シティサイクル・ダイアリーズ


 静司には、コンプレックスがあった。

 まず、料理ができない。これは何しろ上げ膳据え膳で育ってきたお坊っちゃんであるから致し方あるまい。必要があるなら精進一択である。

 次に、スペイン語を話せないこと。日本語、中国語、英語、クジラの歌までならセーフ、しかしそれ以外は完全にアウトだ。広東語、北京語の違いはあれど世界でもっとも多くの人間が話す中国語、そして世界共通語とされる英語に次いで、世界20カ国で公用語として使用されているスペイン語は世界三大言語のひとつと言っていい。そこでマジョリティの優位性に心動かされ、かつて怪しい笑うセールスマンに高価なリスニング教材を買わされたのだが、結局静司が覚えたのはターミネーター2の名台詞「Hasta la vista」だけだった。そして些細な欲求は見事にコンプレックスへと昇華した。

 最後に、自転車に乗れないことである。静司は稀にやむをえず単車を無免許で乗り回したりもするが、基本的に乗り物の運転というものが出来ない。右目のことがあるので免許を取るのは難しいにせよ、自転車にも乗れないのである。
 しかし諸君──嘘だと思われるならば、片目を塞いで自転車のペダルを漕いでみたまえ。遠近感の喪失による危険というものを、つぶさに感じることができるだろう。そのための時刻は夕刻がなお好ましい。モノの輪郭を歪ませる西日は、すべての隻眼の天敵である。

 ぱっと思い付いただけでも三つの欠点。そして車の利便性を羨んだり、無免許で単車を乗り回して怖い目に遭うよりも、せめて自転車に乗れるようになりたいと静司は常々感じていた。
 そこで、遠く10kmばかり離れた駅前のクッキングスタジオとスペイン語教室に週一で通うため、静司は自転車に乗る練習をはじめた。一気に三つのコンプレックスを克服する、大変コストパフォーマンスの高い計画だった。

 人知れず、暇さえあれば、押すとオナラそっくりの音がブォーと鳴るホーン式の警音機を取り付けたダサいシティサイクルに跨がった静司は必死になって練習をした。
 しかし、バランス感覚が悪いのか何なのか、まったく上達の兆しが見えなかったので、式を呼び出して後ろを押さえて貰いながら、静司は一生懸命ペダルを漕いだ。それでもおよそ20回は派手に転び、内一回は崖下に転落しそうになって、式と共に抱き合って震え上がった。この訓練で、分厚いジーパンが一枚ボロボロになって股が裂け、穿けなくなった。
 自転車に乗るための修練は幼少期が最適だというのは、単に順応性に富み、恐怖心を克服しやすいためだけではなく、もっと散文的な意味もある。単に子どもは体が小さいから、転んでも怪我が軽度で済むのである。まして子どもは頻繁に小さな怪我を負うものであるから、嫌悪刺激となって後々恐怖心に苛まれるなどということはほとんど無い。
 そんなこんなで、(無駄な)訓練も二週間が過ぎるとうんざりしてきた。なおもって後ろを支えていて貰わないとまったくバランスが取れない静司は、成長が遅れて独り小さいままのヒヨコのような存在だった。少し上達したといえば、10秒前後なら式がこっそり手を離しても前に進めるということくらいである。
 おかげで駅前留学とクッキングスタジオへの往復は、いつまで経っても徒歩である。

