※現代


「結婚するんだって? 子どもができたとか」
 待ち合わせの喫茶店に入って来るなりそう問うた作兵衛の顔は嬉々としている。上の方まできっちり締めていたネクタイを少し緩めて、通りかかったウェイターを呼びとめてアイスコーヒーを注文する。ぼくが飲んでいたアイスコーヒーのグラスが空になりかけていたのを作兵衛は横目で見ていたらしく、昔と変わらず世話焼きの彼はぼくの分のアイスコーヒーも追加で注文した。
「なんだか、安心したよ、おれ。お前のこと一生おれが面倒見なくちゃいけねえのかと思ってた」
「頼んでないよ」
「そうだけど。やあ、でもほんとに、おめでとう」
 ぼくはグラスの中の氷をストローでかき混ぜた。いつの間にか角は丸くなっている。微かな喫茶店の風の音ようなざわめきは、いつかの昔をフラッシュバックさせる。鮮烈である。自然と浮かぶ苦笑い。作兵衛はぼくのその様子に気付いていない。黙々とおめでとうを繰り返す。

 ◆

 およそ二十年程前のことだ。当時ぼくと作兵衛は小学六年生。夏休みだった。その頃からこうして知り合いであったぼくと彼は、毎日のように近所の神社に出かけていってはその境内で遊んでいた。木々が生い茂ったところで日陰も多く、それから神社というなんだか神聖な雰囲気のおかげで、そこは少し周りよりも涼しかった。
「なあ、今すげえもん見つけた」
 太い一本の木の枝に腰かけていた作兵衛が、ぼくの頭上から唐突にそう言う。一方ぼくは木の根元の蟻の巣をスコップで掘り返していた。顔を上げてみると、作兵衛は笑みを浮かべながら木の枝から飛び降りる。足元に数匹の蟻がいたはずだ。
 しゃがみこんでいたぼくのシャツの襟首を彼はつかみあげた。首吊りのような、少し苦しい状況で、そのまま引きずられるように林に連れ込まれるのも癪であったので、彼の腕を払う。
「なに」
「行ってみればわかるって」
 林の中を静かに、でも素早く走り抜ける。作兵衛は取りつかれたかのように迷いなくぼくの前を走っていく。そしてある茂みの近くまで来ると、指を一本唇の前に出して、しゃがむように、というような動きをした。
 葉がこすれ合うような音がした。がさ、がさ、と。ぼくは何か蛇でもいるのかと思ったのだ。でも違った。
 作兵衛は、ぼくよりも一足先に助平な男になっていた。今晩の花火大会に行く予定らしい浴衣の男女のカップルが、あられもない姿で交わり合っていたのだった。作兵衛は口元をゆるめてそれを茂みの隙間から覗き、ぼくはそんな彼の横顔とそれを交互に見つめた。
 作兵衛は男になるのだ。いずれは、なんて前々から感じていたことだった。きっと彼は今よりもっと背が高くなるだろうし、腕や足や顎なんかにもかたあい毛が生えるだろうし、声はだんだんかすれていって低くなるのだろうし。
「な、すげえもん見つけただろ」
 ぼくの耳元に囁いた作兵衛の息があつかったのをよく覚えている。ぼくや作兵衛に気付かず繰り広げるカップルの女のその様は、学校の理科室の蛙をこっそり持ち出して、埃臭い体育館倉庫の中で解剖した時と同じ、あの哀れさと後ろめたさを感じた。そうして人間じゃあない、これじゃあただの猿。そう見えた男の方は、餌をお預けされた犬みたい。猿なのに犬なのか、どっちなんだ。
――いずれは? ぼくは思い立ってしまった。吐き気を催しそうだった。あの時のぼくは純潔だったのだ。作兵衛やあの男は、ぼくにとってはあくまで他人であったのだ。ぼくじゃあない。それは大きなことだった。
 ぼくの鮮明な記憶はまだ続く。
 しばしの観察の後、動かなくなったカップルに作兵衛はつまらなそうにため息をついて立ち上がった。ぼくの腕を引いて来た道を戻って、神社の境内まで戻ってくると作兵衛は「もう帰ろうぜ」と言った。日は傾きかけていた。橙の色がつくる影は、昼間の太陽がつくる影と同じ色。でも少し長い。
