凍える太陽、燃ゆる月


 力と知恵と機転と。
 それだけを頼りに、一対一で、一体どれだけやりおおせるのか──。

 それを提案したのは静司のほうだった。

 的場邸裏手に広がる広大な丘陵地帯は、春でこそ桜の美しい絶景の見所となるが、それ以外の季節となると、これといった特徴の無い、ひたすら鬱蒼としたただの小高い丘である。
 道は一切舗装されてはおらず、的場の私有地であるために滅多に入ってくる者はいない。まれに地元の悪ガキ共が入り込んだりしているという噂があるものの、理由はよくわからないが、大抵はしばらくするといなくなってしまう。私有地だからと特に監視しているというわけでもなく、立ち入りを阻む壁や塀があるわけでもない。
 そして不思議と──獣の姿も滅多に見られない。
 ただ、雑鬼の類は一際多く、妖の気配も少なくはない。的場邸自体が強力な呪術師の巣窟であることから、力あるものに力ある妖が集まってくるということは容易に想像がつく。このような土地ならば妖力の乏しい者でもそれらが視えてしまうのではないか、とも考えられるのだが、真相は明らかではない。


 この無人の地で、一切の手心無く、互いの力を試してみようと提案したのは静司であった。
 それは、正午から十二時間の間で、決着がつくまで。持てる総ての力を出しきって、互いを追い詰め殺し合う──という内実は自身の中に秘めておき、周一にはただ互いに一切の手心を加えずに力を試したい、と言うにとどめて。
 快諾とは程遠く、余りに言うから致し方無くというように、周一はまさに不承不承これを諾とした次第。
 ──そして二人は、正午の山中に相まみえる。意気の差は歴然としているが、末は果たして。









 互いに立った直径十メートルの円陣の内から交戦は始まる。
 どちらも色気も素っ気もない色無地の着物に草履だけで、武器は帯びず呪具も無い。武器を持たせれば間違いなく静司が勝つし、だが紙の一枚でも所持をゆるせば周一が勝つ。公平を期すれば、互いに丸腰になってしまう──然れば実戦とはほど遠くなってしまう矛盾には笑いを禁じ得ない。

 目を伏せていた周一が、やんわりと開眼すると、静司は身構える。

 ──相手に殺気はまるでない。
 それゆえに却って警戒するのだが、こちらの神経の均衡など、相手は当然無視だ。人間は静動のタイミングを測る際に、無意識に自分の脈拍を頼りにする性質があると言うが──その脈拍に基づいたリズムを感知し、半端なところでわざと切断するように、周一は唐突に動き出した。
「!」
 姿勢を落として向かってきた周一が、宣告通りに手加減抜きの、強烈な拳打を腹に打ち込んでくる。
 真っ正面なのに、かわせない──その理由がわからないまま、静司の体は吹っ飛んだ。二、三メートルは飛ばされて、受け身も取れずに木の幹へと激突する。
「ぅあっ!」
 背を打つ衝撃に歯をくいしばり、正面から打たれたみぞおちを抑えて静司は耐える。片腕で盾をつくり、追撃に構える──が、目の前に周一の姿はもうない。
 妖の如き素早さに、静司の表情は反射的に引きつった。見積りは多少、侮り過ぎか。
「……速い」
 ──身を隠したか。
 のっけからダメージを食らっていきなり劣勢になったかと思いきや、追撃をかけてこなかったのは手心なのか。時間稼ぎに終始しようという算段か、それとも何か別の理由か。
 互いに武器は持たないという時点で、公平ではあっても静司の方は些か不利である。この交戦地内で手に入るものならば何を使うも自由だが、速さも強さも、持久力も、打たれ強さも、フィジカル面の多くは実は周一が上回る。滅多と武張った面を見せない周一だが、彼は武芸に精通した若き達人だ。十八般全てを体得しているかは知らぬが、とりわけ棒術と柔術に関しては達人級であると聞いている。
 そして気になる噂もある。
 名取家が京八流の一派の流れをくむ古武術を相伝しているという噂は本当だろうか──その裏を取りたいという目論見もある。そしてそれが真実ならば、その使い手と一度は本気で手合わせしてみたいとも。
 静司の闘争心が震える。
 たとえそんな与太話がガセであろうがどうであろうが、周一との一対一の真剣勝負。小競り合いにもつれ込もうとしても、いつでも逃げられてしまう彼を、今日ようやく掴まえたのだ。
 逃がしはしない。
 この炎を。