 そこへやって来たのが、近隣に住む小学生らしきガキどもであった。日々自転車に弄ばれては転倒し、ぼろぎれのようになっていく静司を、最初は笑いながら指差していた彼らだったが、いつしか哀れむような目で静司を見るようになっていった。
 実に上から目線の、ムカつくガキどもだった。哀れみの目で見つめられる度に、静司は鋭い目で睨み返すのだった。
 そして──ある日。
 近付いてきたガキの中の一人が、物凄く偉そうに言った。
「ねえちゃん、そんなじゃいつまで経っても乗れねーぞ」
 静司は言った。
「にいちゃんです」
 ガキは思いっきり狼狽えた。
「マジかよ……。ファン・ビンビンに似てると思ったのに……」
「ませたガキですね。もうあっち行ってくださいよ。子どもは嫌いなんです」
「え?何で?」
「無神経だからです。大人には色々事情があるんですからもう放っておいてください」
 ツンとそっぽを向いて、再び自転車に跨がった静司の前カゴを、ガキの一人が押し留める。
「何するんですか」
「あームリムリ。それじゃ何べんやっても転ぶだけだって」
 そんなことは判っている。しかし、道行く自転車の優雅な走行を見よう見まねで模倣すれば、自ずと同じスタイルにならざるを得ないのだ。
「いいかビンビン、最初は前カゴを思いっきり左右に揺らしてバランスを取るんだ」
 そう言ってガキは遠くに見える車道を走るおばはんのママチャリの影を指差す。
「最初からあんなふうに乗ろうってのが間違ってんだよ。どうしてもバランスがとれねーならこう、ケツをサドルから浮かしてだな」
「だからファン・ビンビンじゃないですって」
「頭振ってケツ振りながらバランス取るんだよ最初は」
「うっわエロい」
「ビンビンだけに……」
「そのうち真っ直ぐ漕げるようになるからよ」
 口々に余計なことを喋りたくるガキ共に即刻愛想を尽かし、静司は練習場所を変えようと心に決めた。







 しかし、ガキ共の主張は間違ってはいなかった。別の河川敷で式と練習をしている内、「頭振ってケツ振りながらバランス取る」を実施すると、曲がりなりにも助けなしに走行できることが判明したのだ。
 腹が立つので心の中でも礼は言わなかったが、取り敢えず静司は非常に無様な自転車走行法を身に付けた。
 しかしこれだと相変わらずバランスが悪く、スピードも出ない。しかし、ガキが言うにはそのうち真っ直ぐ漕げるようになるとのことだったので、静司は思いきって公道に出ることにした。妙に誇らしい気持ちだった。曲がりなりにも自転車に乗れるようになった自分に、変な自信を覚えたのかもしれない。
 ハラハラしている式を伴って的場邸に戻り、夕方からレッスンの予定が入っているスペイン語教室と、クッキングスタジオの実習に向けて服を着替える。髭の侍従にいい加減仕事しろとなじられたが、今はそれどころではない。早く駅前まで行かなければ──時速10kmで約一時間。今の乗り方でそこまでスピードが出せるか否か。それにここいらは田舎なだけに、意外に車の通りが多いのだ。傾斜の多い土地での生活というのは、都市で暮らす以上に車がなければ成り立たない。
 うっかりハンドル操作を誤って、ぺしゃんこにならなければよいが。
「ハイヨー、シルバー、それいけー!」
 一度は言ってみたかった、スティーブン・キングの恐怖のピエロ小説「IT」の台詞。まさかこんな日が来るとはと感無量に浸りつつ、庭先からフラフラと蛇行しながら、静司は10km先の駅前通りに向かって走り出した。
 その500mくらい先で、こちらに向かって歩いてくる紙袋を持った人影に出会った。最初の障害物。目深に帽子をかぶった眼鏡で茶髪の着物の男──どっからどう見ても名取周一ではないか。
 静司は生まれたての子羊のようにフラフラと車体をコントロールしながら、どうだと言わんばかりに周一に向かって親指を立て、もの凄くいい顔をして笑った。
「周一さん!自転車に乗れるようになりました!」
「乗れてねえよ」
 片腕の支えを失った静司は、即座に派手に転倒した。









