kanatama | ナノ

CALL MY NAME


「なあ、これって伊達眼鏡なのか?」
「え?」
 リビングのソファーに座って読書中だったカナエは、タマキの言葉に、読みかけの本から視線を上げた。見ると、テレビボードの上に置いていたカナエの眼鏡を手に取ったタマキが、外側からレンズを覗きこんでいる。
「ああ、それ? ちゃんと度は入ってるけど……」
「そうなのか!?」
「うん。弱いけど、一応ちょっとだけ度は入ってるよ」
「あ、ほんとだ」
 眼鏡を持ったままカナエの隣に腰を下ろしたタマキは、試しにと掛けてみて、納得したように呟いた。その姿を眺めながら、ふふ、とカナエは口元を緩めた。
「タマキ君の眼鏡姿って、なんか新鮮だね」
「変?」
「ううん、結構似合ってる」
「そうか?……ああ、でももう限界だな」
 タマキはふと顔をしかめる。度がそんなに強くないとはいえ、必要もないのに視力を矯正された状態でいるのはきつい。タマキは急いで眼鏡を外した。
「それにしても、おまえが視力悪いって知らなかった」
 タマキは疲れたように目を擦りながら、カナエに眼鏡を差し出す。
「そんなには悪くないんだよ。裸眼でも普通に生活できるくらいだし……」
 受け取った眼鏡を掛けながら、カナエは説明する。
「まあ、変装も兼ねて……だね。いつどこでJ部隊にいた頃の俺を知ってる人間に会うか分からなかったし、眼鏡姿だと、パッと見、俺だって気付かれにくいでしょ? 外出するときいつもフードを被ってたのも、できるだけ顔を見えにくくするためだったんだよね」
「そうだったのか……」
 たしかにそう言われてみると、タマキが記憶を失っているあいだ、トキワとして会っていたときのカナエは、いつも眼鏡姿でフード付きの洋服を着ていたような気がする。
「なんか眼鏡掛けてると、カナエというよりもトキワって感じがするな」
 なにげなく言ったタマキの感想に、カナエは少しだけ複雑そうな表情になる。眼鏡を外すと、テーブルの上に置きながら、曖昧に頷いた。
「そうかもしれないね……」
 タマキはふと、ずっと頭にあった疑問をカナエにぶつけてみることにした。
「……なあ、カナエ。なんであのとき、カナエじゃなくてトキワって名乗ったんだ? 俺と接触してるってことを、J部隊のみんなに知られたくなかったからか?」
「それも勿論あるけど……いちばんの理由は、タマキ君から名前を呼ばれるのがつらかったからかな」
「え?」
 カナエは困ったような笑みを浮かべている。続きを言うべきか少し迷うふうな素振りを見せたあと、問うようなタマキの視線に、やがてゆっくりと口を開く。
「……タマキ君が一年半前の記憶を失ってるってことは、ナイツオブラウンドの諜報から聞いて知ってたから、俺との記憶がないタマキ君から、昔みたいに名前を呼ばれたらつらいって、そう思ったんだ。君は俺のことを覚えていないのに、まるで昔に戻ったみたいだってつい勘違いしちゃいそうで……」
 一旦言葉を切ると、カナエは自嘲気味に薄く笑う。
「トキワって名乗ったのは、咄嗟のことだったんだけどね。名字とはいえ、なんであんなに憎んでいた家の名前なんかを名乗ってしまったんだろうって、自分でも最初は後悔したんだけど、でもおかげで、タマキ君からトキワって呼ばれるたびに、母さんを苦しめたあの家の血を引いた、こんな罪深い俺が幸せになれるわけないんだってことがはっきりと自覚できたよ。タマキ君に会えて、また一緒に過ごせて嬉しくて……もう一度昔みたいに幸せになれるんじゃないかって、思わず勘違いしそうになる気持ちを抑えることができた……」
「カナエ……」
 何と声を掛けていいのかわからなくて、タマキはゆっくりと項垂れる。
「ごめんな、俺……」
 いくら記憶を失っていたとはいえ、自分がトキワと呼び掛けることでカナエのことを傷つけていたなんて、今まで考えもしなかった。タマキは唇を強く噛みしめる。記憶を失っている間、そのことでいちばんつらい思いをしているのは自分だとばかり思っていた。大切なひとがいたはずなのに、それがどうしても思い出せなくて、不安で、歯がゆくて、どうしようもなかった。胸の中にぽっかり大きな穴が空いてしまったかのようだった。