 三百という桜の木の間を走り抜け、研ぎ澄まされた感覚を頼りに周一の妖力を追う。
 こうした技術を練磨すればするほど、自分が人間ではなく、妖に似てゆく気が静司はする。常人では使役できぬ異能。妖の技をもって妖祓いとは片腹痛い──と。
「……ふん、さすがに隠れるのは巧いな」
 毒づく唇がひとりでに歪む。
 すぐれた術者はみだりに手の内を明かすような真似はしない。妖物相手の立ち回りを生業とする自分たちが、たとえ手数を知られても飯の種に困るのではないが、秘すべきものを隠せぬ性こそが、賢しき人外を相手には時として命取りになるのだ。
 静司は桜の丘を抜けて山道をさらに駆け上がり、道無き道を音も無く走る。一見では想像もつかぬ健脚。仮に平均値では劣ったとしても、それを補って余りある桁外れの瞬発力と闘争心が彼にはある。
 木々のいきれが切れて、急に開く視界──一帯の集落を見下ろす、やや切り立った高みに辿り着くや、静司はおもむろに足を止めて踵を返す。
 その真正面に捉える標的は、土地勘が無いながら高みを目指すは兵法の基礎と、同じく此処を目指したに相違無い──恐らくはこの地に身を置く、己を除いた唯一の人間。
 静司は満面の邪悪な笑みを隠さなかった。
「行くぞ!!」
 火花が散るほど勢いよく地面を蹴り、静司は瞬時に間合いを詰める。
 その速さ、まさに巌霊。
 最初の仕返しとばかりに、接近格闘で仕掛けるも、仕掛ければ阻まれ、周一とて容易くは打たせない。

 ──ならば、打ってこい。

 わざと隙を作るも、しかし相手は思い通りには動かない。
 静司が会得する体術は、攻撃を受けた瞬間にこそ真価を発揮する。
 腕を短く使うことで力を散じることなく敵を打ち、狭い歩幅で攻防の総てを補う拳法──あたかも鋭い刃を的確に急所に打ち込むかのようなそれは、まさに一切の無駄を省いた功利の象徴。
 攻めるにおいては飛ぶこと、跳ねることをせず、一見地味なこの闘法は、相手が攻めることで見せる隙を突くのにもってこいの技体系である。振りを抑えるのに特化しているために、ほんの僅かな一瞬に容易く対応することができるという理屈──うまく乗せられたカモならば、それこそ扇子を畳むようにやり込められる。大陸伝来の徒手空拳である。

 だが、今回に関しては、どうやら相手との相性はすこぶる悪い。

 ほんの少し体の軸を揺らし、打ち出した静司の裏拳を、周一は流さなかった。東西を問わず、体術の防御の多くは「かわす」ことと「受け流す」ことに重点を置く。これは当然だ。受けぬならかわす、かわせぬなら流す。そうでなければ、一撃の重さに常に耐え続けなければならなくなるからだ。
 だが、事あるごとに、周一は此方の攻撃を真正面から受けて、流すことなく防いでしまう。力はそこで否応無く行き場を失い、次に周一から逃れるために倍の力を必要とする。その応酬。相手も疲労する筈だが、もとより打たせることを期待する此方からすれば、攻撃の機をすべからく奪われるも同然だ。
「どうした、静司。腰が痛むか」
 何だかんだで、周一は戦闘に高揚する質である。だが、それを弱点にしない──鼻持ちならない奴。だが、此方はそれが時に命取りになる。
 うっかり挑発に乗りそうな自分を諌める意図もあり、いったん立ち位置を下げるも──ぐっと踏み留まり、瞬時に殺気を察して退いた周一の鼻先を、刃と化した神速の脚の弧がかすめる。

