全ては虫が湧いたせい
朝、カビ臭い廊下の片隅でナオと一緒に煙草を吸った。ナオは昨日までの威勢がなくなり、青白い顔をしながら煙草を咥えている。虚ろな瞳に、震える手。弱々しく煙を吐き、思い出したようにまばたきする横顔。マイルドセブンの一ミリを根元まで吸うと、ナオは覚束ない足取りで留置場に戻っていった。
華子は自分のマルボロを咥えながら、窓の外の景色に目をやった。曇天、小雨、冴えない気温。陰鬱な天気が沈んだ気分と重なって、何だか気持ちがラクになる。
留置場に戻ると、ナオは魂が抜けたように眠っていた。寝顔はまるで、幼女みたいだ。思わずナオの前髪に触れようとすると、おばさんに話しかけられて手を引っ込めた。
「ナオちゃん、よく眠っているわね」
「そうですね」
「年齢の割に幼いけれど、可愛くて良い子ねナオちゃんは」
ナオは相変わらずぽってりとした厚い唇を開けながら寝息を立てている。栄養失調を思わせる四肢を軽く折り曲げて胎児のように眠るナオを見ていると、何とも言えない気持ちにさせられた。話題を変えようと、おばさんに話かけた。
「おばさんは何をして捕まったんですか?」
おばさんは伏し目がちになって、つらつらと言葉を紡いだ。
「おばさんはね、窃盗で捕まったの。息子に情状をお願いしたんだけど、情けないことに断わられちゃって、きっと刑務所に行く事になるでしょうね」
「ふーん」
華子は何と言って良いか分からずに、視線を畳の上に移した。畳は擦り切れていて、ぶざまなほつれが無数にあった。ほつれをグイグイと引っ張っていると、ふいにクスリを思い出す。脳内はたちまちクスリをやりたいという欲求に支配され、それだけしか考えられなくなる。身体の底から虫のように湧き上がる欲求をどうにかしたくて、腕に爪を立てた。
「あら、華ちゃんどうしたの?」
「クスリがやりたくて」
「まあ、華ちゃんたら留置場に来てまでそんなこと言ってるの。我慢なさい」
おばさんは笑うと、トイレに行ってしまった。華子は思い出したようにナオの元に行くと、彼女の華奢な肩を揺すった。
「ねーナオ起きて」
ナオはうーんと呻くと、大きい瞳をぱちくりさせた。絹のような繊細なまつ毛が、光の加減でキラキラして見える。
「キスしようよ」
華子がそう言うと、ナオの虚ろな目が少しだけ見開かれた。言葉の意味を理解しようと、その細い首を少しだけ傾けている。
「どうしてそんな事……ナオ、レズじゃないし」
"全ては虫が湧いたせい"
華子はそう言おうとして、そっと口を噤んだ。
「いいから、ね。しようよ」
衝動が抑えられずナオの唇に口づけると、ナオはビクッて反応した。それが何とも可笑しくて、華子はちょっと笑った。ナオの唇は思った通り、柔らかくてマシュマロみたいだ。何よりも留置場の中でキスしているということに興奮を覚えて、華子は目をギラつかせた。代償行為。ナオはクスリの、代償でしかない。それ以上でもそれ以下でもなく、地面を這いつくばうアリのように、ナオの存在は他愛無い。
一瞬でもクスリの存在を忘れることができて、華子は幸せだった。柔らかな唇を持つナオに感謝したいという気持ちが、川のせせらぎのようにわき起こる。ナオも満更ではないらしく、目を瞑りながら唇の感触を味わっている。
「ここを見て」
ナオはそう言って唇を離すと、服をたくし上げて上半身を露わにさせた。可愛らしい乳房の下に刻まれた、深い傷跡が目に入る。
「この傷、母親にやられたんだ」
「お母さん?」
「そう。ナオ、虐待されてたの」
ナオは自然にそう打ち明けると、弱々しく笑ってみせた。愛想笑いというよりは、照れ笑いに近く、この子はこうやっていつも誰かに媚びて生きていたのだなということがよく分かる、哀しい笑みだった。
華子は瞳孔を開かせながら、痛々しい傷跡に口づけをした。時々舌でつついてやると、ナオが切なげに息を漏らした。その声に興奮を覚え、ナオの茶色い髪を無造作に掴むと、ナオは吐息混じりの声を上げた。
現実から逃れて愛欲に溺れる行為は、何故こんなにも気持ちが良いのだろう。背徳行為、人倫に背く。しなくてはならない義務を放棄し、布団に包まり注射打つ。そんな昔の光景が、華子の脳裏をよぎった、その時だった。
「華ちゃん、ナオ、何やってるの!」
おばさんが顏を青くさせながら高らかに声を上げた。ため息をつきながらナオの髪の毛を離すと、華子はおばさんを見据えた。おばさんは信じられない光景を見るようにワナワナと口元を引きつらせている。汚い。おばさんの目は、確かにそう言っていた。華子は自分のしたことをもう一度反芻してみたが、汚いことなど一つも見当たらなかった。ナオのほうは顏を真っ青にさせ、酷くうろたえている。
「ナオは汚くなんてないよ!ごめんなさい、私もう、しないから!」
ナオは子どものように許しを請うたが、おばさんは母親のようにかぶりを振り、許そうとはしない。ナオはますます混乱し、頭を床に打ち付けた。
「留置場の中ですら適応できないなんて、ナオなんか!ナオなんか!死ねばいいんだ!」
血が二、三滴、床に飛び散った。ナオの頭から流れ出た血は、生涯床にこびりついて落ちることはないだろう。そう思うと、実に感慨深かった。騒ぎを聞きつけた看守が部屋にやって来て、ナオを取り押さえ別室に追いやった。ナオが連れてかれる間、おばさんは目を潤ませ、震えていた。ナオのために流したおばさんの涙が清流みたいに落ちる頃、留置場の中はしんと静けさに包まれていた。
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