 けれどよく考えてみたら、記憶をなくしてしまったタマキよりも、自分の記憶をなくされてしまったカナエのほうが何倍もつらかったはずだ。そのことに思い至らなかった己の馬鹿さ加減に腹が立つ。自分の記憶をなくされるということは、名前を呼んでもらえなくなるということは、死んでしまうこととおなじなのだから。
「俺……本当にごめん……」
「そんな、謝らないで。俺が勝手にそう名乗って、勝手に傷ついてただけなんだから」
「カナエ……」
「ごめんね、君にそんな顔させるつもりじゃなかったんだ」
 カナエはそう言って右手を伸ばすと、慰めるようにタマキの頬をそっと撫でる。
「ほんとごめんね」
 穏やかな声。触れてくる指先からカナエの優しい気持ちが伝わってくる。たまらなくて、タマキは首を小さく横に振った。嬉しさと悲しさと切なさとで、胸が苦しい。カナエはいつもそうだ。たとえつらいときでも、自分を後回しにしてタマキのことを気遣ってくれる。
「カナエ……」
 タマキは顔を上げて、まっすぐにカナエの瞳をみつめる。
「うん。また君からそう呼んで貰えて、うれしい」
 視線が合うと、カナエはふわりと柔らかく微笑んだ。綺麗な茶色の瞳が優しく細められる。タマキの頬に両手を添わせて包み込むと、
「……ねえ、もっと名前を呼んで」
 ふと瞳を伏せて、真剣な声でそっと囁いた。
 厳かに。祈りのような切実さで。
「カナエ……?」
 そのまま、タマキの額に自分の額を合わせてくる。
 至近距離で見るカナエの長い睫毛が、声が、細かく震えていた。
「……タマキ君が名前を呼んでくれたら、それだけで、俺はここに存在してていいんだって思えるんだ」
 か細い声でそう言うと、カナエはゆっくりと瞼を持ち上げた。彼の優しい茶色の瞳は、涙が零れなかったのが不思議なくらい潤んでいた。
「カナエ……!!」
 タマキはたまらなくなって、カナエの背中に両腕を回す。少し驚いたような気配が伝わってきたけれど、かまわずに強く引いて抱き締める。
「カナエ……ごめんな……」
 決して自分の意志ではなかったけれど、カナエのことを忘れてしまっていた。記憶を失う前とは違う呼び方で、何度も彼のことを呼んでしまっていた。
「……ごめん、カナエ……」
 タマキは謝罪を繰り返す。自分の恋人だったはずの男から、まるで初対面のように接されるというのは一体どんな気持ちだっただろう――想像するだけでツンと胸が痛む。謝って済む問題じゃないのはわかっていたけれど、それでもなお謝らずにはいられなかった。
「違うんだ、タマキ君はなにも悪くないよ……」
「でも……」
「俺は幸せだよ……だっていま、タマキ君から名前を呼んで貰えてる……」
 吐息するように言って、カナエはいまにも泣き出しそうな儚い笑みをタマキに向ける。その笑顔の美しさに胸を打たれながら、タマキは何度もカナエの名前を呼んだ。
「カナエ……」
「うん……」
「カナエ……ずっと一緒だからな……」
 抱きしめる腕に力を込めながら、熱を帯びた真摯な声でタマキは告げる。もう二度とカナエのことを忘れたくないし、離れたくない。これから先、何度だってカナエの名前を呼んで、何度だって抱きしめてやりたいと思う。
「……うん……」
 泣き笑いの顔で頷いて、カナエはタマキの肩口にそっと顔をうずめた。そんなカナエの髪を、タマキは慈しむように優しく撫でてやる。心の底から、カナエのことが愛おしくて仕方なかった。戦闘中は頼りになるし、実際カナエに守って貰うことも多いけれど、こうしているとまるで大きな子どもみたいだと思う。守ってやりたいと、どうか守れるようにと、タマキは強く願った。
「……タマキ君……」
 カナエはしがみつくようにしてタマキの背中に腕を回して抱きつくと、やがて、たまりかねたように小さく嗚咽し始めた。
「……君が……俺のことを思い出してくれてよかった……」

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