 二人の間に、糸のような鮮血が舞うや──鼻から洩れた静司の笑みが、周一の舌打ちに重なった。

「上等だ」
 弾くように裂かれた鼻先を拭うと、いよいよ周一の脚が地面を蹴る。瞬間に、鼓動が打つ。刹那えぐれる地表に見る静かな激昂に、静司は思わず圧される。そして悦びと興奮に、背筋が震えた。
「来い」
 拳を内に向けて構え、静司は攻撃に備える。相手にとっての最初の攻め、最初の一撃は特に危険だ。破れかぶれの素人なら兎も角、くせ馬を挑発するのはまさに命懸け。
 間合いを詰め、踏みしめた脚が一際強く地面を穿った刹那、静司の視界から周一の姿が一瞬消えた。姿勢を落としたと気付いた時には遅かった。彼は静司の懐に入っていた。視覚の「盲点」とタイミングの攪乱、二つの因子は静司の迎撃体勢を一瞬にして崩壊させた。
「迂闊だな」
 打撃──ではなく、周一は静司の顎を片手で掴んだ。ものを掴むような乱暴な仕草だ。そして、グイと引き寄せられる。
「そんなで頭主が務まるのか?」
「!」
 挑発丸出しの言い種に張り倒してやろうとするも、その手もいとも容易くからめ取られてしまう。
 そして、了解も取らずに無理矢理唇を奪われる。素早いどころか、神速だ。
 いつもなら胸が逸るところが、血中のアドレナリン濃度が高すぎるのか何なのか、静司は瞳孔を大きくしたまま吠えるように唸って唇を引き離し──

「……色仕掛けを技と言うには、少々面白味に欠けますね」

 戦闘続行。
 引き離したものを再び引き寄せて、先ずは一発目の牽制が至近距離で鎖骨に入る。だが二発目に狙った顎下への強烈な手刀はまたしても防がれ、弾かれた。流さずかわさずでは延々間合いに入り込むことが出来ず、一向に戦闘にはもつれ込まない。
「周一さん」
「うん?」
 何ということか──息があがっているのは静司のほうだけだ。
「ふざけてますね」
「いいや。まさか」
 名取周一のトレードマークみたいな胡散臭い笑顔に、静司の頭に血が上る。
 眼前で立てた手首をクルリと反転させ、静司の目が標的を定める。頭、首、胸──腕を使った技が主立つだけに、確かに攻撃範囲は限定されがちだ。それでも実戦では負け知らず。勿論武力行使は本業ではないし本望でもないが。
 ──だが、駄目だ。
 攻撃を待っているのは向こうも同じ──相性が悪いとは、そういうことなのだ。
「……なるほど、京八流を汲む武術とは、そういう──」
「京八流?」
 せめてネタでも引き出そうとした一言に、周一はきょとんとした。
 そして、ややあって──やっと思考が追い付いたように、ふふ、と笑った。
「………そんな噂まで出回ってるの。怖い業界だなあ」
「商売仇の情報も時には重要ですからね」
「でも、それは違うよ静司」
「え?」
 じり、と周一の草履が、地道をにじるように踏みしめる。静司はまた思わず身構えた。
 妙な感じがした。空気が変わった──そんな気がしたのだ。
 その最中で、周一は緩慢な動作で伊達眼鏡を外し、袖にしまいこむ。

 ……この野郎!