 ぼくが頷くと、作兵衛は木の幹へ立てかけてあった自転車に跨って荷台を指さした。ぼくに乗れとのことである。それを断ると、なんだか拍子抜けしたように間抜けな顔になった。
「今日は歩いて帰るから、いい」
「戻るのか?」
「違う」
 納得したのかあいまいな表情を浮かべつつも、ベルを二度鳴らし、作兵衛は境内を出て行った。ヒグラシと風と、遠くのほうのお囃子の音。それとぼくが、ここに存在していた。神社の階段に座り込んで目をつむってそれを聞いていると、やがてその音は雨のようになってぼくを洗い流すようだった。
 しばらくそのまま目をつむっていると、花火の上がる音がした。もうそんな頃なのか、と慌てて目を開ける。もしかしたらぼくは眠っていたのかもしれない。辺りは真っ暗で、昼間から薄暗い神社の境内はさらにいっそう濃い闇だった。ところどころにたつ電燈の淡い光はちかちかとまたたく幽霊。ぼくは立ち上がった。
 と、その時、何かに足をとられて石畳の上に転んだ。膝を強く地面にこすり付けたらしくそこがひりひりと傷になっている予感がした。怪我した膝を地面につけないように、そのまま石畳の上へ仰向けになってしまうと、上には木々の葉っぱがあった。その隙間から花火の色鮮やかな光が少しだけ見える。
「ああ、いたい」
 傷口に手を伸ばそうとする。すると途端にその指先からぼくの腕へ絡み付いてくるものがあった。螺旋を描いてそれは腕を登ってくる。ぱっと空で一際大きな花火が咲いた。それが照らしたのは、ぼくの腕に巻きついた一匹の長くて太い蛇だった。
 叫び声は出なかった。そのかわり、あんぐりあいた口の中へその蛇の頭が入った。そうしてあの細い舌が、ちろちろとぼくの上顎を舐める。奥の方から手前の方へ……歯の付け根のあたりを舐められると、不思議なことに、鳥肌の立つような感覚になって、それで初めて「蛇を口から出さなければならない」と思った。
 蛇の首根っこを掴んで口から引き出すと、幽霊のような電燈の光で蛇の頭がぼくの唾液で濡れているのがわかった。すぐに蛇を放る。体を起こして、立ち上がろうとしたところで再び足に何かが絡み付き、転ぶ。また蛇だった。
 気付くと、ぼくの周りにはたくさんの蛇がいた。小さいものから大きいものまで、一様にぼくを見つめているようだった。たくさんの蛇をかき分けるようにして、あのぼくの唾液にまみれた蛇がぼくに近づいてきた。ちろりと出した舌が赤い。今となって考えてみれば、あの暗闇であの赤さが見えるわけがない。恐らくあれは、昼間のカップルのあの女の口紅の色。蛇はするするとぼくのハーフパンツの中へ滑り込んだ。あっと思うと同時に体中が強張って、途端に吐き気を催して「あ、いやだ」と言う間もなく吐瀉した。

 ◆

 ウェイターが、注文したアイスコーヒーを運んできて二つテーブルに並べた。作兵衛は自分の分のアイスコーヒーを取り上げて、一気に半分ほどまで飲み干してしまう。彼の大きくせり出した喉仏が豪快に動く。
「予定日いつ?」
「さあ……わからない」
 昔を顧みることは、よく成長する人間はあまりしないのだと聞いたことがある。見るのはいつも前方斜め四十五度ほど上である。
 呆気にとられたような顔の作兵衛の視線を感じつつ、ぼくは俯きがちに席を立って喫茶店のトイレの個室へ入った。しゃがみこんで吐瀉する。まざまざと知らされて、気分が悪くなったのだった。



121017/フラッシュバック

「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -