Fragments of Memories


 秋の雨は、季節の足を速くする。

 もう日中の暑さもすっかり和らぎ、夜はいっそ寒いくらいだ。まだ何処かで鳴いている蜩を哀れに思う。
 四季、という言葉は今や、過去のものやもしれぬと七瀬は思う。夏から冬、冬から夏へと、季節が飛ぶスピードは年々速くなっていっている気さえする。春やら秋やら、肌に心地良い季節は、もはや四季という体裁を保つための、おためごかしのようなものだ。
「……ふう」
 夏が過ぎても寝苦しく、一日働けばそれだけで体が重い。もう歳だな、と七瀬はため息をつくと、半身を起こして枕元の湯呑みに手を延ばした。

 七瀬は静司に重用されてはいるが、だからと言ってむやみやたらと過酷な仕事を強いられることはない。傍若無人のようでいて、案外気遣いのある主人なのである。使えるものは何でも、と言いながらも、還暦も過ぎたような女を手足にするような真似はしない。
 あの不敵な表情を想起して、七瀬はふと笑う。


 ──静司は、七瀬の古い想い人に、少し似ている。


 想い人、というには余りにも繋がりは短く、今は所々の記憶さえおぼろげで──いや、そもそもあれは「人」ではなかった。
 妖だったのだ。
 だが、彼は幼くして力に惑う七瀬に、生きる道を示した。その身を挺して、七瀬を生かした。
 名を、何と言ったか。
「まったく……余計なことばかり思い出させてくれるな」
 夜中に前触れもなく侵略してくる記憶の欠片。何事だというのだ。走馬灯か。ならばさっさと切り上げて、幕を降ろして貰いたいものである。仮令この命もろともだとて、構いはしない。
 七瀬は皮肉げに唇を吊り上げた。

 ──致し方なく、寝所を出る。厠で用を足して、いよいよ自分も年寄りだな、と改めてしみじみと思う。疲れに、頻尿、霞み目ときた。腰だの足だのに来ない分、まだ幸運なのかもしれないが。
 幸い足腰は丈夫な方だ。それでなければ、こんな年で現役の祓い屋などやっていられない。
「やれ、鈴虫がうるさいものよ」
 秋虫の風情に、毒を吐く──七瀬はすぐ近くに潜む、人の気配を感じ取った。
「……」
 ──闖入者ならば、容赦はせぬ。
 七瀬はそしらぬ顔で厠を引き揚げる。気配は七瀬に従った。
(妖に非ず)
 寝所の前にまで引き付けて、襖を開けると同時に、七瀬は背後に迫った影を、還暦過ぎの老女とは思えぬ膂力で寝所の中へと引きずり込んだ。
「………っ!!」
 口を塞がれた影が悶える。置行灯が照らすその姿は。
「……的場?」
 七瀬は目を見開いた。
 影は、静司だったのだ。
「……真夜中に何をやっているんです」
 今更この変わり者が、何をしていても驚きはしないが。
「いえ、ちょっと」
 何がちょっと、だ。
 七瀬はかすかに眉をひそめた。
「まさか……厠を覗いていたのではないでしょうね」
「そんなわけないだろう」
 そんなわけない、と言い切れないところが怖い。しかも、よしや厠を覗くにしても、この奇人の場合、十中八九、性的な欲求とは無関係な理由からそれは行われるのだ。
「鈴虫を探してた」
「は?」
 相変わらず、わけの分からないことをする奴である。
 静司はニコリと笑った。
「ああ、もしかして、覗いて欲しかったり?」
「アホな」
 言うや、縺れた互いの体が解けて、床の上まで静司は七瀬を追い詰める。背で這うようにして畳を擦るうちに、七瀬の目はついさっき思い出した妖の姿を、静司の姿に重ねてしまった。
(似てないぞ──背格好以外は)
 床の上で覆い被さる、静司の艶やかな絹のように細い黒髪が、七瀬の頬を撫でる。
「………」
 ──おい。待て。
 七瀬は思わずいつものように静司を罵りそうになったが、寸での所で呑み込んだ。
 静司の手が──若い女なら、恋い焦がれるよりも寧ろ嫉妬するほどに美しい容姿をもつ静司の手が、七瀬の首に触れた。
 ──明らかな、男の手であった。
「的場、もう──」
 戯れは、止さないか。
 たしなめようと睨み付けると、静司のはだけた胸元が最初に目に飛び込んでくる。その、雄の身体の隆起──。
「…………」
 言い掛けた言葉と共に、思わず唾を呑む。
 歳を考えろ、と七瀬は己を叱咤する。いや、違う。そういう問題でさえない。
 自らを律することに微塵の疑問も抱かぬ己が、この期に及んで四十も若い男の体に目を奪われるなどと──あってはならない。恥知らずを通り越してもはや馬鹿者だ。ましてや的場の頭主、仕えるべき主ではないか。

「……私が子を成せる身とお思いか」
「それでいい」
「的場──」
「男と女は、それでいい」
「………」

 静司は、七瀬の襟を剥く。
 露になる、老いたる女傑の裸身。
 維持に努めることはないのに、還暦を過ぎたとて、さして崩れてはいない乳房。
 骨張った大きな手が、ぐ、とそれを掴む。
「……っ」

 熱い、と思った。
 男の手のひらの硬さ。
 その熱さ。

 とうに忘れてしまった筈の疼きが、躯の奥底で甦るような気がした。そしてそのことにさえ、七瀬は失笑を禁じ得ない。
「あ………」
 思わず出た声に、静司は野卑に笑う──まさか鉄で出来ているとでも思っていたのか。
「──女だな、七瀬」
 男のものでしかない低い声が、七瀬の鼓膜のすぐそばで囁く。
「……そんな、時分もありましたか」
「いや、お前は女だ」
 帯を解くシュ、という乾いた音が、どうしようもなく耳に残る。静司の抜けるような鼻息が、否応なく七瀬の躯を熱くする。
「私を雄にするのだから」
「──女は嫌いでは?」
「お前は別だ」
 あっけらかんと言い放つ若き主は、七瀬の老いた──だが何時よりも艶かしい白い膚を、丁寧に愛撫する。
「……棚ざらえでも、誰も買いはしますまいに」
「私なら買うな。売るにせよ、お前ならば到底値がつかん」
「……」
「もとより売り買いなど笑止千万。お前は、鏡を見たことが無いのか?」
 笑いながら、舌先を女の膨らみに這わせる──その貌は、ついぞ見ないほどに野蛮だ。
 刻に埋もれた秘奥の想いを暴かれる。あの人は、もういない。いない──けれど。


 ……似ていないぞ。


 今はこの、偏屈で気まぐれで、だが情け深い変わり者が無二の主。隣同士に並べていた古い面影を、七瀬はようやく振り払う。そしてそれは無論、慕情などでは無い。


 命くらいならば、呉れてやる。
 この男──それくらいには、値する。



Fragments of Memories



【了】


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