委員会から戻ってきてみると、委員会前に部屋の中へ取り込んだ太陽の香りをまだかすかに残している敷布の上に、誰かがうつ伏せになって眠っていた。同室の三郎であれば、すぐに彼を揺すり起こして「一番気持ちのいい敷布を」と不服そうにするのだろうが、ぼくは幸いそういったことにはあまり関心がない。敷布の上で眠る彼をそのままにし、顔を確かめるために近寄った。
 右側へ向けた彼の顔を覗き込む。八左ヱ門のところの伊賀崎孫兵だった。右腕にはおかしな器具たちを木の箱に入れて抱えており、その上に、三角形の和紙が何枚か置いてあった。和紙は何かを挟んでいるようで、薄い紙はその中身の鮮やかな色彩をぼんやりと透かしていた。それが蝶々の羽の色彩だと気付くのに、そんなに時間はかからなかった。しかし蝶々は生きてはいないようである。ピクリとも動かないのだ。
「それにしてもなぜ孫兵がここに」
 孫兵の横顔は、彫刻師が腕に縒りを掛けて作りこんだように、額から鼻の頭までの曲線はするりと滑らかで、鼻の頭はつんと尖っている。閉じた目蓋の際から睫毛が長く伸びている。口裂は薄く開いている。
 じりじりとけたたましく外で蝉が鳴きだした。そこで初めて、今日が一段と暑い日だというのを思い出した。孫兵の白い肌はそれを感じさせない。汗の一滴も噴き出ていないのだ、死んでいるように……まさか、死んではいないだろうな? 不安がよぎって、ぼくは床に膝をついて、彼の肩を揺すった。すると、孫兵はぱっちりとまん丸く目を開けて、じっとぼくを見た。
「寝てたのかい。どうしてここに」
 ふっと安堵の息と笑みを零すぼくをよそに、孫兵は起き上がって蝶々を挟み込んだ和紙の中を慌てた様子で覗く。眠っていたのは、うっかり、といったところだろうか。恐らく孫兵は寝相で蝶々を踏み潰してしまっていないか確認したのだろうが、死んでいるように見えるくらいだったので大丈夫、と、ぼくは心の中でささやく。確認し終えると、孫兵はまたぼくの方へ向いた。
「鉢屋先輩に手伝ってほしいことがあったので」
「三郎なら、今日は八左ヱ門と一緒に実習。……ぼくに手伝えることなら、手伝うけど」
 彼の持つ木の箱をよくよく見れば、図書委員会で本の修繕をする際に使うのと似た道具が入っているようだった。だが、見慣れない道具のほうがもちろん多い。それに、委員会で行う本の修繕もぼく自身はそれほど得意というわけでもないのだった。
 わざわざ訪ねられる三郎が羨ましいのかもしれない。意地というか、負けたくないというか。ぼくと同じ顔をして、いつでもぼくに似せようとしているくせに、孫兵にぼくより慕われているではないか。
 孫兵の目が一瞬泳いだ。八左ヱ門からぼくの性質を聞いていたのかもしれない。
「ああ、では、これ、標本作りなのですが……」
 しかし彼はおずおずと木の箱と蝶々を挟んだ和紙をぼくの前に差し出した。
 指先で和紙を開き、中から蝶々を摘まみ出す。和紙の外側から透けて見えた通り、死してなおこの蝶々は、羽に鮮やかな黄、赤、青などの色を残していた。その蝶々の体へ細い針を通す……はずなのだが、蝶々の体は本の背表紙などに比べてもとても細いので、うっかり自分の指へ針を差し込んで捻り、うっかり折ってしまった。あわてて指に残った針を引き抜いて、蝶々を挟んでいた和紙の中へとしまう。指先でぼくの血がぷっくりと玉を作っていた。改めて孫兵から針を貰う。
 しかしまた先ほどと同じことを繰り返す。それを二度三度繰り返していると、ぼくの様子を見つつ自分の方でも標本作りをすすめていた孫兵が口を開いた。
「不破先輩らしいといえば、そうですが」
「三郎は、綺麗に作るんだろうね」
「はい」
 ぼくのあまりの標本作りの苦手さにか、孫兵は床に広げていた器具を片し始めてしまった。ぼくが折って和紙に挟み込んだ数本の虫ピンのみが取り残される。そうして孫兵は一度ぼくに頭を下げて、部屋を出ていってしまった。
 蝉の声がまた暑苦しい。
「……うまくいかないものだね」
 一人ごちて折れた虫ピンを取りだし、手のひらの上で転がす。三郎はこの虫ピンで孫兵を繋ぎとめておけるのだろう。



120815/折れた虫ピン

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