 シルバーとは名ばかり、赤いシティサイクルを運転する周一の後ろに、立って乗る静司の右手には「妖怪ウォッチ」のキャラクターがプリントされた可愛いハンカチが巻かれている。さっき派手に転倒した際に、自転車の下敷きになって負傷したのだ。
 いったん邸に戻って手当てをしようという周一の提案を断固拒否して、静司は駅前に向かうことを選択した。かくして応急手当てをし、周一が自転車を運転する羽目に陥ったのであるが──。
「……そういえば周一さん、もしかしてうちに何か用事があったんですか?」
 頭に血が昇って何も考えていなかったが、そうでなければあんな所で遇う筈がない。
「いや、家じゃなくて、君にね」
「おれに?」
「そう。うちの事務所が子ども向けのイベントをプロデュースしてね。そのイベントで手に入る限定グッズにたまたま君の好きなのがあったからたくさん貰ってきたんだ」
「……もしかして、妖怪ウォッチ!?」
「そう、それ。……ちょっと、ガタガタ揺れるなバカ」
 周一が持参した紙袋にそっと手を伸ばすと、負傷した箇所をぴしゃりと叩かれて、静司は飛び上がった。
「いたーい!」
「後で見ろアホ!ガサガサ動くな重たいのに」
「はい……」
 しょんぼりしながらも、静司はニヤニヤ笑っていた。周一が妖怪ウォッチのハンカチを持っているなんて、何だかおかしいと思っていたのだ。
 周一さんが。
 周一さんが、おれのために。
 畜生、怪我なんかするんじゃなかった。このハンカチ──コマさんやコマじろうが血で汚れたらどうするんだ。そう思いつつも、ハンカチで包まれた右手を見つめると、目尻がフニャリと緩むのだった。
 しかし、まさに丁度途半ばというところ、さして何もない山沿いの舗装路が延々と続く途中、静司は道の傍らに奇妙なものを見た。
「周一さん」
「うん?」
「あれ……見てください」
「おや」
 道の山手の窪みに置かれていた道祖神──その頭部が粉々に砕かれて、散らばっていた。
「……ちょっと、降りますね」
 静司はピョンと跳んで着地して、砕けた道祖神の傍に駆け寄った。
「……」
 破損しているのは頭部だけだ。多くは地蔵とは違うスタイルで、完全に頭と体に境界線があるわけではない、一枚の平たい石を掘り抜いた道祖神。その首から上だけが、まるで内側から破裂したように木っ端微塵になっている。そこから、妙に禍々しい気配が立ち上ってくるのだ。
「……周一さん、うちの方に来る時、これに気付きました?」
 周一の来た方向から的場邸に向かうには、獣道を突っ切るか、そうでないならこの道を歩いて通るしかない。唯一のバス停はもう少し先なのだ。
「どう……かな。何事も無かったと思う。単に気付かなかっただけかもしれないが」
「ふむ」
 周一は性格上、歩きスマホができない質である。それに独りで歩いて来たのなら、他に気取られるものもあるまい。こうも派手に破損している賽の神──まして神経質な周一が気付かぬはずが無い。
 そっと手を延ばすと、おもむろに周一の鋭い制止が飛んだ。
「静司!触るな!」
「え?」
「何か変だ──何かある!」
 静司は思わず手を引っ込める。
 この禍々しい気配は確かに変だ。
 道祖神──賽の神とは境界そのものの象徴である。「内と外」を分けるもの──ゆえにその境界線に異変が生じて、境界の内側に不浄なものが入り込んでくるということは考えられる。しかし、この瘴気のような何かは、どうしたことか外からではなく、道祖神本体から立ち上っているのだ。
 自転車を脇に止めた周一が、静司の傍らに腰を落とす。フワリと石鹸の匂いがして、静司は間近で見る周一の端整な横顔に見とれた。時宜を弁えろと理性がたしなめるも、色惚けた静司にそんな声は届かない。ヤバいものに相対しているのは判っているが、こんな間近に周一が居ることのほうが遥かに重要だ。
「静司、下だ」
「え?」
「道祖神が置かれている場所の真下……何かあるぞ。ちょっと下がって」
「……」

