戸を一枚隔てた向こうの外から何やら楽しそうな声がしていた。厠へ行く際ちらりとのぞき見ると、満開の桜の下で委員会ごとに集まって花見をしているようだった。
 しかし会計委員会は今日も変わらず帳簿の整理だ。団蔵はもう完全に外から聞こえるきゃあきゃあとはしゃぎ回る級友たちの声に気を取られているようで、紙に置いた筆の先からじわりじわりと墨溜りを作っていた。左吉も多少そわそわしているようで、それから左門も。こんなに良い天気で桜は満開、風は微かに吹いていて、時折ひらひら花弁が散る。仕方あるまい。わたしも正直、会計室を飛び出してしまいたい。
「あの、潮江先輩」
 そろばんを弾く音が一瞬ぴたりと止まって、声の主へと皆が顔を向けた。団蔵だった。墨だらけの帳簿をいそいそと机の下に仕舞いつつ「潮江先輩」ともう一度繰り返す。
「ぼく、花見がしたいです」
 窓の格子の隙間から、花弁が一枚入ってきたのをわたしは見た。ひらひらと舞って、それは潮江先輩の頭の上へ乗っかった。わたし以外はそれに気づいていないらしい。緊迫の沈黙だった。遠くのほうに聞こえる楽しげな笑い声に、団蔵と左吉と左門の瞳が見えるはずもない扉の向こうの桜へ向いた。
 潮江先輩は筆を置き、息を一つ吐いて前髪を掻き上げる。伏した目蓋に意外と長い睫毛、濃い隈、わたしは正座した太腿の上で拳をきゅっと握る。
「……あとはおれと三木ヱ門で終わらせておく」
「あ、ありがとうございます!」
 我先にと会計室を飛び出ていった彼らは、開けた扉もそのままに、庭へ下りて皆が集まっているほうへ走っていった。部屋に取り残されたわたしと潮江先輩は、しばらくそのまま黙っていた。
 温い風が入ってくる。机の上の帳簿の頁がぱらぱらとめくれていく。何枚か桜の花弁も風と共に会計室の中へ入り込む。
「閉めましょうか」
 わたしも花見がしたかった。春といえばこれだろう。扉の隙間がなくなる最後の最後まで、わたしは庭の桜の木を見つめる。おそらく今が一番の盛り、名残惜しかったのだ。
 それから日が暮れるまで潮江先輩と二人で委員会の仕事をして、夕食・風呂の後に再び会計委員全員で帳簿の整理を始めたのだが、昼間散々はしゃぎ回ったのか、早々に奴らは眠ってしまった。しかし今日の潮江先輩はいつもと少し違った。怒鳴ったり無理やり筆を持たせたりしなかったのだ。静かに腰を上げて団蔵と左吉を担ぐ。わたしは左門を背負って、部屋へ連れて行ってやった。
 会計室へ戻ると潮江先輩はすでにそこにいて、そろばんを弾きながら筆を動かしていた。わたしが部屋に送り届けたのは左門一人だったのに。慌てて先輩の隣に座ってそろばんを弾く。
 と、潮江先輩の手が不意にわたしの前髪を掻き上げた。顔を上げる。目元を覗き込まれ「ひでえ隈だ」と微かに笑んだ唇がその隈に触れた。すこしの違和感から固まっていた心臓が、わずかに柔らかくなる。とくとくと急きだした。
「……明日には桜、散ってしまうでしょうね」
 潮江先輩とわたしの座布団、二つを繋いで並べた上へゆっくりと押し倒される。背中の下に添えられた潮江先輩の手のひらが熱い。紅葉型の火傷ができてしまいそうだ、春なのに。言うと、先輩はため息を吐くように笑った。
「そこの引き出しまで行って開けてみろよ」
 言葉と裏腹に、潮江先輩はわたしの体の上へ全体重を乗せてくる。目一杯腕を伸ばして棚の引き出しをやっとのことで引っ張り出して腕の中に抱えて覗き込むと、桜の枝が一本入っていた。
「いいだろ、これで」
 いくつか付いた花はどれもこれも綺麗に咲いていた。わたしが頷くとそれが合図だったかのように、首筋から順々に、花弁のような跡を潮江先輩はつけていった。



120416/箱の中

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