 それが標準装備になっていたために、気付かなかった。あれは一種の験担ぎのアクセサリーのようなものだ。彼に視力矯正は必要ない。接近戦闘には邪魔になるだけのものを──今頃外して見せるとは!
「──今のは、君の闘い方を真似しただけだ。君がどういう場所を好んで、何をきっかけにして、どういう戦術で挑んでくるか。それを考えながら君の動きを観察して、そのまま真似をしただけさ」
 指先をポキンと鳴らして、周一は微笑する。
「私は猿真似が得意なんだよ、何しろ【名取】だからね。いかにもプロフェッショナルにはなれなそうな、半端者の名前だろう?」
「……」
 全身から血が引いていく不穏な感覚に、静司は言葉を失った。
 静司とて、真に周一を殺傷せしめんがために、全力をあげて戦ったわけでは確かにない。だが勝敗を決するという範囲において許される力は駆使したつもりだ。だが、そもそも攻撃はことごとく封じられ、今に至るまでに一度たりとも急所には迫ることはできていない。
 動きを模したというだけの周一にさえ、太刀打ちできぬというのは、果たしてどうした目算の誤りか。京八流の使い手、そんな与太話はもはやどうでもいい。
 静司とっての真の難敵──それは力あるもの、強きものではない。
 ──正体の知れぬものだ。
「何処で聞いたんだ」
「──え」
「京八流」
 いきなり聞くと、まるでラーメン屋の話でもしているみたいだ。思わず自爆して吹き出しそうになったが、思わぬ周一の真面目な相に、不謹慎な笑いは即座に引っ込んだ。
「……会合に時々顔を出される、関西の古い家の方からね」
「誰?」
「……!」
 会合に集まるようなアングラな人間の身元など、探らぬのが暗黙のルールだ。問われたところで誰も答えはすまい。そんなことはとうに承知の筈の彼が、ストレートに口に出して静司の不安は煽られる。周一の本心はいつもの笑顔に隠れて、まるで見えない。
「聞いて、どうする──」
 答えはなく、謎めいた無言の笑みが、さらに静司の不安を煽る。こいつわざとやってるんじゃないか、と思わず勘繰ってしまうほど。
「……古武術の源流、か。今じゃ軒並み架空の話だと思われているんだろうが、まったくそうというわけでも無いらしい」
 丸腰の周一は、崖に一本だけ立っている楓の木を背に腕を組んだ。与太話、と切り捨てた途端──話が核心に迫る。相性の悪さは、こんなところにまで現れる。
「創始は鬼一法眼だと伝えられている。知っているだろうが、妙な名だろう?この怪人物が八人の僧侶だか弟子だかに伝えた刀術、それが京八流だという。だが、そんな話はデタラメかもしれない」
「それが、一般的な見解だと──」
「違う違う」
 周一は、ちょっと愉快そうに首を振った。
「名取の実家にある古い時代の記録に、この鬼一法眼とおぼしき人物が、実は妖だったという記述があるんだ」
 静司は目を丸くした。
「……何ですって?」
「まあ、勿論真偽なんてわからないけどね」
 飄々と言う周一に、眉が怪訝に歪む。
 思いもよらぬ話の飛躍である。
「何が書いてあったんです」
 思わず食いついてしまう。京八流──当初知りたかった話とは、余りにも毛色が違いすぎるけれど。
 なかなか面白い話だよ、と前置きをして、周一は続けた。
「──妖の正体を知られた鬼一法眼は、八人の僧侶たちに殺されて、ばらばらにされた挙げ句に食われてしまったんだそうだ」
「……食った?食べたんですか?……妖を?」
 周一は微笑した。
「そう。八人が各々様々に、異なる部位をね。右目を食ったもの、左目を食ったもの、臓物をまるごと食ったもの、喉仏を飲み込んだもの、牙を砕いて飲んだもの、男根を食ったもの、血を飲んだもの、焼いた灰に身を浸したもの──彼らは皆、それぞれ異なる力を手に入れたというんだ」
「………」
「けれど記録はそれきりだ。まあ、そりゃそうだろう、その八人が本当に力を得たとしても、また得なかったとしても、鬼一法眼を殺したその後も八人が仲良く一緒に京に留まったとは思えないしな」
「……」
 君なら何処を食べる、と茶化す、乾いた周一の笑い声が、風の音と共鳴する。
「けれども面白いのは、鬼一法眼というのはそもそも室町初期に書かれたと伝わる『義経記(ぎけいき)』という読物に初めて登場する架空の人物であるはずが、私が読んだ記録はそれよりもさらに200年ほど古い平安末期の記録なんだよ。だから実際には鬼一法眼、なんて名前は登場しないんだが──」
「……つまりその、『義経記』なる書物の記述と、話が重なる部分がある、と」
「そういうこと。つまり『義経記』自体が完全な創作ではなくて、さらに前にあったルポルタージュのようなものをリライトしたものなんじゃないかな、と思ってね」
 ──確かに、妙に具体的な割には書かれっぱなしの尻切れの記述は、現代の民間伝承の覚え書きにも通じる。
 古流武術は、実際には明治維新を期に多くの流派が絶滅している。近代化による武家社会の消滅が、共に古流武術の流派を失わせたのだという。ゆえに今では、先の京八流や関東七流といった言葉が具体的に何を示したのかもさだかではないとされている。
「さらに出自がまったく別の、異なる記録にも、鬼一法眼とおぼしき妖の力を受け継いだという者の話が出てくる。書かれたのはさらにもっと先──戦国末期から江戸幕府成立の頃と考えられるんだが」
 随分スケールの大きな話ではないか。始まりが源平末期、果ては江戸幕府成立とは。時代を跨ぐこと、ざっと400年だ。
「……随分飛びますね、時代が」
「そうだね。これもまた胡散臭い記述なんだが話はそのままで、遠い先祖が八つに切り分けた鬼を食った、という一族の記述なんだよ。一族には古くから『魑呑』という渾名があったそうだ。そして彼らの一族に時折生まれる恐るべき強者の体には、常人には見ることのできない不思議な「痣」があったとも──」
「痣……?」
 思わず目が引き寄せられる、周一の皮膚の上を往き来するもの言わぬ黒い影。
 常人には見ることのかなわぬ不思議な痣。「時折」とはいえ、そんなものが特定の血族の中に偶発的に何度も現れるとは到底考えられない。
「……これについては具体的な記述が無いのでこれ以上は何とも言えないけどね。特に痣や印は妖にとっては合図のように頻繁に使われるものだから──ともかく」
 楓から背を起こし、ざ、と彼が立った刹那。
「!」
 ──周一の身体から、恐ろしいほどの殺気が沸き上がったのだ。
 静司は、無意識に後退った。
「その一族が、名取家と関係があったのか──或いは直系なのかは判らないけれど。或いは総てがただの創作なのか──けれどももしかすると、世間で言う京八流、というものは、実は古流武術の様式を指す言葉ではないのかもしれない。それは其の身をばらされて食われた大妖の八つに分かたれた力の正当な継承ルートであり、今もその血脈は途絶えることなく細々と何処かに流れて存在しているとしたら──」
 淡々と話す周一に、静司は身構える。
 馬鹿げた、と言えばこれほど馬鹿げた話は無い。鬼一法眼。京八流。妖を食らった八人の僧侶。その血を伝える一族。伝説と言うにも烏滸がましい、あからさまに創作であるはずのエピソードの数々。
 けれども──まさか。