 ──周一さんって、紳士なんですね。弱っちいクセに。

 言おうと思ったが、この期に及んでそんなこと言ったら今度こそどつき回されそうなので止めておいた。
 しかし、薄笑いは即座に凍りついた。周一が退かせた壊れた道祖神のまさに真下、舗装から僅かに外れた地道の中から、奇妙な物体が覗いていたのだ。
「な、何、コレ……」
 二人同時に目を剥いて、思わず後退る。
 地面から覗いているのは、紛れもない肉の塊だった。
 触らなくても感触が想像できそうな、ブヨブヨとした肉袿色の有機物。
 何かに似ている、という比喩は一切出てこない。何にも似ていない。無理矢理何かに似ているとこじつけるならば、包茎の老人の男性器が、人間の成人の頭くらいのサイズまで巨大化したような感じ、だろうか。
 ビクビクしながらもそっと手を伸ばすと、手首をがっしりと掴まれる。ハッとして周一を見ると、眼鏡越しの瞳が鋭く此方を睨んでいた。
「………今日はやたら不用意だな、君は。触るんじゃない。これは──『太歳』かもしれない」
「え?」
 太歳とは──木星の化生。
 中国に遥か昔より伝わる災いをもたらす存在として神格化されてきた謎深い妖だ。太歳は木星と連動して土中を移動する肉の塊として伝えられ、災いが起こる場所にその姿を現すと言われている。またこれを掘り起こしたものはその一族もろとも凄まじい災厄に見舞われるともされている。
 しかし、恐ろしい厄神としての顔がある一方、その肉を口にすると不老長寿の益を授かるとも信じられており、かつて徳川家康が駿府に滞在していた折、これが発見されたが逃してしまったという言い伝えもあるが、真偽は定かではない。ただ、家康は不老長寿の仙薬になったはずのものを手に入れられず、大層残念がったという──。
「太歳って……周一さん、未確認生物ニュースとか好きなクチですか?意外だなー、可愛い」
「じゃあ君は何だって言うんだ」
「巨大化した爺さんの包茎オニンニン」
「オニンニン言うな。自宅まで5kmの所にお爺さんの陰茎が埋まってるのか。私はそっちのほうが嫌だな」
「……」
 それもそうだな。そんならまだ太歳のほうがマシだ。ウカカと笑って視線を地中の肉の塊に戻した瞬間、静司は垂直に飛び上がって隣の周一に飛び付いた。
「ギャーーッ!!!?」
「ど、どうした!?」
「いっ、いま、今、め、め、めが」
「めめめが?」
「肉のシワの間に、目が」
「目?」
 静司は──見てしまった。
 皮余り気味でしわくちゃの肉の塊の表面に、パチリと目が開いたのを静司は確かに見たのだ。同時に表面に走る無数の皺のヒダヒダの中身が、実は全部目だったりしたら、と思うと全身が総毛立った。字面のイメージとしてはキッチュだが、実際目にすると無茶苦茶気色悪い。
 ──そして、次の瞬間。
 目の前でいきなり静司の想像がストレートに具現化された。シワシワの肉の裂け目が一斉に開き、充血ひとつない艶々の眼球が一面に花開いたのだ!
「きゃあーっ!!!?」
 二人は同時に裏返った悲鳴を上げ、さらに背後に跳び退った。不様に尻餅をついて縺れあい、互いに力の抜けきった腰を支え合おうとする。端から見ると間抜け極まりない。人通りが無かったのが、せめてもの救いだ。
 名取周一、的場静司、若いながらも互いに無数の妖と対峙してきた祓い人ながら、幾ら何でもこんな気持ち悪いものは見たことが無かった。
「ふ、不老長寿だぞ静司」
「いや、ちょっと無理」
「食べるとかちょっとね」
「……ビジュアル的に」
 よしやこれが事実太歳であったとして、この肉塊、全貌はどれくらいのサイズでどんな形をしているのだろうか。余り考えたくない。
「……静司、行こう」
「え──でも」
「もしも本当に太歳だとしたら、それこそ我々には手に負えない。そうでなかったとしても、多分道祖神の頭が木っ端微塵になったのはコイツのせいだ。地中を移動していて、道祖神──賽の神の境界線に引っ掛かったんだ、多分」
 それでこんな不自然に頭だけ破裂したのか。何という暴挙。ここの道祖神の顔、絵文字みたいで可愛かったのに──。
