望があふれかえっているんだって、汚れた世界に生きているのは俺だけじゃないんだって、見ているとなんだか妙に安心できた。
「…………」
 だけどいま、汚れた世界だってわかっているはずなのに……それなのに眼下に広がる大都会の――シンジュクの街の光の洪水が泣きたくなるほど美しく見えて、俺はどうしていいのかわからなくなってしまう。
「……タマキ君……っ」
 だって、この無数の光のうちのひとつが、君なんだ。
 その事実だけで、俺には急にこの世界がたまらなく美しいものに思えてしまう。泣きたくないのに泣きそうになってしまう。
「神様……」
 無意識にロザリオに触れようと胸元に手を伸ばした俺は、タマキ君と離れ離れになったときにそれを落としてしまったことを思い出し、ちいさく苦笑を漏らした。母さんの唯一の形見だったロザリオを失ってしまった俺は、もう神様や母さんに祈ることすらできないのかな、とぼんやり考える。チクリと胸が痛んだ。
「神様……」
 俺は両手を組み、自分の親指でちいさな十字架を作ると、静かに瞳を閉じた。
 もうどこにも俺の祈りは届かなくて、なにかを望むことも許されないのかもしれないけれど、それでもこの世界のどこかで、タマキ君が俺のことを忘れて、生まれ変わったように幸せに暮らしていってくれればいいなと思った。
 タマキ君はもう俺なんかとは関わらないほうがいい。こんなに汚い俺はタマキ君には相応しくないから、タマキ君には陽の当たる明るい場所のほうが似合うから、俺のことなんか忘れたまま、生まれ変わった綺麗な姿で、この世界のどこかで笑って生きていってくれれればいいなと、そう思った。そうしたらきっと、この汚れた世界も、少しだけ美しいものに変わるから。
「…………」
 もう二度と会えなくても、俺は君のことを忘れない。
 大好きだって笑ってくれた君を、一緒に過ごした日々を、永遠を信じたことを。
 忘れない。忘れない。……ぜったいにわすれない。
「…………」
 組んでいた手を解くと、俺は視線を上げて、夜空を見た。
 こんな都会では星なんてあんまり見えないけれど、それでも必死に目を凝らしたら、真っ暗な空の中にちいさな星がひとつだけ見えた。まるで闇の中に生きる自分の真っ暗な胸に宿る、ちいさな希望みたいだと俺は思った。
「…………」
 そうして俺はまた唐突に、泣きたくないのに泣きそうになってしまう。ちいさな星、ちいさな希望。こんな汚れきった無価値な俺なんかが希望なんて持ったって仕方ないってわかっているのに、わかっているけど、でも、それでも。
「…………」
 ふと、眺めていた星の輪郭が、涙に滲んで溶ける。
 ああでも、やっぱりもう一度だけでもいいから会いたいと思った。
 会いたい。君に会いたいよ。
 タマキ君に、会いたい。
 もうそばにいることは許されなくても、会って、一言だけでもいいから伝えられたらいいのにと思った。
「タマキ君……」
 ねえ、君に伝えたい言葉がたくさんあるよ。
 なんにも持っていない、無価値で空っぽの俺が、それでも大事にしている想いがあるんだ。それは不器用で不格好で、もしかしたら他人からみたらゴミみたいなものなのかもしれないけれど、でも、俺にとっては宝物みたいに大事なものだから、よければぜんぶ、ぜんぶ君に持っていくよ。
「タマキ君……」
 母さんの形見のロザリオを失った俺は、神に祈る資格を失った俺は、まるで祈りの言葉のように、大切な彼の名前をつぶやく。

 ああ、そうだ。
 この想いを一言にするなら、きっと、愛してる、なんだ。

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