 一歩を踏み出した周一に、静司は迎撃の姿勢を取る。落ち着け、真偽をただすのは後でもできる。思考を切り替えるべきだ──妖を相手にするならば、どう戦うか。
 人の血に混じった妖の力。だが、それがどのように顕現するかなど、静司は考えたこともない。

 ヒュ、と素早く頭を下げた周一に、静司はさらに一歩身を退いた。懲りもせずに「盲点」を攻めるつもりか。静司は腰に締めた帯をするりと解き、生地の上に魑を走らせて周一の足元を絡めとる。当初の規則に反するが、今はやむを得ぬ。
「無駄」
 体勢を戻さずに低い姿勢から急にヒョイと跳んだ周一の身体は、空中でくるりと弧を描く。
 あ、と言うが早いか、空中で伸ばされた周一の腕が、静司の首を掴む。静司の帯は、楓の幹に引っ掛かって揺れていた。
 周一の足が地面に降りる頃には逆に、静司の身体が空中に舞う。失った重心は着地した周一の体に預けられ、彼の腕は巨大な山刀でも振るように、静司の身体を振り抜いて──。
 衝撃も何もなく、背中からストンと綺麗に地面へと落とされた静司は、完全に無防備だった。
「どうしたの、静司」
「………」
「びっくりして、やる気なくした?」
 覗き込んでくるのは、今までと何ら変わり無い、端整で穏やかな微笑み。静司はもはや当初の目的など完全に失念し、潤んだ瞳で彼を見詰め返した。
 何とも形容できない、妙な気持ちだった。
「周一さん、あなたは──」
「ごめん、嘘です、さっきの話は」
 続きを遮るように、周一は言った。
「……」