「許せない」
「いや許すとか許さないとか無いから」
 頭の破壊された哀れな道祖神の小さな胴体を無理矢理レッスンバッグに詰め込む静司の後ろで、真っ赤なシティサイクルのスタンドを蹴り、周一は乗車を促す。一刻も早くここから去りたい、厄介事に巻き込まれたくない──若者らしい結論に、颯爽と発車した自転車は、さっさと破壊された道祖神の跡地から遠ざかっていく。わけのわからないものには関わらないに限る。それは何かと反りの合わない二人の、共通した意見であった。
 信号機も何もない、国道に続く山沿いの一本道を2ケツで進みながら、聞こえるのは周一の荒い呼吸と木々のさざめきだけだ。何となくアスファルトの焦げたような臭いがする中で、面倒な作業を強いられた周一には申し訳無いが、こんなたまにはハプニングも悪くないな、と静司は思う。
 まあ、帰りは遠回りになるけれど、取り敢えずあの肉塊のあった場所は通らないようにしよう──そう思って、何気なく背後を顧みた静司は、言葉を失った。
「…………周一さん」
「うん?」
 そして、振り返らなければ良かったと、心から思った。
「後ろから、肉の塊が追っかけて来てるんですが」
「え!?」
 一瞬強烈に蛇行して、振り落とされそうになるも、何とか体勢を持ち直す。おもむろにスピードアップした自転車は、坂の緩急にあわせて変速機を変えながら走り続ける。
「……ま、まだ追いかけてきてる!?」
 再び背後を顧みると、その距離はむしろ詰まってきている。
「き、来てます。向こうの方が速い、かも……」
 なすすべの無い静司の語調は弱い。
「ちなみにそれって、どれくらいの大きさ?」
「え?えーと、えーと……24型テレビくらい……かな?」
「へえ……結構、大きいね」
 辛うじて、というか無理矢理冷静さを保ちながら、二人のぎこちないやり取りが高速で走る自転車の上で交わされる。余りのスピードに、チェーンから火が噴きそうだ。万一足を滑らせて車輪に巻き込まれでもしたら、下半身とは永遠にオサラバだろう。
 その太歳らしき塊は、体の半分を地中に埋めたまま、舗装された道路を破壊しながら進んでくるのだ。道路は熱に溶けたように軟らかくなって周囲に弾け飛び、その惨状に反してほとんど音がしない。なるほど、あのアスファルトが焦げたような臭いはコイツのせいだったのかと納得し、もう振り返りたくないなと思いながら、静司は周一の背中にぐったりともたれ掛かる。
「静司、落ち着け。撒くぞ。しっかりつかまってろ!」
「こうしてると」
「え?」
「こうしてると……おれたち、恋人同士みたいですね……
「お前もう死ねばいいのに」
 遠慮も合図も無く山道に入り込んだ自転車が、無理矢理舗装されていない急勾配の坂道を転がり落ちるように走り降りる。悲鳴が勝手に口から洩れ出たが、運転している周一はもっと怖いだろう。ダウンヒルでようやっと何とか走れるような強烈な悪路を、シティサイクルを2ケツしてどうやって追手を撒こうというのか。
 周一はほとんどペダルから足を離した状態で、ひたすら車体のコントロールに専念する。凄まじきはその動体視力。今、もし石ころ一つにでもつんのめったら、間違いなく二人仲良くあの世行きである。
 もう背後を振り返る余裕は無かった。もはや命を周一に預け、ひたすらその背にしがみついた。無軌道に伸びた細い木々の枝が、鞭のように二人の体を傷付けたが、少しも痛くなかった。
 背後に迫る何かを、視認する勇気は無かった。何でこんなことになったのか──事の始まりがよく判らなかった。周一がやって来たことで太歳が現れたのか。静司が通りかかったことで現れたのか。或いは何も関係の無い、ただの偶然なのか。ならば何故追われなければならないのか。
 理不尽には慣れたはずだが、これはちょっとあんまりだ。周一の神掛かったコントロールには何やらTVでモトクロスを見ているような気分にさえなったが、ほとんど70度くらいある坂道が急に途切れて、自転車ごと空中に飛び出した途端、静司は何故か「大霊界」の著者の顔を思い出した。











