※耳が聞こえなくなった伊賀崎 聞こえないはずの声が聞こえるようになったのは、ある日のこと、朝目覚めたら自分の両の耳が機能しなくなった時からだった。 目覚めてすぐには「今日は小鳥のさえずりも作兵衛の怒号も聞こえない静かな日だな」としか思わなかったのだが、布団から起き上がるときの衣擦れの音、たんすの開け閉めの音さえ聞こえなく、まさかと思って部屋を出て、辺りの様子に目を巡らせてわかったのだ。 何も聞こえない。廊下の向こうからすごい勢いでこちらに駈けてくる左門と三之助、その後ろを追う作兵衛。わかるのは床板を伝わる振動のみで、三人がぼくの前を過ぎ去ったあと、感じた風。いつもならば「また一日が始まった」と感じて赤い血の上昇するのが、この時ばかりは凍てついた。 ぼくのこの状況をどう説明しよう。は組の二人が揃って部屋から出てくるのを目の隅にとらえ、慌てて一度、部屋のなかへ戻った。すると、どこかから「孫兵」とぼくを呼ぶ声がした。鈴のなるような小さな声量だったけれど、そのほかに何も聞こえないぼくにとっては十分だった。 「あなたには手があるのだから、筆談でも何でも、すれば良いのに」 部屋中を見回していると「まさか、わたしの声が聞こえるの」と先程よりも幾分か近くでその声がした。ぼくはうなずく。あなたの声しか聞こえません。呟くようにそう言う。 「そう……足元を御覧」 聞こえるのは彼女の声だった。ジュンコの声だ。 あの日から聞こえないはずの声と共に過ごしている。いつもではないけれど、生物委員会の飼育小屋へ行くと、たまに毒虫たちが何か会話しているのを聞いたりしたこともあった。「狭いぜ」なんて聞こえた日にはすこしだけ虫籠から出して、小屋の中へ放したときもあった。 耳が聞こえなくなっても別段困ることはないのだなと、むしろ彼女たちの声が聞こえるようになってよかった……というのは、口には出さないけれど。学園中が大騒ぎになって(ぼくには聞こえなかった)、同級の奴や竹谷先輩、委員会の後輩に例の三人組などは、ぼくのもとへ来てわんわん泣いて(泣き声は聞こえなかった)、優しくぼくの耳を撫でて呪文のように口元を「また聞こえるようになりますように」と動かしてくれたのだ。 彼女が気分が良いときにはたまに歌っているということを、耳が聞こえていたときのぼくは知らなかった。それもとびきり綺麗な声音。合わせるようにぼくもその歌を口ずさむけれど、きっと彼女と同じようには歌えていないはずだ。何せぼくは耳が聞こえない。 ジュンコ、今日はどこへ行こう。「裏々山の花畑へ」ジュンコは本当にそこが好きだね。 120119/アイロニーが鳴いた |