『何とも形容できない、妙な気持ち』は、即座に凍りついた。
 静司は、目の前の男が何を喋っているのかが、急に分からなくなった。

「…………」
「静司?──静司?ごめん、だって、武器や術は無しに、力と知恵と機転だけを使ってやり合おうって話だったから──」
「………………」
 静司は黙っていた。
「でもその通りにしただろ?さっきいきなりルール無視して術使ったの君のほうだし──あ、それに鬼一法眼の話だって全部が全部嘘ってわけじゃ」
 無表情・無言の静司の頭上で、周一は青くなって捲し立てた。しかし、一瞬にして脳がほぼ休眠状態に陥った静司の耳には、彼の聞き苦しくわけのわからない弁明など、ほとんど入ってこなかった。
 しかし、そうだ。
 確かに──そうだった。

 力と知恵と機転と。
 それだけを頼りに、一対一で、一体どれだけやりおおせるのか。

 知恵と、機転と──。

 静司の中で、急速に怒りがむくむくとわき上がる。
 謀られた──知恵と、機転に。そして、力に遊ばれた。確かに自らがルールを提言した以上、己を責める以外に道は無いが、一撃の油断を誘うためとはいえ──何という悪辣な。
 ……言葉が出ない。
 確かに、これが実戦なら、静司は今頃生きてはいまい。なじろうと思えば思うほど、本当に何一つ言葉が出てこない。完全に呑まれて、真偽などそもそも疑いもしなかったのは紛れもない事実だ。

 ──何という、悪辣な名優か。

「……あの──静司?」
 一転しておろおろと、気弱な顔をちらつかせる彼を──静司はもはや信用しない。これとて演技でないという保証はどこにもない。
 ただ、もし仮に、妥当性というレベルで、それを確かめるすべがあるとすれば。
「………」
 無言のまま、何の前触れもなく、おもむろに静司は利き腕を駆動し、渾身の力を込めた拳で周一を殴った──つもりだった。

 だが、当たらなかった。
 空振ったのだ。

 素早く身をいなした周一の目に、その時初めて深刻な焦りが見えた。静司は無言のうちに激怒し、そしてなおも畏れ入る。化けの皮を剥がされそうになって、初めて表情にぼろが出るとは。
 身を起こしながら、静司は無言で解けた帯を結び直す。

(──嘘、か)

 名取周一にとって、嘘は最大の武器だ。そして、そう思わせることが、また武器なのだ。嘘が最大の武器だという嘘──この自己言及が不可能な嘘という矛盾事。
 静司は、さっきの与太話を思い起こす。あれとて果たして「本当の」嘘なのか。だとすれば、どこから、何処までが嘘なのか。この矛盾で出来たような男とやりあうには、その真偽の仔細を振り分けねば、泣き所を暴き立てることなどできはしない。
 何故ならば、たとえば先に周一の口から聞いた『魑呑』という渾名──その記述を、静司はいつのものとも知れぬ古い文献で見たことがある。『魑呑』とは「すだまをのむ」と書き、読みは「ちのみ」、その真の意味は『血飲み』だということを。八人の妖喰いの所業と矛盾の無いそれらの話は、恐らく完全な創作では無いのだ。そしてその裏を取るのは、多分恐ろしく困難であろう。

 それが面倒なら、今、総てを放棄して、戦うだけの機械となるか。今度こそ全力をあげて──ただ相手を殺傷せしめんがために。
 この恐るべき──鬼一法眼の血肉が後世に伝えし「京八流」の使い手を。
「……」
 静司はしばし悩み、そして決断した。
 永遠のような一瞬だった。

「戦闘続行だ、名取周一」
 静司は言って、首を鳴らした。


「覚悟しろ。ぶっ殺してやる」


【了】


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