 鈴の音のような水の音。
 さらさらという、綺麗なせせらぎの音──穏やかな川の流れ。

 ──拝啓、丹波哲郎先生。

 特定の宗教・宗派が掲げるイメージにはやたら否定的な先生が、何故か三途の川の普遍的なイメージについては否定しない理由がわかりました。
 先生は、ホントに、大霊界に行ったり大霊界に行った人から手紙を貰ったりしてたんですね霊界通信、でしたっけ。死後の世界とか、ユーレイとかレーコンとか、管轄外なのでよくわかんなかったんですが。
 でも、生前の執着を捨てないと、三途の川は渡れないって、丹波先生、言ってたじゃないすか。
 でもおれ、早くスペイン語をマスターしてコンプレックスを克服したいし、クッキングスタジオでお料理を覚えて周一さんにご飯作ってあげたいし、何より、ちゃんと自転車に乗れるようになりたいし。あのムカつくガキ共に、一応お礼も言わなきゃいけないし。
 それに周一さん──ああ、周一さんはどうしたんだろう。
 ……死んじゃったのかな。
 そういや、生前一緒になれなかった恋人とかも、大霊界では一緒になれたりするって先生言ってたけど、周一さんのこと気になったままじゃ、三途の川は渡れません。実は渡し守なんていないって、先生、生前に暴露してたじゃないですか。10年も20年も悶々してやっと渡る人も居るとか妙に具体的なこと言ってたけど、あれってマジですか?そんな拷問みたいなのやだよ。周一さん、ああ、周一さん。お願いだから。


「………お願いだから、一緒に死んで………」


 ──そう呟いた静司の頭を、平手がスパンと叩いた。
 存外に容赦の無い一撃に、静司の目は簡単に醒めた。

 目が醒めたそこは、ただの現実──ショボい川がジョロジョロと小便みたいに流れている河川敷だった。

「縁起でもないこと言わないでくれ。私はまだ死にたくない」
「………」
「大体何だ、丹波哲郎とか大霊界とか、怪しい事を言いながら人の名前を連呼しないでくれないか」
「…………」
 指先が、尖った所の無い下流の丸まった石を掴む。ヒヤリと冷たい感触が気持ちいい。
 どつかれた後頭部を、今度は撫でてくる素手の感触がある。こっちは暖かい。間違いなく生きている者の手──周一の手だ。
「どこか、痛い所は?」
「ううん……」
 痛みの自覚はまるでない。死を覚悟した割には、あまりにもソフトな結末だ。エクストリームな逃走劇に頭が揺さぶられ、何やら現実感が無いのが気持ち悪いが。
「三途の川……」
「残念だな。ただの小川だよ。昔は大きな流れだったみたいだが」
「……」
 ゆっくり身を起こすと、落石で塞き止められ、流れが途絶えたらしいかつての大流の跡地に自分たちが居ることを知る。その少し離れた場所に、前輪が外れて全身がひん曲がってしまった静司のシティサイクルが立て掛けられていた。
「あ………」
「ごめん、君の自転車、壊してしまった」
「………」
 壊「れ」てしまった、の間違いだろうに。
 それでも優しい周一は何とかしようとしたのだろう、散乱した小さなパーツが集められた跡がある。それから、一度はバラバラになってしまったのであろう、紙袋に詰められた静司へのお土産も。
 静司は本体から外れた警音器のブザーをブーブーと押しながら言った。
「……周一さんは、怪我、しなかった?」
 きょとんとする静司に笑いかける周一の表情は、どこか困っているように見えた。
「不思議とね。木の枝でかすった小さな傷くらいだ。急に落ちたおかげであの化け物も撒けたことだし──えーと静司。そのオナラみたいな音やめてくれる?」
 その言葉にハッとする。
 オナラ──ではなくて「化け物」のほうだ。
 地中に埋まっていた『太歳』。
 災いに目をつけられたのは、一体どちらだったのか。太歳──或いはそれに似たものの記述は、実は歴史上にも様々な所に現れる。だが、それを掘り起こしたり、触れることで災いを被ることは数あれど、太歳そのものが標的を追うなどという話は一切聞いたことがない。ならば太歳とは異なる別の妖だったのか。だが今となってはもはや、確めるすべは無が。
 静司はふと、近くに落ちた習い事用のレッスンバッグの中に無理矢理詰め込んだ、小さな道祖神の胴体が、バラバラに砕けていることに気付いた。
 あの絵文字のような優しい顔をした、静司のお気に入りの道祖神。是が非でも持って帰って金にあかせ、同じ顔を作ってやると企画したにも関わらず──。

