宇宙と無音の関係性

「珈琲が飲みたいな」

しんと静まり返る部屋の中で、華子は独りごちる。おばさんの声は返ってこず、ときおり牢屋に風が吹く。ナオが居なくなった翌日、おばさんは拘置所に連れてかれた。頑張って下さいって言ったら、おばさんは顔をしわくちゃにさせた。

「珈琲のミルクは多めで、砂糖は少しがいいな」

外からの刺激が少ない分、気持ちは内側に向いていく。瞼を閉ざして、ただひたすら心臓の鼓動を聞いてると、狂おしいほど宇宙の存在を感じた。誰も華子を気にかけないし、関わらない。そんな「完全なる無音」から、宇宙を彷徨うような孤独、寂しさ、そしてある種の癒しを得たのだ。

宇宙を感じることは、母なる宇宙に還ることを意味し、精神的な死をも意味する。幼児退行。華子の精神は、宇宙という安らぎを求めるあまり、人格が退行していた。そばには誰も居らず、華子の異変に気がつくものは誰も居ない。異変といっても、ナオのようなあからさまな幼児退行は見られず、少しだけ精神が幼くなる程度だ。一時的な退行は、華子の硬い筋肉をほぐした。久しぶりの休息に、華子はやや戸惑いを覚えたが、もやに包まれたような心地よい感覚に、今しばらく身を任せた。誰かが身体を包み込み、どこかにふわりと連れていく、そんな感覚だった。

「187番、裁判の時間だ。支度しろ」

不思議と気持ちは落ち着いていた。少しばかりの興奮を、舌で味わうように唇を舐め回すと、華子は留置場を後にした。太陽の下をくぐり抜け、法廷の中に足を踏み入れると、そこは処刑場のように殺伐とした雰囲気が漂っていた。

被告人として室内の真ん中に立たされると、裁判官と検察官、弁護士が席についた。後ろを振り向くと、たくさんの傍聴人が秘密を嗅ぎつけたようないやらしい笑みを浮かべて肩を並べていた。華子は傍聴人の一人に笑いかけると、傍聴人は驚いたように目を見張り、居心地の悪そうな笑みを浮かべた。華子は真顔になり、あらためて裁判官の方に視線を戻した。

「それでは開廷とします」

裁判官が低くそう言うと、裁判が幕を開けた。華子は終始、口元に笑みを浮かべながら裁判官の質問に答えた。いくつかの質問に答えると、検察官が不気味に笑いながら異議をとなえた。

「薬に対する依存が被告人は深刻なので、懲役二年の刑を要求します」

その言葉に、裁判官は顔をしかめた。

「検察は被告人の薬に対する依存具合を図るために、何か具体的に調べたりしたのかね?」

「それは…」

検察官が口ごもると、裁判官は怒りをあらわにして怒鳴り散らした。

「いつもいつも捜査が不十分なんだよ検察は!」

いきなり怒り出した裁判官に、皆一様に息を飲んだ。

「捜査が不十分だと裁判にならないって何度言ったら分かるんだ!どうせ被告人の過去における精神病院の通院歴も調べてないだろう?!」

「…調べてません」

いつの間にか法廷は、華子の罪について話し合うのではなく、検察の失態について話し合う場と化していた。血管が切れるくらいに怒り狂う裁判官と、滝汗を流して萎縮する検察官。それを面白がって見守る傍聴人と、置いてけぼりを食らう被告人である華子。果たして誰が一番不幸なのか、華子には分かりかねたが、確実に裁判は終わりに近づいていた。

「被告人に執行猶予つきの有罪を言い渡す。また、条件として被告人は精神病院に入院すること。以上、これにて閉廷とします」

木のトンカチのようなもので机を叩くと、裁判官はさっそうと去っていった。あとに残ったのは、冷や汗を流しすぎて干からびた検察官と、呆気に取られてもはや口が塞がらない傍聴人と、最後まで笑いが止まらない華子だけだった。

笑いながら、華子はナオの言葉をふいに思い出した。

「留置場の中ですら適応できないなんて、ナオなんか!ナオなんか!死ねばいいんだ!」

社会不適合者が行きつくところ。精神病院。結局華子は、社会に適応することが出来なかった。しかしそれでも、良いと思った。自らが道を作って進もうとする限り、どんなところにも道は存在するのだから。たとえそれが、精神病院だとしても。

裁判所を出て、空を見上げると、自由になった気がした。本当は自由でも何でもなく、「与えられた借りものの自由」でしかないが、華子はそれを、大事に懐にしまった。それが華子なりの、「適応」だったのだ。

精神病院に向かう途中、うだるような暑さに、華子は眩暈を覚えた。



20130806


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