「……」
 静司は無言で自分たちが転落したのであろう、切り立った垂直の崖を見上げた。
 そして、砕けた破片に目を落とす。あの高さ──20m以上はある場所から転落したのだから致し方無いと思うと共に、何となく、それだけではないように思われた。多分、周一も、同じようなことを考えていたようだ。

 地方によっては、賽の神を地蔵菩薩と同一視することがある。
 地蔵菩薩は、自ら「仏」になることなく菩薩のままにとどまり、衆生苦しみを除くことを本願とした慈悲の権化である。このため、他の明王、菩薩、如来のように天にあって人々を救うのではなく、剃髪して錫杖を携え、六道を巡って人々を救うものとされた。従って、地蔵菩薩はこの世と常世の道を常に歩いているので、道行く旅人の護り神となってゆき、賽の神、道祖神信仰と結び付いていったのだ。なかんずく、地蔵菩薩はこの世とあの世との境に立って人々を救うものと考えられるようになったという。

「……Hasta la vista」

 静司はポツリと呟いた。
 不謹慎なスペイン語。相変わらずそれしか知らない、ターミネーター2の決め台詞だ。
 道を無くした者に、道を作った路端の神。いずれ地獄に堕ちる自分には、再会の機会もあるやもしれぬ、と。わけも分からず落ちては登り、落ちては登る、このくそったれな人生の行き着く先で。


「……本当に、ロクなことがありませんね」
「そうだね」
「取り敢えず戻ったら──」
 戻「れ」たらの語弊だな、と思いながらも、訂正を入れる気にはなれない。
「石材屋に電話して、彼処に新しい道祖神かお地蔵様を置いてもらいましょうね。いや、それは明日でいいか」
「あー、そうだな」
 粉々じゃ可愛そうだもんな、と棒読みの周一は、薄情なのではなく、もう疲れきっているのだ。あれだけ過酷なサイクリングの後である──致し方あるまい。
「クッキングスタジオ、一日空けちゃったなあ……今日はメニュー何だっけ……」
 言いながらも、静司ももう何も考えていない。ただ夕焼けと、揺れる木々と、チョロチョロとした小川の流れに、ちょっと虚しくなっただけだ。
「周一さん、疲れましたね」
「……ああ」
「ウチでゴハン食べてってくださいね。今日確か栗ご飯炊いてくれるって」
「……ああ」
「ああそうだ。今度、自転車の乗り方教えてよ。周一さん」
「……ああ」
「いい風ですね」
「……ああ」
「ねえ周一さん、ケコーンして」
「……ああ。……あ!?」

 サワサワと、山が笑う。
 天国も地獄も、未だ若き二人には遥か遠きにあり──と。


【了】


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